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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

マロンマキアート

作者: 優一

一、アッシュ




「外れたッ、誰か留めてェ」

 乃愛が高い声を出した。間もなく遼子が乃愛の体操着の中に手を入れてブラのホックを直す。乃愛のホックはいつも外れている。サイズ間違っているんじゃないの、と思ったが口には出さない。

「それサイズ違うんじゃねーの?」美央だ。「もっとおっぱいおっきいのが着けるやつじゃね?」

 美央の声は通る。周囲のクラスメートが笑っている。私もつられて顔を歪ませた。ふと、紗織を見る。紗織は笑っていない。泣きたくなるような感情に襲われ、笑うのをやめた。私の想い人は無駄な会話や笑いをきらう。


 乃愛、美央、遼子、私、そして紗織。私たち五人は所謂「仲良しグループ」だ。仲良しといっても本当に仲良しなのかは分からない。ただ、グループであることは間違いない。お昼を一緒に食べたり、こうやって体育の時間、先生がいないのをいいことにランニングをサボったりする仲間だ。グループの構成員の一人、美央は、発言力のある娘で、クラスのピラミッドの頂点に立つ少女だった。彼女のグループに所属できたのは幸運だと思う。本来ならば、美央は私の苦手なタイプだ。

「暑いね」

 差し障りのない一言をぽつりと吐いて紗織を見た。すっげえ暑い、と返したのは美央で、乃愛が「ミオ様風をどうぞ」と手で団扇を作った。意味ねーし、と美央は乃愛の頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、遼子はそれに笑った。紗織は私たちと少し距離を取った位置に立ち、こちらにはまるで興味なさそうにグラウンドへ視線を投げている。いつもそうだ。奇数グループは厄介で、例えば何かの班分けをする際、必然的に一人余るようにできている。その余る一人を、紗織は率先して引き受ける。引き受けるというより、美央と乃愛はべったりで、私は席の近い遼子と組むから、いつの間にか紗織が余るようになっていて、それが習慣化されたというほうが正しいのかもしれない。紗織はもともと共同作業や集団行動を好まないのだろう。馴れ合おうとしない彼女の態度に、美央は最近不満を訴えるようになった。このままでは紗織が輪から外れてしまう。そのことが気がかりだ。


 紗織の視線を辿ると、一人の少女がいた。山木志穂、どの「仲良しグループ」にも所属していないクラスメートだ。瞬時に気管が詰まる。なぜ、彼女を見ているのだろう。声をかけようとしたが、紗織の関心に触れる話題が見つからない。意味もなく体操着の裾を握り締めて離す。

「うわ。山木さん超真面目。先生いないのになんで走ってるわけ?」

 美央の声が響いた。ずるずると重い足取りで、山木さんはトラックを走っている。ランニングの途中で美央が足を止めたとき、ほとんどのクラスメートがつられて立ち止まった。サボらずにいた残りの子たちもいつの間にかこちらへ来て休んでいる。山木さんはたった一人でランニングを続けている。上空から見下ろしたときの光景を想像する。なんだか、私たちが山木さんをいじめているみたいだ。

「足遅ッ」

 乃愛がいい、美央が派手に笑う。遼子も賛同し、私もつられて顔を歪ませた。なにが面白いのかは分からない。けれど、笑っておけば美央の怒りに触れない。女帝の乱れた髪を直してやり、控えめにも笑い続けた。

「山木さん、本当は足速いよ」

 胸にこだまするアルトが放たれた。紗織を見る。紗織は山木さんを見ている。美央が「はあ?」と不機嫌に声をあげた。

「中学のとき、部活で長距離の選手だったんだって」

 午後二時の太陽の高度を思う。なぜ、そんなことを知っているのだろう。頭を揺さぶられた気がした。熱射病にかかったようだ。呼吸が上手くできない。

「だからなに、関係ないし」

 切り裂くような美央の一言。それは全身に降り注ぎ、止まらない。

 んじゃあいつ手ぇ抜いて走ってんだ、それ地味にムカつくんですけど。

 私は美央の頬を思い切り叩きたくなった。彼女にこんな感情を抱いたのは初めてだ。いまの言葉は紗織だけじゃない、山木さんにも失礼だ。美央の声は走り続ける彼女まで届いているだろう。しかし乃愛や遼子の笑い声を聞いているうちにつられて口元に笑みを零してしまい、胸になんともいえない空虚が残った。

 山木さんはぐっと唇を噛みながら、俯き、ひたすら走っている。

 聞こえている、この笑い声はきっと聞こえている。汗を流して、泣きそうな顔で、もしかしたらいまの私も同じ顔をしているのかもしれない。熱射病だ。紗織の視線を追い続ける。

「山木さん、なんで、走ってるのかな」




二、キャラメル


 胸と背中の違和で、ブラのホックが外れていることに気づいた。大袈裟に留めてと叫ぶと、遼子ちゃんがはいはいと笑いながら解けたそれを繋げてくれた。

「それサイズ違うんじゃねーのー?」

 グラウンドの向こうまで通る声で美央ちゃんが笑った。美央ちゃんの声は響く。周りの子があたしを見たのが分かった。

「もっとおっぱいおっきいのが着けるやつじゃね?」

 少しズキリとしたけれど、美央ちゃんの口が悪いことは知っているから、笑って流す。もっと酷いことはもっとたくさん、中学生のころにいわれていた。

 朝、昇降口で、クラスの子たちがあたしの声はキンキンしていて有害電波だとくすくす笑っている。毎朝決まって昇降口で待ち伏せされるから朝のホームルームが始まるギリギリに登校して、席に着く。それが原因で遅刻したときはクラスみんなの前で先生に注意されて、また笑われた。自分の席で泣きそうにしていたら後ろの席の子にウザイと椅子を蹴られた。

 うるさいといわれるのが怖くて黙っていたら、今度は暗いといわれるようになった。あたしは中学校三年間、一人ぼっちだった。


 いま思えば、あたしはなんてバカで弱かったのだろう。どんなに声がうるさいといわれても、めげずに話しかければ良かったのだ。だってあたしより変な声の子はいっぱいいたのだから。梅津さんはいつも泣いているような声だった。小牧さんは鼻に掛かっていてナ行が目立つ声だった。

 乃愛って声超可愛いよね。

 六ヶ月前、出会って間もないころ、美央ちゃんにそういわれて、あたしは中学校のあたしを捨てようと思った。いっぱい話して、笑って、よく喋るキャラを確立させた。少し疲れて黙っても、もう暗いなんていわれない。ときどき美央ちゃんにうるさいと怒られるときもあるけれど、構わない。居場所を手に入れたのだ。離すものか。夢にまで見た「仲良しグループ」だ。声を可愛いといってくれた美央ちゃんと、優しい遼子ちゃんと、いつも味方してくれる彩弥香ちゃんと、無口だけどかっこいい紗織ちゃん。離すものか。

「うわ。山木さん超真面目」

 美央ちゃんの声に頭を上げた。山木志穂。先生がいないから、みんなランニングをサボっているのに、一人だけサボらないで走っているクラスメート。いやだ。山木さんはきらいだ。話しかけても喋らない。いつも一人でいる。仲間に入りたいならそういえばいいのに、席で泣きそうな顔ばかりしている。

「先生いないのになんで走ってるわけ?」

 真面目だからじゃない、一緒にサボる相手がいないから走っている。走っていれば自分の足音で悪口が聞こえづらくなる。だから走っているのだ。知っている。でも美央ちゃんにはいわない。美央ちゃんはそれを知ったら山木志穂を可哀想だと思うに決まっている。きっと友達になろうとする。そんなのは駄目だ。自分が喋らないのが悪いのだ。山木志穂が悪いのだ。自分を可哀想だと思っている人間が可哀想なわけがない。

「足遅ッ」

 大ッきらい。

「あっは、超遅。疲れまくってんじゃん」

「山木さん、本当は足速いよ」

 ギクリとして紗織ちゃんを見た。紗織ちゃんは山木志穂を見ている。

「中学のとき、部活で長距離の選手だったんだって」

「だからなに、」美央ちゃんがいう。そう、だからなんだ。駄目だよ、美央ちゃん紗織ちゃん、山木志穂なんて見ちゃ駄目だよ。「関係ないし」

 喉から変な声が漏れたけれど、笑い声に似ていたから、笑い声にしてしまう。

 ――関係ないし。美央ちゃんの一言を何度も繰り返して聞く。関係ないんだ。

「んじゃあいつ手ぇ抜いて走ってんだ、それ地味にムカつくんですけど」

 関係ないんだ。

 喉から高い声が出る。笑い声だ。しゃっくりみたいな笑い声だ。それを無視しながら山木志穂は走っている。

「山木さん、なんで、走ってるのかな」

 彩弥香ちゃんが小さく笑いながらいった。なんで走ってる、笑い声を消しているのだ。消えるのを待っているのだ。そして、いつか、誰かが一緒に走ってくれるのを待っているのだ。知っている。

「知らない」

 関係ないし、




三、オレンジ


 ブラのホックが外れたと聞いて口内に唾液が溜まった。乃愛はくすぐったそうに身体を捩っている。後ろから触れたくなったが、まずはホックを直してやらなければと足を踏み出す。

 しかし、その前に遼子が乃愛の後ろで屈み込んだ。体操着の中に入っていく手を忌々しく眺めつつも、体育の時間に妙な気を起こしてもあれかと考え直すことにする。乃愛のことになると最近いっぱいいっぱいだ。アタシらしくないなと苦笑する。

「それサイズ違うんじゃねーのー? もっとおっぱいおっきいのが着けるやつじゃね?」

 いった直後にしまったと思った。乃愛の頬が一瞬引き攣る。不機嫌が口に出てしまうところはアタシの短所だと自覚している。が、落ちた言葉は拾うことは出来ない。笑い飛ばすしかない。笑えば万事オーケーだ。


 ふと、紗織が視界に入った。紗織は笑っていない。期待していたわけではないが、もう少し空気を読んでほしい。紗織はたまに笑い合っている輪からあからさまに抜けたがろうとする。こういう馬鹿騒ぎが苦手なのは分かる、自分もこんな笑いに意味があるとも思っていない。でも、そういう意味の無い会話や笑いを集結させたものが「女子高生」なのだから、「女子高生」をやっている以上、それなりにそれなりの行動を取ってもらわなければ場が悪くなる。本人に直接咎めないのは、我を通すのは紗織の良いところでもあるとアタシ自身が自覚しているからだ。

「暑いね」

「すっげえ暑い」

「ミオ様風をどうぞ」

 手で団扇を作った乃愛の頭をかき回す。「意味ねー!」

 乃愛は高い声で笑った。可愛い。こんなに暑いのに抱き締めたくなる。抱き締めてもいいだろうか。言い訳はどうしよう。可愛かったから。通じるだろうか。ふざけ半分の口説き台詞はいくらでもいっているが、身体に触れることはしていない。いまも髪をまぜる右手が燃えている。

「やりすぎやりすぎ」遼子が軽く右手を叩いてきた。

「あ、そーか?」

 変だった? と遼子に目で訴える。

「別に余裕だと思うよ。……さっき、ホック留めたかったり?」

 小さく囁かれ、まーそりゃね、と返す。

「本当は外したいほう?」

「アタシの夢ですから。いうなよ」

「美央の声のが大きい」

 慌てて乃愛を確認する。アタシたちの会話は聞こえていないようで、熱心に靴紐を縛り直していた。こういう小さな動作が、胸をゆする。

 視線を遼子に戻す。遼子はグラウンドを眺めていた。それを追うと山木志穂に辿り着く。山木は一人でトラックの周りを走っていた。教師もいないのに、なんの評価を求めているのか。疑問をそのまま口にし、よくやるなと半ば感心して首を回した。休めるときに休んでおけばいい。気づくと、皆の視線は山木に集中していた。居心地の悪さに伸びをした。

 山木志穂はこんな視線の中、何故走る気になるのだろう。皆がサボっているのだから一緒にサボればいい。一人が違う行動を取ると輪が乱れる。空気が悪くなる。何故それが分からないのだろう。いつだってそうだ。たとえば昼食を一人で食べているのを見かけると気分が悪くなる。周囲が気を遣うのを分かっていて見せつけるのか。声をかけようとすれば壁をつくる。理解不能だ。山木の行動は溜め息ばかりを生み出す。

「足遅ッ」

「あっは、超遅。疲れまくってんじゃん」

 だからサボればいい。重い空気を跳ね飛ばすように笑う。汗で乱れた髪を彩弥香が直してくれた。彩弥香も先刻から山木を見ながらつらそうに笑っている。乃愛も、いや、乃愛はもっと前から、ずっと、山木を見ながらつらそうに笑っている。

 どうして分からないのだろう。サボれば済む話だ。そうすれば誰もつらくない。


「山木さん、本当は足速いよ」紗織が突という。その一言は相変わらずピントがずれている。「中学のとき、部活で長距離の選手だったんだって」

 だからなんだというのだろう。いま必要なのはそんな情報ではないはずだ。「んじゃあいつ手ぇ抜いて走ってんだ、それ地味にムカつくんですけど」

 遼子が振り返った。その瞬間冷めていく。まただ、感情に任せて馬鹿をいった。乃愛が笑う。遼子が笑う。彩弥香が笑う。そうだ、笑えばいい。笑えばすべて流れるのだ。

「山木さん、なんで、走ってるのかな」でも彩弥香は、いつものように笑えていない。

「知らない」乃愛の目蓋が頻りに上下している。

 山木に懇願する。走りたくないのならば、いますぐ止まってほしい。

「全然分からん」

 まさしく、理解不能なのだ。




四、ダーク


 高校生活第一歩は美央の攻略から始まった。


 凹凸のない最短距離を過ぎることに意義を見いだして幾年、女帝の素質を持つ人物を判別することに長けている私は、四月早々、美央に近づいた。彼女が乃愛に興味を抱いていることを知るのにも時間はかからなかった。さりげなく助言をすれば、彼女の信頼の獲得に成功した。あとは曖昧で気を悪くさせない相槌と愛想笑いで充分だ。自身に発言力のあることに気づかぬ女帝は、それなりに敵はつくるが、味方も多い。トップに立たなければ気が済まない性分でない点が操るには厄介だが、天性のノリの良さは付き合っていて苦ではなかった。

 その女帝を撃ち落とした乃愛は、笑顔の裏に翳が見え隠れする少女だった。それが問題に発展するのを案じて突いてみると、中学生のころにいじめにあっていたということを間接的に口にした。おそらく、器用な生き方を特訓している最中なのだ。

 この輪の中で、私と似ている少女がいる。彩弥香だ。席が近いゆえに最も多く会話をする相手だが、彼女はまず「自分」を話さない。何事も客観的な視点でものをいう。笑うべきところで笑い、大衆を敵に回さない言動で、至って地味に過ごしている。彼女の存在は興味深かった。彩弥香を見ていると自分が分かる。周囲の反応、意識、反省すべき点。彼女と私に相違があるとすれば、「極力敵を作らない生き方」を私は意識してやっているが、彼女は無意識に行っていることだ。そして、彩弥香はそんな自身の生き方に抗おうとしている。私が唯一理解に苦しむ点だ。せっかく器用な性格をして生まれてきたのに、なぜ不器用なものに憧れるのか。

 彩弥香の視線の先には紗織がいる。私にいわせれば紗織は不器用だ。流れることも流されることも拒む。今まで多くの敵を作って生きてきたのだろう。もっと楽に生きればいい。人混みを逆流し、唾を吐き捨てられてまで貫き通す「己」というものに私は価値を感じない。彩弥香が紗織に興味を抱くのは「無いものねだり」というやつだろうか。


「外れたッ、誰か留めてェ」

 身体を捩る乃愛の背後に回り、ホックを留めてやる。

「それサイズ違うんじゃねーのー?」

 美央。失敗した。しゃしゃり出るべきじゃなかった、後でフォローしなくてはならない。

「もっとおっぱいおっきいのが着けるやつじゃね?」

 おっぱいおっきいの。私は山木志穂を見る。志穂は――私の幼馴染みだ。保育園に入る前からの知り合いで、小学校低学年くらいまでは毎日のように一緒に遊んでいた。疎遠になったきっかけはこれといってない。私が距離を置くようになったのだ。彼女といても得にならない、判断は正解だった。今の私たちの立場の差がそれを示している。志穂ももっと器用な性格だったら、あんな顔をして走り続けることもなかった。哀れに思う反面、志穂はあれだからいいのだと呟く自分がいる。嫌悪すべき不器用さが愛らしい。彼女とは道ですれ違っても視線すら交えないが、今でも一つ、変わっていないことがある。私は、山木志穂が嫌いじゃない。この真実を知っているのは世界で私一人だ。自身のために幼馴染みを蹴る。

 彩弥香を見る。彼女もいつか紗織を蹴るだろう。打算と妥協は慣れているはずだ。今は曖昧に言葉を紡ぐ。笑いながら、相槌を打ちながら、変わりゆく会話に流される。得意分野だ。

「山木さん、本当は足速いよ」

 沙織の一言に何でもないふうを装う。

「中学のとき、部活で長距離の選手だったんだって」

 そうだったかもしれない、よく覚えていない。それにしては胸大きくないか、などと浮かべて片付ける。

「んじゃあいつ手ぇ抜いて走ってんだ、それ地味にムカつくんですけど」

 美央を見た。また機嫌の悪さを言葉にしている。まあ、いい。咎めることもない。笑って流して、会話を紡いでいく。差し障りなく、変化を作らず。今日も普遍的な日常の一つとして終わらせる。これが秩序だ。もし、誰かがここで革命を起こそうというのなら、

「山木さん、なんで、走ってるのかな」

「知らない」

「全然分からん」

「そうだねえ」




五、ナチュラル


 昼食後の体育はいつでも不満に溢れている。グラウンドを十周、と教師は端的に放ち、生徒の文句には耳を貸さず、球技大会についてのプリントを印刷してくるからそれまで走っていること、と残して踵を返した。

 ランニングの最中、先頭集団にいた美央が脇に逸れて靴紐を直し始めると、乃愛が自然と足を止め、遼子と彩弥香がそれに続いた。このグループに所属している以上、自分も止まるべきだろう。美央に倣う他の生徒たちは今日も例に漏れず、次々と足を止めた。美央が立ち上がったとき、殆どの生徒が彼女の周囲に留まっており、どうやらクラスのトップは走る気力を失ったらしい。

 面倒だ。授業の合間に突如訪れた「お喋りタイム」ほど無益なものはない。

 グラウンドに視線を投じる。山木志穂が一人で黙々と走っている。いまこの場で最も有意義な時間を過ごしているのは彼女だろう。本来ならばその後ろか前辺りに自分がいたはずだ。それなのにいま、無為に立ち尽くしている。このグループに所属してしまっているからだ。いままでこんな友情関係を築いたことなどない。そんなもの不要だと思っていたし、いまでも思っている。

「うわ。山木さん超真面目。先生いないのになんで走ってるわけ?」

「足遅ッ」

「あっは、超遅。疲れまくってんじゃん」

 無意味だ。この会話で何が得られるというのだ。言葉というのは何らかの情報を伴って放たれるべきだ。

「山木さん、本当は足速いよ」

「はあ?」

「中学のとき、部活で長距離の選手だったんだって」

 以前、たまたま二人きりになったとき、社交辞令程度に彼女と話をした。陸上部に所属していたというのは会話の導入時に得た情報だ。五分程度のやりとりだったが、山木志穂の人格は解した。彼女は言葉の端々に、他の生徒と触れ合いたいという想いを匂わせる。

 理解に苦しむ。無為な会話を交わすだけの他人と関係を持って何になるというのだ。

「だからなに、関係ないし。んじゃあいつ手ぇ抜いて走ってんだ、それ地味にムカつくんですけど」

 この会話に、時間に、関係に、何の意味がある。

「山木さん、なんで、走ってるのかな」彩弥香も、

「知らない」乃愛も、

「全然分からん」美央も、

「そうだねえ」遼子も、

 何故この無意味な会話を終わらせようとは思わないのだろう。

 山木志穂を見た。そして四人を見る。

 終わらせるべきは自分だ。元々、グループで築く関係など、自分には無理だったのだ。この輪に所属するきっかけは何だったのか、もう忘れてしまった。思い出せなくていい。此処で断ち切れば、それでなくなる。

「私、走るよ」


 美央は目を僅かに大きくした。彩弥香は笑うのを止めた。遼子は美央の様子を窺った。乃愛は小さく「なんで」といった。

「走りたいからだよ」

 これで終わりだ。踵を返す。一歩。


「私も走る、」


 青空と焼きつく影が静止する。無音がこだまする世界で、己の呼吸だけが生きていた。

 振り返る。

 彩弥香。

 目が合うや否や、彩弥香は俯き、横を通り抜けていった。髪が光を反射する。

 美央は周囲を見回したのち、うーん、と唸り、笑った。乃愛は顔を歪ませて山木志穂を見つめ、無言で走り出した。慌てて美央が追う。

 それを機に、留まっていた生徒たちがぞろぞろと動き出した。腕を軽く叩いてくる者がいる。遼子だ。

「……何処行く気だった?」遼子はやや濃く笑んでいる。

「別に」

「山木志穂のとこ行ったら抜け駆けって思うから」

「そんなんじゃないよ」

「お礼いうね。これで堂々と仲良くできる」遼子は走り出した。

 一つ息を吐いて土を踏みしめる。

「山木さん、いま何周目ッ?」

 乃愛が山木志穂の隣に並ぶ。その隣に美央が着き、長距離やってたんだって? という。山木の声は小さくてよく聞こえなかったが、無為な会話を楽しんでいるらしいことは表情で分かった。

 その前方に、中里彩弥香がいる。八月二十五日生まれのO型。軟式テニス部。自分の知っている彼女の情報はそれくらいだ。


「一緒に帰ろう」

 六ヶ月前、電車を待つ駅のホームで、そう声をかけられた。中里彩弥香、と簡潔に自己紹介される。肩より伸びた癖の無いアッシュブラウンの髪。普遍的なスカートの丈と通学鞄の飾り。明日には忘れてしまいそうな有り触れた装いだが、よく見ると整った顔をしている。どうしてわざわざ自分を平均値に埋没させているのだろう。断る理由はなかったからいいよと答えた。雑踏にかき消される特徴のない声。聞き取り辛くて顔を近付ける。もう一度彼女はいう。

「名前、なんていうの?」

「……真崎紗織」


 プリントを持って現れた教師が「ほお」と感心の声を上げた。サボっていると予想していたのだろう。

 十月中旬、快晴。三十メートル先の少女の、やわいアッシュブラウン。自分でも珍しいと思うほど口の端を上げて、彼女の名を呼んだ。



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