194・魔獣人の巣
水飛沫が霧となって立ち込める、そんな冷たい岩穴にボロボロになった子供が一人転がっていた。
血染めのズボンは絞った雑巾みたいに捻れひん曲がっている、そこに足が入っているとは思えない程だ。
常人なら死んでいてもおかしくない怪我ではあるがーー流石、体力と治癒力が高い獣人である。微かな息遣いが聞こえる。
しかし、まぁこの状態で獲物が逃げる事は無いと考えたのか、近くに魔獣人の姿は無かった。
「う……あぁ?」
耳鳴りの様にも聞こえる低い地響きの様な音と地面から伝わる振動、絶え間なく漂う霧が濡らす前髪から滴り落ちる水滴は、ポツリポツリとゆっくりガウルのひび割れた唇を濡らしていく。そうして唇に張り付いていた乾いた血が溶けて、鉄臭い水が口内に染み渡るーーと、同時にズタズタになった傷を無理矢理広げる様な痛みでガウルは目を覚ました。
(痛ッゥ…………ここは、どこだ?)
麻痺しているのか身体の痛みは思ったよりも少ない、しかし動けるかと言えばそうでは無い。特に下半身には一切の力が入らず、まるで冷たい水に浸かっている様な肌寒い感覚があるだけだ。
「う……んぐぅ」
地面に突っ伏した状態から何とか動く首を少し上げ、ガウルは周囲に目を凝らす。
巣穴……だろうか?
あの化け物でも三匹くらいは楽に寝れそうな、只だだっ広いだけの洞窟。荒く削り取った岩壁には苔が生え、穴の奥には寝床なのか意図して枯草が集められた様な場所も見える。
(あの化け物は……居ないのか?)
付近にあの濃い臭いや、荒い息遣いは聞こえ無い。尤も臭いに関して言えば、ガウル自身が流した血の匂いが濃過ぎて鼻が馬鹿になっている可能性もあるのだが……。
今度は反対側へと顔の向きを変えようとするが、上体を高く起こせない為、傷付いた顎を地面へとズリズリと擦り付ける羽目になった。
「うぎぎ、があっ! ーーはぁはぁ」
ガウルは下半身に力が入らないだけで、こんなにも身体の動きが制限される事に驚いた。
ーーそして、もう一つ。
(……これは、骨じゃねぇか!?)
反対を向いたガウルの目の前には、無造作に積まれた大量の白骨があった。
きっとあの化け物が食い散らかした跡だろう。大小様々な骨の中で、特に目を惹いたのは小さな頭蓋骨だーー明らかに人骨、しかも幼い獣人の頭蓋骨である。
割れたり砕けたりした小さな頭蓋骨が、残骨のそこかしこに紛れている。
(クソっ、やっぱりあの化け物は俺を食う気なんだ)
ガウルだって自分が友人として自宅に招かれたのでは無い事くらいは承知しているが、心の何処かで僅かな希望を持っていた。
例えば食用なんかじゃ無く、縄張りを荒らしたから攻撃されただけーーとか……。
しかし、目の前に積まれた無数の白骨はガウルの希望を打ち砕く死刑宣告である。改めて証拠を突き付けられた事で自分が餌であると自覚し体中から嫌な汗が吹き出す。
(何とかここから逃げ出ないと、俺も骨になっちまう)
下半身と顎は動かないが、幸い両手は無事である。ガウルは直ぐ手元にあった棒状の白骨を掴む。
中程でポッキリと折れた誰かの大腿骨は先端が上手い具合に尖っていた。それを少し先の地面に刺して手繰り寄せる事を繰り返し、ズリズリと何とか前へ這いずり進んで行く。
洞窟内の光加減から推測するに、割と明るい場所に居るガウルは案外洞穴の直ぐ入り口付近に居るらしい。
ガウルは光が差し込む方へと必死に進んで行った。
どうにか化け物の巣を抜け出たガウルの前に現れたのは大きな滝だ。先程から身体に響く耳鳴りと振動は叩き付ける様に流れ落ちる滝の鼓動であったらしい。
上から流れ落ちる大量の水がガウルの目の前を通り過ぎて更に下へと落ちてゆく。どうやら此処は滝の中腹、更に言うなら滝の裏側である。
(ーー滝? クソッ、近くに川なんて無かったぞ)
先程ガウルが居た付近に水場は無かったーーつまりそれは、この場所がヘイズ達が居た場所から遠く離れた場所であると言う事を意味する。しかも一見では解りづらい滝の裏だ、これでは助けも期待出来ない。
そこまで考えてから、ガウルはヘイズ達に内緒で付いて来た事を思い出して唇を強く結んだ。
(そういや、ヘイズの兄貴が俺を助けになんて来る訳無かったんだった……)
自分が居る事を知らぬヘイズ達が自分が居なくなった事に気付く訳がない。ここに来て、ガウルはヘイズの言い付けを守らなかった事を心底後悔しだすが後の祭りである。
それにしても、自分があの化け物に食われるなんてゾッとしない死に方だ。いっそ、このまま滝へ身を投げて溺れ死んだ方が苦しみは少ない様な気がする。
(……どうせ死ぬなら……)
ガウルは深い滝壺を覗き込む、遥か下に見えた何もかもを引き摺り込むように渦巻く白泡を見たガウルはゴクリと唾を飲み込んだ。
上から落ちてくる水と川底に当たって昇ってくる水が常にグルグルと対流している滝壺、一度沈んだ者が再び浮上する事は極めて難しいと言われている。
泳ぎが苦手なガウルは間違いなく死ぬ事が出来るであろう。
(兄貴なら、こんな時どうしたかな……)
死を決意したガウルはふとそんな事を思い浮かべた。
どんな相手にも引かず、『噛みつきヘイズ』と恐れられた兄貴の事だ、きっとあの化け物にだって一太刀浴びせたに違いない。
ーーそれに比べて自分はどうだろう?
敵わないと思うや否や、怯えて命乞いをして……立ち向かう事すらしなかった。そして今、食われる怖さから自分で命を断とうとしている。
「ぅがぁああ!」
余りに不甲斐無い自分に気付き、ガウルは地面に爪を立て思い切り吠えた。
(こんなんで兄貴みたいになりてぇなんて……どの口が言うんだよな)
ガウルは何を思ったか再び身体を引き摺りながら化け物の巣へと引き返す。そうして持っていた骨を懐に隠すと、失った体力を少しでも回復させる為に目を閉じた。
(俺は兄貴の弟分だーーどうせ死ぬなら兄貴の名に恥じない様、最後にあの化け物をひと噛みしてから死んでやる!)
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