第九話 モブ令嬢、ついに氷の矢を放つ
魔法師団が王都を離れて三日が経った。
団長が遠征へ出ていると知ったその日から、私は毎朝、短く祈るのを日課にしていた。今日もどうか、無事でいらっしゃいますように——と、手を組んで心の中で念じる。
学園の生活自体は、概ね平和だった。この時までは、確かにそう思っていたのだ。
「クラリス様、次の授業、上階の第五教室ですね。先に向かいましょうか」
「ええ、そうしましょう」
友人たちと談笑しながら階段を上っていた、その時。
「ちょっと、待ってよ……!」
「いい加減にしろって言ってるだろ!」
耳に響くような声が階段の踊り場から響いた。
見れば、少し上の段で三人の生徒が言い争っていた。騎士団長の令息、レオン・バークレーと、その婚約者である伯爵令嬢エレナ。そして——またもや、ミレーヌ・ハートリー男爵令嬢。
「……また、揉めてるの……」
眉間にシワが寄るのを自覚しながらも、私は冷静を装って足を進めた。が、階段で痴話喧嘩を始めるなど、正直危なすぎる。何より、迷惑だ。
レオンがエレナの手を払おうとしたその瞬間——空振りした彼の腕が、私の隣にいた友人にぶつかった。
「きゃっ……!」
友人がバランスを崩し、私はすぐさま彼女の腕を掴んだ。支えるように体を動かした瞬間、逆に自分の足元が滑った。
「——っ!」
一瞬、視界が揺れ、背中に硬い衝撃が走った。数段、滑るように落ちた私は、階下でぴたりと動きを止めた。
ざわ……っと周囲の空気が揺れる。
「クラリス様……!」
駆け寄ってくるクラスメートたちの声を聞きながら、私は上体を起こし、ほこりを払いながら静かに微笑んだ。
「大丈夫ですわ。……ご心配、ありがとうございます」
一瞬、息を呑んだように静まり返る空気。私はそっと、自らの打ち付けた背中とヒビが入った足首に魔力を流し、転倒の際に身体に受けた打撲の痛みを瞬時に癒した。
そのまま、静かに立ち上がり、階段を再び上る。
先ほど揉めていた三人は、その場で目を見張ったまま固まっていた。
私の足音だけが、階段に響く。
そして——三人の目の前に立った私は、ゆっくりと口を開いた。
「……階段で騒ぐのは、おやめになってくださいませ。周囲にとって危険です」
淡々とした声。けれど、自分でも分かる。感情が滲んでいた。
「痴話喧嘩に周りを巻き込むなど、あまりにも無責任ではありませんこと?」
三人とも、一言も返せずにいた。
「ミレーヌ・ハートリー嬢。あちらこちらで問題を起こすのは、もうお止めくださいな。……周囲の迷惑です」
はっきりと、そう言い切った。周囲から小さく息を呑む音が聞こえた。
「そして、レオン・バークレー様。……婚約者を前に他の女性と揉め事を起こすのも、十分に軽率です。これ以上事が大きくなれば、家同士の契約も、補償も、破綻をきたしますわ。それを——あなたが背負えるのですか?」
その場の空気が、冷気を帯びたように凍りつく。
エレナも、ミレーヌも、レオンも、言葉を失っていた。
いつもとは違う私の、まるで氷のような口調と眼差しに。
けれど、誰も否定できなかった。なぜなら、私が言ったことは、すべて“正論”だったから。
「……先輩方。どうか、今後は周囲への配慮を」
その一言を残して、私は小さく微笑んだ。
けれど、それはいつものたおやかな笑みではない。ほんの少し、怒りの残る静かな笑みだった。
「ごきげんよう」
そう言ってその場を離れようとした瞬間、後ろから——
ぱち……ぱち……と、拍手が起こった。
最初は小さく。けれどすぐに、教室へと続く階段中に広がっていった。
私は立ち止まらず、そのまま振り返らずに歩いた。
「クラリス様、すごかったです……!」
「まさかあそこまで言うなんて……でも、正しい事をおっしゃってました!」
「ちょっとカッコよすぎません……?」
慌てて追いかけてくる友人たちに囲まれながら、私は一つだけ深く息を吐いた。
(……やりすぎたかしら)
それでも、抑えきれなかったのだ。
周囲への迷惑を省みず、好き勝手に騒ぎを起こす彼らを、私は許せなかった。
団長がいない今、私の心にはぽっかりと穴が開いていた。
だからこそ、乱れた空気に余計に敏感になっていたのかもしれない。
でも、これだけは確かだった。
——私はもう、ただのモブ令嬢ではいられないのかもしれない。




