第三十二話 終わりと後悔と、新しい関係
あの日、三家族が王の前に集い、未来を共有した時間から幾ばくかの月日が流れ、季節は柔らかな春の気配を帯びていた。クラリスの学園生活もいよいよ終盤に差しかかり、卒業と婚礼まで残すところ一か月を切った。
この日、クラリスは学園で卒業試験の本番を迎えていた。通常よりも二学年分の飛び級を課された彼女にとって、これは並大抵の努力で越えられる壁ではなかったが、彼女は静かにその苦難を乗り越え、同じく卒業を控えた先輩たちとともに難問に挑んでいた。そしてようやく試験が終わり、緊張の糸がほつれるような感覚とともに、彼女は静かに息を吐いた。
思えばこの数か月、日々が勉強と訓練、そして王城での魔法指導と結婚式の準備に追われていた。気づけばイザークやライナルトと顔を合わせたのも、もう二週間は前のこと。会えない時間に寂しさや不満を感じる暇さえないほど、心の余裕もなかった。
人は本当に、手一杯のときには、寂しさを抱くことさえ許されないのだと、クラリスはぼんやりとそんな実感をかみしめた。
重たくなった肩を回しながら、クラリスは借りていた参考書を抱えて図書館へ向かった。返却の手続きを済ませると、ふと気が抜けてしまったようで、こう声をかけた。
「今日は返却だけですが、少しだけ奥の個室をお借りしてもいいでしょうか?」
司書はにこやかに頷き、
「試験お疲れさまでした。ごゆっくりどうぞ」
と言ってくれた。
慣れ親しんだその扉を押し開け、香木の匂いが微かに鼻をくすぐると、クラリスは自然と安堵のため息を漏らした。窓際の席に腰を下ろし、外を眺める。普段なら気にもしなかった景色が、今日はやけに鮮やかだった。
校庭の木々が揺れ、草の香りに混じって、鳥のさえずりが耳をくすぐる。
——こんなにも美しい世界が、すぐそこにあったなんて。
誰かと語らい、甘い菓子を分け合いながら、笑い転げるような日々。セリーヌと行くはずだったスイーツ店、女子たちと計画していた買い物やおしゃべりの時間……そうした時間をすべて諦めてしまったことに、今さらながら気づく。
「もう少しだけ、子供でいたかったな……」
ぽつりと、独り言のようにそう呟いて、クラリスは机に腕をのせ、静かに目を閉じた。
どれほど眠っていただろうか。身体が小刻みに揺れる感覚に気づいて目を開けると、自分が誰かの胸にしがみついていることに気がついた。
反射的に身を引こうとしたそのとき、低く落ち着いた声が耳を打った。
「クラリス、起きたか?」
その声に、クラリスの思考が止まった。「ふぇっ…? なんで、ライナルト団長が……?」
「今日は卒業試験の日だったろう? 君が出てくるのを待っていたんだが、なかなか姿を見せないので探していた。図書館の司書から奥にいると聞いてな。まさか寝ているとは思わなかったが、抱き上げたら君が自然とすり寄ってきたんだ。……前に騎士団の仮眠室でイザークに甘えていた君を見て、うらやましかったんだ。今日は本当に……嬉しかった。君が腕の中にいることを、心から感じられた」
クラリスは恥ずかしさに顔を赤らめながら、ぽつりと打ち明けた。
「本を読むつもりだったの。でもね、窓から外を見たら、学園にこんなに自然があふれてることに初めて気づいて……。ああ、こんなにもったいない日々を過ごしてきたんだなって思ったら、急に眠たくなって……つい、うとうとしてしまって」
ライナルトは静かにクラリスの髪に手をやり、優しく撫でながら言った。
「これからは一緒に、いろんな景色を見に行こう。君が知らなかったものを、一つ一つ一緒に見つけていこう。夫婦として、思い出を重ねながら」
その言葉に心を打たれたクラリスは、ふといたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「ねえ、ライナルト団長? そろそろ夫婦になるんだから、呼び方も変えてみない? イザーク様のこと“イーくん”って呼んでるの。だから、ライナルト団長のことも“ライくん”って呼んでもいいかな? 私のことは……“リズ”で」
ライナルトは一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに優しい微笑を浮かべた。
「……リズ、か。ああ、いいな。君がそう呼んでくれるなら、それが一番嬉しい」
そうして二人はようやく、心の距離を縮めることができた。
ライナルトにとって、今日この時がどれほど待ち望んでいた瞬間だったか。クラリスが試験勉強に夢中になってからというもの、ただ結婚が決まっているというだけでは、彼女との関係をどう築いていいか分からず悩んでいた。あまりに放置されていた日々に、不安がよぎり、結婚そのものが夢だったのではと息子に確かめたほどだった。
けれど、こうして彼女が腕の中で眠り、名前で呼んでくれる。それだけで、十分だった。
ふいに、クラリスがライナルトの顔を見上げ、そっと目を閉じて唇を重ねた。
「……ライくん、かわいい」
その一言が火をつけたように、彼らの口づけはもう一度、そしてまた一度と繰り返され、しばらく馬車の中では、そっと重なる唇が止むことはなかった。




