第三十六話 甘い結婚生活と休暇明けの呼び出し
まさか――とは思っていたけれど、本当にこの二週間、ベッドからまともに出ることなく新婚生活が過ぎ去っていった。
優雅な花嫁の暮らし、などという響きからは程遠く、実際はほぼ廃人のように昼夜逆転しながら、イザークとライナルトの甘やかしと愛情に包まれて、食べて寝て、食べて抱かれて寝て、また起きて……という日々を繰り返していた。
頭のどこかで「このままでいいのか、わたし?」という疑問がちらつくたびに、二人の満ち足りた顔を見ると、「まあ……いっか」と思ってしまったのも事実だった。
けれど今日からは、ようやく二人とも職場へ復帰する日。久々に日中ひとりでのびのびと自由に過ごせる! と、胸の奥で密かにガッツポーズを決めていた――今朝までは。
「イーくん、お仕事がんばってくださいね」
そう囁きながらイザークの頬に口づけを落とし、「ライくんも、いってらっしゃい」
同じようにライナルトにも送りのキスをすると、なぜか二人ともドアの前でぴたりと動きを止めた。
「……行きたくない」
「せめてもう一回だけ、キスしてくれ」
まるで幼子のようにごねる二人を、なんとか優しくなだめ、背中を押し、送り出した頃にはすでにクラリスの体力ゲージは半分以上削れていた。
「……よし、少しくらいベッドでゴロゴロしてもバチは当たらないよね」
ようやく廊下を折り返し、自室に戻ろうとしたそのとき――
「お嬢様……いえ、奥様。本日、昼過ぎに王城より召喚がございます」
執事モーリスが、申し訳なさそうにそう告げた。
「えっ……まさか……私も、もう勤務扱いなの……?」
頭が追いつかないまま、思わず呟く。新婚休暇という言葉は空耳だったのか? のんびり暮らせるはずだったのでは? と嘆いたところで、王命には逆らえない。呼び出しの相手は、マークレン宰相。しかも、召喚状に記された場所は“王城の宰相執務室”。完全に公式案件である。
観念したクラリスは、急いで身支度を整え、馬車に揺られて王城へと向かった。通されたのは、深い青と銀を基調とした重厚な部屋。宰相の私室というよりも、厳粛な儀礼の場のようだった。
「マークレン宰相はただ今席を外しております。紅茶をどうぞ」
出迎えた文官が差し出したカップを受け取り、クラリスは椅子に腰を落ち着けた。
紅茶の香りを味わいながら、心を落ち着かせていると、やがて扉が開いた音がした。
「……まさか、陛下までいらっしゃるとは」
驚いて席を立とうとしたその瞬間、アレクサンダー王が軽く手を振って言った。
「挨拶はよい。……どうだ? 新婚生活は」
いかにも率直すぎる問いかけに、クラリスは眉を引きつらせたものの、何とか言葉を選んで答える。
「つつがなく……過ごしております」
「それはよかった」
そう言って、王はふと視線を和らげた。
「久しぶりにあいつらの顔を見たらな……なんというか、幸せそうだった。無理な願いを叶えてくれて、礼を言う」
その言葉と共に、王はほんのわずかだが頭を下げた――公の場では決してあり得ない仕草だった。
「……ときに、クラリス嬢――いや、“夫人”か。うむ、まだ慣れん。クラリスで良いか」
突然の照れ隠しのような確認に、クラリスは思わず微笑んで頷いた。
「今後、婚家のどちらかに偏ることのないよう、王命にて爵位と家名を新たに与えることとした。“セラフィナ女伯爵”として、新たな家を持て。血筋はその名で繋ぐ。住まいは王城側の別館を用意した。イザーク、ライナルトと共に住むことも許可する。移動や準備は月末までに終わらせよ。明日から勤務だ」
そう言い残し、王は踵を返して執務室を出ていった。
……置いてきぼりである。
クラリスは残されたマークレン宰相の方をちらりと見るが、返ってきたのは薄い笑みと事務的な一言だった。
「明日の予定ですが、まずは業務説明です。貴女が何を、どこまでできるのかを把握する必要がありますので、動きやすい服装でお越しください。出勤時間は、ご主人方と同じです。イザーク殿とライナルト殿にはすでに通達済みです」
質問する間もなく、事務処理のように次々と話が進んでいく。その後、形式的な書類をいくつか渡され、簡単な説明を受けたクラリスは、ようやく王城を後にすることができた。
馬車の中、窓の外に広がる夕暮れの風景をぼんやりと眺めながら、クラリスはそっとため息を漏らした。
「……明日からお仕事かぁ……」
つい数時間前まで、ふかふかの枕でゴロゴロする幸せを噛みしめていたのが嘘のようだった。
でも、どこかでわかっていたのだ。甘い夢のような新婚休暇は、永遠には続かないことを。
けれど不思議と、胸の奥には不安よりも、わずかな期待の灯が灯っていた。イザークとライナルトと共に、仕事をしながら暮らしていける日常。王城という特別な場所で、自分の役割を果たしていく未来。
どんな日々になるのかは分からないが、それもまた、人生の一章だ。
馬車が屋敷に着いたとき、クラリスはすでに明日の支度を心の中で思い描いていた。
新たな生活が、静かに始まろうとしていた。




