勇者の中の勇者
『俺は勇者になる』
俺がそう宣言したのはいつのころだったろうか。
幼いころの記憶。自分は何にでもなれると信じて疑わなかった童心。
意識がまどろみの中にいた。
ふわふわとした夢心地。寝ているのか起きているのか曖昧な世界。
『うん。きっと君ならなれるよ』
舌足らずの声がまどろみの世界に響く。
それは幼馴染の彼女の心地の良い声。大人になった今より随分と幼い声音。
村の大人たちは俺の夢を笑った。大人になった俺も過去の俺を笑った。
だが彼女だけは笑わなかった。いつも馬鹿正直に頷いては、俺を甘やかした。
俺が家の近所で走り回った末にこけて、彼女の家の前で泣いていた俺の傷を彼女が魔法で治して始まった俺たちの縁。
彼女の両親は家を空けがちであったため、彼女が俺の家に、あるいは俺が彼女の家に入り浸るようなった。
俺たちはすぐに気の置けない存在になった。
彼女はいつも『怪物』『化物』と呼ばれ、恐れられてきた。それは年長者の大人たち含めて。誰もが彼女を腫れ物のように扱った。
たしかに昔から彼女は少し、いや、かなり人並み外れた力を持っていた。人並みなんて言葉では足りないほどの。だが、そんなことはどうでもよかった。
俺にとっては『怪物』だろうが『化物』だろうが、彼女は彼女以外の何物でもなかった。
そんなある日のこと。彼女の両親の訃報が村に届けられた。
その知らせを受け取った村の大人たちは、彼女を奴隷商へ引き渡すと言う。
たまたまその話を耳にしてしまった俺は、いてもたってもいられず、その日のうちに彼女の手を引いて、彼女への偏見に凝り固まった村から飛び出した。
悲しかった。彼女の両親が死んだというのに、大人たちが嬉々として彼女を村から追い出そうとした事実に。その主導者が自身の両親であったことに。
それまでに貯めていたなけなしの小遣いをはたいて、乗合馬車で王都へ。
たまたま乗り合わせた乗客に魔法学園の教師がいて、その推薦で私たちはとんとん拍子に学園へと入学することができた。
それも遠い過去。あれから随分と時が流れた。
過去に思いを馳せていたら、誰かに名前を呼ばれた気がした。
脳内に響いた声と似ているが随分と大人びた声音。それに、その声は脳内ではなく耳朶を揺らしていた。
目を開くことすら億劫だ。
このまま入り混じった意識に溺れていたい。
そんな考えが頭をよぎった。
ただ、どうも俺の名前を呼が呼ばれているのはどうも幻聴ではないらしい。
すべてが曖昧な世界の中で、唯一その声だけは次第にはっきりと聞こえてくる。
ひどくなじみのある声だった。
瞳を開けるまでもない。その声の主が幼馴染の彼女であることは。
天才で馬鹿で、泣き虫で強がりな彼女のことはよく知っている。
疎遠な時期もあり、またこうして肩を並べることができるとは、そのころには思いもよらなかった。
四六時中一緒にいた幼少期を終え、魔法学園に入学すると次第に俺たちの関係は疎遠なものになった。
ひとつ言い訳をするのなら、身も心も成長期だったのだ。
『お前あいつの彼女だろ?』
そう同級生から冷やかされたとき、
『そんなんじゃねーし!』
俺は強がってそれを否定した。
日に日に綺麗になっていく幼馴染は自慢でもあったが、周囲から茶化されるのはちっぽけな自尊心が許さなかった。
――あんな幼馴染が欲しい。
――あの子と幼馴染っていいよな。
――俺も幼馴染に生まれていればな。
俺が彼女の隣にいたのはただの偶然だと。
俺は彼女の隣には相応しくないと、そう言われているようで。
彼女の周囲の学友たちもまた、彼女にふさわしく才色兼備で家柄もよかった。
それがいっそう俺をみじめな存在に感じさせた。
――王子とはお似合いよね。
――美男美女って絵になるわ。
――付き合う人は選ばないといけないわね。
俺と彼女とは住む世界が違う。すぐに俺はその事実に気づかされた。
彼女には俺にはない才能があった。
村では俺以外に評価する者がいなかったその才能は、水を得た魚のごとく、遺憾なく発揮された。賞賛の声が彼女を包む。俺の声も学園では歓声の一つに過ぎない。
俺は彼女はっきりと距離を置くようになった。
彼女を諦めたわけではない。その逆である。
彼女の隣へ相応しい男になれるように、鍛錬に打ち込みはじめたのだ。
同級生の誰よりも早く起きて、朝練におもむき、誰よりも遅くまで放課後も鍛錬に費やした。
それでも、才能の壁というものは残酷だった。
彼女と彼女の友人たちは、いつも優秀な成績を集め、俺はその後塵を拝し続けた。
次こそは、次こそは……。
そう信じ、涙を呑んで足掻き続けているうちに月日だけが流れていった。
俺と彼女の会話は目に見えて減った。
彼女に相応しい男になって、大手を振って彼女の隣に立ちたかった。そのために、すべての遊びを絶ち、いっそう鍛錬に打ち込んだ
そんなか、学園行事で彼女と本気の手合わせをする機会に恵まれた。
彼女に知ってほしかった。一人じゃないと。俺も強くなったんだと。俺が隣に立って彼女を守るんだと。俺が国を救う勇者になるんだと。
俺はどこまでも傲慢だった。
そんなつもりがなかったと言うことは簡単だ。
つまるところ、俺はどこまでいっても自分本位の存在だったのだ。
彼女に完膚なきまでに打ちのめされた翌日。俺はその傲慢の代償を支払わなければならなかった。
俺は彼女と目を合わせることができなかった。
公衆の面前で恥をかかされたことはどうでもよかった。ただ、彼女の隣に立つ実力がない。その事実に打ちのめされ、彼女に合わせる顔がなかった。
もう俺には彼女の隣に立つ資格がなかった。俺が彼女にしてあげられることが何もない。俺は勇者にはなれない。俺はどこまでも無力だった。
卒業式の日。
退寮のための荷造りを終えた俺は、導かれるように学園の中庭で彼女と再会を果たした。
かける言葉がみつからず、立ち去ろうと踵を返した俺に向かって、
『一緒に来てほしい』
彼女は俺をまっすぐに見つめて、そう言葉をよこした。
聞くと、大陸を席巻しつつあった隣国に対する秘密任務が王様直々に彼女へ与えられたらしい。
そのため仲間を集めているという。
彼女には俺の傍にいてほしかった。他の誰でもない、俺には彼女が必要だった。
彼女は、公主を倒す旅についてきて欲しいと口を開いた。
だが――俺はそれを断った。
立っていた足元が、世界が崩れたように感じた。
あれ以上の恐怖を俺は知らない。彼女がどういう顔をしているのか怖くて、彼女の顔を見ることができなかった。
俺の言葉に彼女は簡単に引き下がった。
彼女の中の俺は、俺の中の彼女ほど大きくなかったようだ。
俺は身のほどを知っていた。それを認めざるを得なかった。
もたざるものは、もつものに勝てないと。
彼女とは一緒にいたい。だが、俺には最後まで彼女に及ばなかった自分の実力に自信がなかった。彼女はそれを気にしないだろう。それでも、彼女の足手まといになることだけは死んでも嫌だ。俺の実力不足のせいで、彼女が死ぬことが心の底から怖かった。
縋るような彼女の視線を断腸の思いで振り切ったその日の夜は、自身の無力さに打つひしがれて眠ることができなかった。
俺は未練に後ろ髪を引かれながら、魔法協会で働き始めた。
それから数年、各地の戦場へと赴くことになった彼女とは会う機会はなかった。
戦争の激しさが増し、暗鬱となる王国の情勢の中で、たびたび彼女の名前が王国新聞にあらわれては人々の心を奮い立たせた。
やれ、○○を打ち取った。やれ××の危機を救っただの。
”勇者”――いつしか人は彼女をそう呼んだ。
これまでにも勇者と呼ばれてきた者たちはいたが、その中でも実力は抜きんでていると。
――勇者の中の勇者だと。
そんなことはどうでもよかった。
国中が彼女による王国の救済を願う中、ただ俺は彼女の無事を願った。
ただ、無事で帰ってきてくれればそれでよかった。
ここにいたってようやく俺は自分の想いに気がつくことができた。
――彼女を愛していることに。
一度認めてしまうと、その感情はスッと胸にはまった。なぜ俺がこうも彼女の存在に心を動かされるのか。それがすべての答えだったのだ。
国威高揚のためか定期的にばらまかれる彼女の活躍だけが、彼女の無事を知るよすがであった。
流れる月日と共に、俺の部屋は切り抜いた彼女の紙面で埋め尽くされていった。彼女の軌跡、彼女の足跡、彼女の無事な姿。
一度だけ手紙を出したこともあった。自分の行為がひどく未練がましく感じ、差出人の名前すら書けなかったが。
そんなある日、いつものように仕事を終え、家に帰ってくると彼女がいた。
あの日から変わらない、いや、数多の戦場をくぐり抜けたからか幾分か大人びた彼女。
それは俺がかけるべき言葉だというのに、呆ける俺に彼女は口を開いた。
「おかえり」
§
長年連れ添った声により世界へ引き留められた。
薄っすらと目を開けると、そこには整った顔立ちの美少女がいた。
少女、というには見た目はともかく年齢的には怪しいものがあるが。
「……ただいま。悪いウトウトしてた」
「まったく勇者の膝の上を占領しておいていい気なもんだね」
その言葉にはとげがあるが、その声と瞳はどこまでも優しかった。
まるで壊れ物を扱うかのように、彼女の手が俺のがさついた髪を撫でる。
戦闘を終えたばかり、砂塵を含んだ俺の髪は普段よりいっそう触り心地が悪いことだろう。
何がいいのか。
触るのであれば彼女の絹のような銀髪のほうがよっぽどいい。
戦闘後にもかかわらず、彼女の髪を持ち上げるとサラサラと手からこぼれ、摘まむと弾力となめらかさが心地よい。
彼女はくすぐったそうに笑うと、
「君は本当に私の髪を触るのが好きだな」
「艶があって、気持ちいいんだよ」
俺はその感覚の虜だ。
「君は帰ったらどうするか考えた?」
「ゆっくり過ごしたいな。少し、疲れた」
「もう七年になるもんね。この旅も」
彼女に引っ張り出されたあの日から。
「それも、あと少し、だな」
「うん。あと一人。あと一人討てば、間違いなく公国は王国に手出しをできなくなる」
魔人と呼ばれる魔法に長けた種族が収める公国と、公主と呼ばれるその三人の長たち。
つい今しがたなんとか仕留めたその一角。だが、その代償も大きかった。
”勇者”と呼ばれる前は”氷姫”と呼ばれていた彼女。
喜怒哀楽を出すことが少なく、水魔法の発展魔法である氷魔法を好んで使うことからついた二つ名。
魔法の天才とも呼ばれ、さらには剣術、格闘戦もこなせるという超ド級の戦士。
そんな彼女が卒業以来、勇者として各地で経験値を稼いで挑んでもなお、首の皮一枚の勝利であった公主の実力は推して図るべし。
彼女の顔色はよくない。
むしろ次第に悪くなっているといっても過言ではない。
「おい、やすんだら、どう、だ?」
「うん。もう少ししたらね」
言い出したら昔から聞かないやつだ。
そんな彼女が愛おしくて、俺は髪を撫でていた手を動かし、彼女の頬に触れる。
触れた彼女の頬は、生気を失いつつある表情に反して燃えるように熱かった。
§
膝の上で瞳を閉じる幼馴染の名前を繰り返し呼びかける。
何度も呼び続けてようやくお目覚めのようだ。
「おかえり」
私の膝の上で薄っすらと目を開ける茶髪緑眼の少年。
少年、というには見た目はともかく年齢的には怪しいのだけれど。
「……ただいま。悪いウトウトしてた」
「まったく勇者の膝の上を占領しておいていい気なもんだね」
彼は悪びれた様子もなくそう言ってのけた。彼はいつもそうだ。私の気持ちも知らないで。
私は微笑みながら、彼の男らしく固い髪を優しく撫でる。
戦闘を終えたばかり、砂塵を含んだ彼の髪はいつもより手ごたえを感じさせた。それだけ彼はがんばったのだ。
それがいいのだ。
触るのであれば、彼の針金のような癖のある茶髪のほうがよっぽどいい。チクチクした感触が心地よい。
彼は膝の上に寝そべったまま、おもむろに私の顔へ手を差し伸べると、私の髪を持ち上げ、指先で優しく毛束を摘まみこすり合わせ始める。
私はくすぐったくて笑うと、
「君は本当に私の髪を触るのが好きだな」
「艶があって、気持ちいいんだよ」
なにがいいのかわからないが、彼はその感覚の虜のようだ。
「君は帰ったらどうするか考えた?」
「ゆっくり過ごしたいな。少し、疲れた」
「もう七年になるもんね。この旅も」
彼を引っ張り出したあの日から。
「それも、あと少し、だな」
「うん。あと一人。あと一人討てば、間違いなく公国は王国に手出しをできなくなる」
魔人と呼ばれる魔法に長けた種族が収める公国と、公主と呼ばれるその三人の長たち。
つい今しがたなんとか仕留めたその一角。だが、その代償も大きかった。
学生時代は”鉄人”と呼ばれていた彼。
喜怒哀楽を出すことが少なく、鍛錬に打ち込み続けたことからついた二つ名。
努力の秀才とも呼ばれ、さらには剣術、格闘戦もこなせるという頼りになる戦士。
そんな彼は卒業以来、事務作業の仕事についていており、そのブランクがあっても公主の一人を打ち倒すことに貢献した彼の実力は推して図るべし。
彼の顔色はよくない。
むしろ次第に悪くなっているといっても過言ではない。
「おい、やすんだら、どう、だ?」
「うん。もう少ししたらね」
もう少ししたら。そんな未来が目の前の彼に訪れないことを願って。
目の前の彼は髪を撫でていた手を動かし、私の頬に触れる。
触れた彼の手は、いつも通りの表情に反して凍えるように冷たかった。
§
『俺は勇者になる』
彼がそう宣言したのはいつのころだったろうか。
幼いころの記憶。私を救ってくれた彼の言葉。
意識がまどろみの中にいた。
ふわふわとした夢心地。寝ているのか起きているのか曖昧な世界。
『うん。きっと君ならなれるよ』
舌足らずの声がまどろみの世界に響く。
それは幼馴染の彼に向けた私の言葉。記憶の中の彼は大人になった今より随分と幼い容姿をしていた。
村の大人たちは彼の夢を笑った。大人になった彼も過去の彼を笑った。
だが私は笑わなかった。私は彼こそが勇者だと信じているのだから。
私が独りで留守番をしているときに、家の前で泣いていた彼の傷を魔法で治して始まった縁。
両親は家を空けがちであったため、私が彼の家に、あるいは彼が私の家に入り浸るようなった。
私たちはすぐに気の置けない存在になった。
私はいつも『怪物』『化物』と呼ばれ、恐れられてきた。それは年長者の大人たち含めて。誰もが私を腫れ物のように扱った。
私は物心ついたときから、すでに魔法が使えていた。
私にとって魔法とは歩く、屈む、立ち上がるぐらいの存在であった。だが、世界はそうではなかった。幼少期の私にはそれがわからなかった。
怪我をしたのであれば、魔法で治せばいい。わざわざお金を払って、薬草を集めて、時間をかけて調合して、さらには回復まで時間をかける必要性がどこにあるのか。私は本気でそう思っていた。
両親は滅多に家には帰らず、村の大人たちは私を不気味がって近寄りたがらない。私が彼以外の村の人と折り合いが悪いのは当然だった。
そんなある日のこと。私の両親の訃報が村に届けられた。
その知らせから間もなく、彼が私を村から連れ出した。
彼曰く、村の大人たちが私を奴隷商へ引き渡すと言っていたと。そんなことはさせないと。俺と一緒に村を出ようと。
嬉しかった。彼が私の手を引いてくれたことが。彼が生まれ育った村や家族より私を選んでくれた事実が。
両親が死んだというにもかかわらず、そんな考えが支配した私はやはり怪物なのかもしれない。
彼に手を引かれて、乗合馬車で王都へ。
たまたま乗り合わせた乗客に魔法学園の教師がいて、その推薦で私たちはとんとん拍子に学園へと入学することができた。
それも遠い過去。あれから随分と時が流れた。
過去に思いを馳せながら、彼の名前を繰り返し呼ぶ。
私の声もあのころと比べれば変わってしまった。でも、その声にこもる想いまでは変わらない。
このままなんて許さない。
急がなくてもいい。ただその目を開いて欲しい。開いた瞳に私が映っていてほしい。
そんな考えが頭をよぎった。
私の声以外だけ響く室内で、繰り返し繰り返し何度も呼びかけていると、ピクリとまぶたが反応を見せた。
いつもそうだ。彼はなんだかんだ言って最後には私の期待に応えてくれる。
意地っ張りで意気地なしで、優しくて強情な彼のことはよく知っている。
疎遠な時期もあり、またこうして肩を並べることができるとは、そのころには思いもよらなかった。
四六時中一緒にいた幼少期を終え、魔法学園に入学すると次第に私たちの関係は疎遠なものになった。
ひとつ言い訳をするのなら、身も心も成長期だったのだ。
『お前あいつの彼女だろ?』
そう彼が同級生から冷やかされたとき、
『そんなんじゃねーし!』
彼はそれを否定した。それはきっと私の魅力が足りないから。
私は彼の自慢の幼馴染でありたかった。ほかでもない彼にとっての特別でありたかった。
――あんな幼馴染が欲しい。
――あの子と幼馴染っていいよな。
――俺も幼馴染に生まれていればな。
私が彼の隣にいたのはただの偶然だと。
私は彼の隣には相応しくないと、そう言われないように。
私の周囲の学友たちもまたそんな私の思いを尊重してくれた。
それがいっそう私にとって彼を特別な存在に感じさせた。
――彼とはお似合いよね。
――幼馴染って絵になるわ。
――彼のような人を選ばないといけないわね。
私たちを妨げるものなど何もない。
彼が私とはっきりと距離を置くようになるまで、私は本気でそう思っていた。
村では彼以外に評価する者がいなかった私の才能は学園で高く評価された。賞賛の声が私を包んだ。だが、そんなものはどうでもよかった。私が聞きたいのは彼の声だけだった。美辞麗句を並べ立てた賛辞より、彼の一言が聞きたかった。
魔法学園への入学からいくばくかして、彼は鍛錬に打ち込みはじめた。
同級生の誰よりも早く起きて朝練におもむき、誰よりも遅くまで放課後も鍛錬に費やした。
彼の成績は、試験を追うごとに目に見えて向上した。
その出自を考えれば考えられないほどに。誰も彼を無視できなかった。
次は抜かれるのではないか、次は負けてしまうのではないか……。
貴族の子女たちにもいつしか彼の存在はよい刺激になっていた。
私と彼の会話は目に見えて減った。
それはまだ耐えられた。
だが、いつしか彼の顔から笑顔が消え、次第に険しい表情が増えた。
私はそれに耐えられなかった。
私は学園に根回しをし、彼と学園行事で本気の手合わせをした。
彼に知ってほしかった。そんなに頑張らなくてもいいんだと。私も強くなったんだと。今度は私が君を守るんだと。勇者になる夢も私が代わりに叶えて上げられるんだと。
私はどこまでも傲慢だった。
そんなつもりがなかったと言うことは簡単だ。
つまるところ、私はどこまでいっても人の心がわからない怪物だった。
彼を完膚なきまでに打ちのめした翌日。私はその傲慢の代償を支払わなければならなかった。
公衆の面前で恥をかかされた彼は、もう私と目を合わせることさえしなくなった。
私はただ彼に隣に立っていてほしかった。何もなくていい。何者でもなくていい。ただそれだけでよかった。
卒業式の日。
私は彼と会えるかもしれないという一念で学園の中庭に訪れ、そこで彼と再会を果たした。
立ち去ろうと踵を返した彼に向かって、
『一緒に来てほしい』
私は彼をまっすぐに見つめて、そう言葉をよこした。
聞くと、彼は卒業後には魔法協会の事務職に就くという。
彼には私の傍にいてほしかった。他の誰でもない、私には彼が必要だった。
学生時代に膨れ上がった想いとともに、私とともに公主を倒す旅についてきて欲しいとお願いした。
だが――彼はそれを断った。
立っていた足元が、世界が崩れたように感じた。
あれ以上の恐怖を私は知らない。のちに無手で魔物の大群に囲まれたとき、補給線を絶たれて籠城戦を強いられたときに心が折られなかったのは、ひとえにこのときの心の傷には遠く及ばなかったからである。
彼の中の私は、私の中の彼ほど大きくなかったようだ。
私は認めざるを得なかった。惚れた弱み。
もつものは、もたざるのに勝てないと。
幽鬼のような足取り帰ったその日の夜は、自身の無力さに打つひしがれて眠ることができなかった。
私は未練に後ろ髪を引かれながら、それでも仲間を集め、公主を討つべく動き始めた。
それから数年、各地の戦場へと赴くことになった私は彼と会う機会はなかった。
私は戦争のいつ死ぬかともわからぬ死線に身を置いた。
敵も味方も死に物狂いだ。高名な騎士を打ち取り、賢明な××を打ち破った。
”勇者”――いつしか人は私をそう呼んだ。
これまでにも勇者と呼ばれてきた者たちはいたが、その中でも実力が抜きんでていると。
――勇者の中の勇者だと。
そんなことはどうでもよかった。
国中が私による王国の救済を願う中、ただ私は彼の無事を願った。
ただ、彼が無事でいてくれればそれでよかった。そのために私は戦い続けた。
鈍い彼は私のかかえるこの想いに気づくことはあるのだろうか。
――私が彼を愛していることに。
その感情こそが、私の原動力だった。なぜ私がこうも戦えるのか。それがすべての答えだった。
連日のように新聞記者たちが押し寄せるが、正直、世界がどうだとか王国がどうだとかは私にとってはどうでもいい。
ただどこかで読んでいてくれているかもしれない君だけに向けて、私は元気だと、君の幼馴染は凄いんだと、王国新聞の紙面を通じて私は叫び続けた。
月日が流れ、私の心が擦り切れ荒んでいたころに、ある手紙が届けられた。
ある日、滞在先に届いた差出人不明の手紙。旅の仲間たちはそれを訝しみ捨てようとしたが、私はそれを制止した。なぜならその手紙からは彼の匂いがしたからだ。
それはたった一文。
『無事に帰ってこい』
およそ勇者へ向ける言葉に相応しくない言葉。誰もが勇者の活躍を願い、美辞麗句を謳い私を戦地へと送り出してきたというのに、これはなんだ。
安っぽい紙切れに、書かれた帰りを待つ声。書き出してから何を書くか悩んだのだろう。滲んだ一文字目。手紙というものに書きなれていないのだろう。ガタガタの文字列は斜めにずれてさえいた。
ただそれは紛れもない彼の字だった。
それを見たとき、いてもたってもいられなかった。
私はすべてを投げ出し故郷へと帰った。彼のいる家へと。
あの日から変わらない、いや、社会にもまれたからか大人びた彼。
いきなり現れた私に、彼は目を見開いて固まっていた。
「おかえり」
§
彼女が聞いたその言葉は夢か現か。
再び目をあけて彼女は、膝の上に頭を置く彼女を優しい眼差しで見つめる。
意識を取り戻した彼女に呼応するように、弱まっていた彼女の手の光が強くなる。
光は彼の腹部へと吸い込まれていくと、彼の表情は生気を取り戻し、彼女の表情は青白く染まっていく。
「私、寝て、た……?」
「ほんのすこし」
「夢を見たの」
「どんな?」
「私と君の」
「いいゆめだ」
「うん」
「私はサイコ―な彼女だったでしょ?」
「サイコの間違いだろう? 帰ってくるなり『一緒に世界を救おう』だなんて」
「私が彼女なのはいいんだ」
「お前が彼女なのがいいんだ」
「そっか」
「そうだ」
彼女の手の光が次第に弱弱しくなる。息遣いも荒くなっていた。
ここまで休まず魔法を使い続けているのだ。その限界が近い。
「さむくなってきたね」
「さむくなってきたな」
「ねむっちゃだめだよ」
「でもねむたいんだよ」
「それでもだめ」
「そっか」
「そうだ」
「まねした?」
「まねした」
彼が笑うと、つられて彼女も笑う。
彼女の手が放つ光はますます弱まり、小刻みに震えだす。
それでも彼女は、彼に光を与えることをやめない。
「なぁ」
「なに?」
「どうして、俺だったんだ?」
「どうしてって、どうして?」
「おれは、天才でも、なんでもない」
「知っているよ」
「おれには、せかいを、すくえない」
「それも知ってるよ」
「それなら、どうして?」
「やさしいから」
「え?」
「真面目にやさしいから」
「ふつー、だよ」
「君には世界は救えないのかもしれない」
「あらためて、いわれると、きずつく、なぁ」
「でも、その優しさが私を救った」
「あらため、て、いわれる、と、てれる、なぁ」
「君に救われた私が世界を救うよ」
「そう、か……」
「君の優しさが私に世界を救わせたんだ」
「は、はは、それ、いい、な……」
「だから、その優しさを悔いないで」
「くい……んか……よ……」
「ねぇ……何か言って?」
彼女の腕の中で彼が瞬く間に熱を失っていく。
「なんでもいいの」
彼の頬に、熱をもった雫が打つ。
「ぉ……、お……が……だ」
言葉にならない言葉。
だが、彼女にだけはそのすべてがわかった。
「ふふ、今ごろかい? ばかだね――私もだよ」
彼女もまた笑った。顔をくしゃくしゃに歪めながら笑った。
それを見て力を振り絞るように、だがたしかに、彼もまた笑い返した。
それからいくら彼女の雫が彼の顔を濡らそうが、彼が言葉を返すことはなかった。
彼女の手に宿っていた光はすっかり途切れていた。
そして、その光に繋がれていた彼の命もまた。
彼は逝ってしまった。彼女を置いて。遠く遠く言葉も交わせないほど遠い所へと。
「君と出会いたくなんてなかった。そうすればこんな想いを知らずに生きられたのに」
知らなかった。人を想うことがこんなにも辛いことだなんて。
「君と出会えて本当によかった。そうすることでこの想いを抱えて生きられるから」
知らなかった。人を想うことがこんなにも幸せなことだなんて。
こと切れてなお彼女を見つめ続ける彼の瞼に、彼女はそっと震える手をかざし、彼の瞳を閉じた。
彼女の涙が彼の目じりに落ちると、それはまるで彼の涙のようにこめかみを伝った。
二つの影が一度だけ交差する。
それが最期だと影も知っていたかのようにゆっくりと。その交わりを惜しむように。
彼女は宝物を扱うかのように、丁重な手つきで彼の頭を腿の上から降ろすと、よろよろとした足取りで立ちあがった。
魔法を唱えると彼の眠る部屋を一瞬で氷漬けにする。
それは永久に解けない絶対零度の氷魔法。術者が死んでも残るほどの最高位の魔法。
誰も彼に触れられないように、誰も彼の眠りを妨げないように。
氷の下で穏やかに眠るような表情の彼に、その足がその場に縫い付けられたかのように、しばらく彼を見下ろし続けた彼女であったが、ようやく部屋を後にする。
彼の残る部屋を去る際に、後ろ髪を引かれるようにもう一度だけ振り返る。
「いってきます」
彼はいつだって彼女に勇気をくれていた。
『いってらっしゃい』
今だって立ち止まってしまいそうになる背中を、彼は優しく送り出していた。
彼女にとっては彼こそが勇者だった。
みんな誰かにとってのヒーローです。