短編小説「朝、目が覚めたら弟にハチミツを塗られていました」
何だか顔の辺りがチクチクする。そう思った真司はベッドから身を起こした。
蝉がミンミン鳴り、窓から入る日差しが痛いほど目に染みるお盆の夏。真司は2年ぶりに故郷の鹿児島に里帰りし、久々の実家で一夜を過ごした。
そんな中で迎えた翌朝のこと。彼の顔にはある異変が起きていた。
目が覚めるなり、真司は鏡の前に立ち、自身の顔を確認する。
「げっ、なんだこれ! また洋平の仕業か!」
彼の目には、顔中にカナブンが、まるで岩礁にひっつく貝のようにくっついている様子が映っていた。これも全て彼の10歳年下の弟の仕業なのである。
「久々に帰ってきたかと思ったら、すぐこれかよ。あのやろめ~」
弟は来年の4月から高校生になる。すでにそのような年齢であるにも関わらず、相変わらずやることなすことが全てガキンチョのままだ。
それを証拠に真司が顔からカナブンを引きはがし、その後洗面台に向かった時のこと。顔をゴシゴシと拭っている際に、彼は自身の手の平が妙に粘っこくなっていることに気づいた。
「おいおい、なんだって言うんだよ」
変に思った真司はその手を嗅いでみる。すぐに彼は、その粘っこい物の正体がハチミツであることに気づいた。
「洋平の野郎! 殺す!」
いつ何時に塗られたのかは定かではない。
しかし十中八九、弟が兄の部屋に忍び込み、カナブンに兄の顔を舐めまわさせたかったことだけは確かだ。
真司は朝っぱらから顔を真っ赤にしたまま、1階に降りて行った。
地元の大学を卒業すると同時に、真司は大阪の会社に就職し、その近くで一人暮らしを始めた。家賃5万円の1LDK。親元を離れて、ようやく念願の一国一城の主となれた瞬間だった。
大阪に来た当初は一人暮らしを謳歌していた彼だったが、段々と社会のしきたりに揉まれ、会社の先輩に節度のある行動を取るよう厳しく言われていくうちに、純粋に都会での生活を楽しめなくなっていた。
そうした中での今回の里帰り。ようやく赴任先での葛藤から解放されたと思ったその矢先に、真司は弟にハチミツを塗られてしまったのであった。
「おい洋平、出てこい! 今からお前にライダーキック、お見舞いしたるからな!」
さっきの仕返しと言わんばかりに、真司は1階に躍り出た。今か今かと血眼になりながら、弟を探している。その様はまるでプロ野球の乱闘者そのものだ。
「なんだ真司。朝から騒がしいな、おい」
新聞を読む傍ら、お味噌汁をすすっていた父親がそう声を上げた。
父親の声に便乗するように母親も彼の言動をたしなめた。母親は台所ですでに洗い物に取り掛かっている。テーブルには父親ともう一人の分の食事しか用意されていなかった。
「あれ母さん。洋平はどこ行ったの?」
洗い物をしている母親の背中に真司は、そう話しかける。
「洋平は今日ラグビーの試合があるからって、さっき出て行ったわよ」
家の時計を見ると、まだ朝の8時前だった。祝日だというのに、父親も今日はやけに朝が早い。すでにスーツを着ていて、ネクタイも締めていた。これから仕事なのだろう。
結局弟が帰ってきたのは夜の9時を回った頃だった。本来ならあの時すぐにでも、真司はキックをお見舞いするつもりだった。しかしあれから随分時間も経っていたこともあり、そんなことをする気は遠の昔に失っていた。
真司はこの時思った。社会人になる前までは、好きな時に好きなだけ弟にライダーキックができていたが、今はそうもいかなくなってしまった。会社の上司に気の向くままに、ライダーキックなんてできやしないし、そもそもそんな発想をすること自体、憚られてしまう。
彼はこの時、「あの頃に戻りたい」っと純粋にそう思ったのである。