第二十六話 恋を知った日
クラリスは真っすぐな視線でライナルト団長を見上げ、静かに言葉を紡いだ。
「ライナルト団長様に、お願いがございます。重傷者の完全回復治療に関する技術を、他の治癒士の方々と共に学ぶ機会をいただけませんでしょうか?」
その瞳には冗談や迷いの一切がなかった。団長が返答を考える間もなく、イザークがため息混じりに説明を引き取った。
「……今日の治療で、クラリスはなにか試したいことがあると話をして、自分の魔力を使ってみたんだ。普通の治癒士は傷を“外側から”捉えて治そうとする。でも、クラリスは“内側”の構造を把握してから、魔力を流し込んで……ただ修復するんじゃなくて、壊れた部分を一から“再構築”した。……それで、ゼノンの視力を完全に回復させた」
「……そんな報告は、受けてないんだが」
ライナルトの声に、イザークは肩をすくめた。
「今、ちょうどサリエル医師たちが治癒士たちと、その説明をどうするか相談してる最中だ。あれは簡単に理解できる話じゃないからな」
ふたりの会話が本格的になり始めた頃、クラリスは少し後ろに下がって椅子に腰を下ろし、大人しく話し合いの行方を待っていた。けれど、長引く議論の間に疲れが勝ったのか、ふと見ると彼女は小さく丸くなって静かに目を閉じていた。
「……寝てるな」
イザークがそっと近づき、彼女の肩に自分の肩を貸そうと腕を回した瞬間だった。クラリスはその腕に自然と身を預け、まるで甘えるように抱きついてきた。細い腕が彼の首にまわされ、すっかり夢の中のようだ。
「いーくん……ごはん……やさい……」
子どもが甘えるような、くぐもった声でそう呟いたクラリスは、イザークの首に頬をすり寄せてきて、そのまま静かになった。そんな姿に、ライナルトは一瞬だけ言葉を失い、そして少し間をおいて苦笑を浮かべた。
「……クラリス嬢も今日はよく頑張った。話はここまでにしよう」
「ああ。また、改めてな」
イザークは、腕の中のクラリスをそっと横抱きにして立ち上がる。その仕草はまるで、宝石を扱うかのように慎重で、同時に大切なものを胸に抱く誇らしさと喜びがにじんでいた。
それを見ていたライナルトは、思わず目を伏せた。どうして、自分ではダメだったのか――そんな思いが、胸の奥に残ったままだった。
馬車の中でも、クラリスは目を覚ますことはなかった。彼女はただ、イザークの胸の中に身を預けたまま、安らかな寝息を立てている。その様子を見ながら、イザークはかすかに笑い、そして小さく囁いた。
「……クラリス、好きだよ」
耳元に落ちるその言葉に、くすぐったそうに頬を緩めながら、クラリスはふふっと笑った。けれど、目を覚ます気配はない。
やがてエルバーデ家に着き、彼女を送り届けたものの、クラリスは起きるどころか、イザークの首から腕を外そうとすると、寝たままイヤイヤと首を振って離れようとしない。どうにも困っていると、屋敷の中から現れた長兄アデルが苦笑しながら近づき、まるで慣れた様子で声をかけた。
「大丈夫、こういうときのクラリスは俺に任せて」
そう言ってアデルは手際よくクラリスの腕を自分の首へと移し、そのまま抱きかかえて彼女の部屋へと連れて行った。家族たちは特に驚いた様子もなく、むしろ微笑ましく思っているようだった。
「クラリスは、普段ほとんど甘えないんですけど、泣きそうなときとか、寝ぼけたときは、ああして自然に出ちゃうんですよ」
両親の話にイザークは頷きつつ、胸の奥にじんわりと熱を抱えていた。今日、自分の知らなかった彼女の一面を見た気がする――無邪気で、無防備で、素直な感情がそのまま表に出てくる彼女。それを抱きしめたときのぬくもりが、まだ腕の中に残っていた。
別れ際、クラリスの様子を丁寧に伝え、明日また迎えに来る予定であることを告げて、屋敷を後にした。馬車に揺られながら、ふと腕を見つめる。
たった今まで確かにいた、彼女の温もり――それがもうここにはないと思うと、胸の奥がきゅうっと締めつけられるようだった。
こんなにも誰かの存在を求める気持ち。こんなにも、寂しいと感じること。
ようやく、理解した。
「……これが、恋というものか」
イザークは独り言のように呟きながら、そっと目を閉じた。




