166・行方
各自其々の部屋へと戻っていった食堂には、未だ豆を転がすカイルと朝のスープを仕込むウービンだけが残っている。
「…………」
ふと見れば、食堂の窓には柔らかな朝日が差し込み、外からは朝練に精を出す騎士達の掛け声がチラホラと聞こえ始めているーー数時間後に蜂の巣を突いた様な大騒ぎになる事をまだ誰も知らない、実に平和な朝である。
そんな中、ウービンはグツグツ煮える鍋の灰汁を取りながら随分とくたびれた顔したカイルをジロリと睨んだ。
「ーーんで? 本当の所はどうなってんだ?」
ウービンの問いにカイルは肩をすくめる。
「…………本当の所だって?」
「はんっ、どうせオメェの事だ、アイツを上手く逃してやったんだろ?」
もう食べる気が無いであろう緑豆を転がしていたカイルの手が止まる。暫しの沈黙の後、カイルはワシワシと片手で頭を掻きむしり椅子の背もたれにドカっと寄りかかった。そうして油と煙で燻られた何も無い天井を見上げて大きな溜息を吐くと観念した様に両手を上げる。
「ーーはぁ、参ったな。バレてんのかよ……」
ウービンは鍋の火を止め額の汗を拭うと、徐に樽からエールを注ぎグイっと煽る。そうして半分程残ったコップを苦笑いを浮かべているカイルの前にコトンッと置くとニヤリと笑う。
「元A級冒険者舐めんな、バレバレだわ。どうせ逃した事がバレた時の罪を一人で被ろうって腹なんだろう?」
「ったく、ウービンさんには敵わなねーな」
カイルは凝った肩を解す様に首を回すと置かれたエールをウービンと同じ様に一気に飲み干した。その顔は先程よりは幾分スッキリしている様に見えた。
「どうだ、ちったぁシャッキリしただろ? で、アイツは何処に隠したんだ?」
「……アイツは街の教会に向かわせた」
カイルは再び背もたれに仰け反り、徹夜明けの疲れた目頭を指で揉み解す。
昨晩遅くにこの状況を知ったカイルは、逃走の計画、準備や手配、ルートの選定などで一晩中宿舎を駆けずり回った。只でさえ見習い達の野外訓練後の採点やら報告書やらで書類仕事ばかりの日々が続いていた所為も有り、疲労はピークに達していた。
「ーー教会だぁ? 街の外じゃねぇのかよ」
てっきり故郷(山)にでも逃したのかと思っていたウービンは思わず作業の手を止める。
「俺も最初は街の外に逃すのが良いかと思ったんだけどな……」
以前の街外ならば何の問題無かったんだろうが、国境の壁無き今、自領とて何処でまたパカレー軍に出会すか分から無い状況だーー下手すれば街中より危険かもしれない。
その点、街中にある教会であればパカレー軍と出会う可能性はまず無い。
もう一つの理由として、彼をスパイにでっち上げ捕縛しようとしている肯定派の連中も、教会には迂闊に手が出せないだろうと考えた為だ。
サーシゥ王の中立宣言は決してサーシゥ王が独断で決めた事では無い、女神フレイレル様の御導きを元として決断している筈だ。
サーシゥ王国はパカレー共和国の様にドップリと宗教に浸かっている訳では無いが、国として指針を定める時、女神フレイレル様の御意向を無視出来ない程度の信仰心は根付いている。
と、言う事はーー少なくとも教会関係者の中には女神フレイレルの御意向に異を唱える戦争肯定派は居ないのでは? と、カイルは踏んだのだ。
「あー、成る程。確かに教会には女神様の考えに背く奴は居ねぇわな」
「中立派が何とかしてくれるまで何とか預かって欲しいって手紙を持たせたから……まぁ多分、大丈夫だろ」
「おいおいカイル、手紙ってーーオメェ、もし他のヤツの手に渡っちまったらヤバいんじゃねぇのか?」
「勿論、極秘文書を書く時用の魔法筆を使ったさ。詳細は教会関係者にしか読めない様にしたーー抜かりはねぇよ」
「ふ〜ん、それで? このまま他の奴らには言わないつもりか? クリミアちゃんは随分心配しるみてーだったが……良いのか?」
「あぁ、仮にこの事が露呈したとしても事情を一切知らなければ俺一人捕まるだけで済むからな」
先程の素っ気ない態度はクリミア達を巻き込まない為のカイルの配慮であった。
「ハッ、随分と男前じゃねぇか」
「そのお陰で嫌われちまったみたいだけどなーーさて、そろそろ店開ける時間なんだろ?」
皿に残っていた緑豆にフォークを突き立て口に放り込むと、カイルは席を立つ。
「悪かったなウービンさん、開店前だってのに無理言って……」
「良いって事よ、俺だって全くの無関係って訳じゃねぇからな」
気にするなと言う様に笑顔を見せるウービンだったが、一転、睨み付ける様な真剣な面持ちでカイルに言った。
「ーーでだ、ごそっと無くなっちまった一週間分の食糧は男前のカイルさんに請求すりゃあ良いんですかねぇ?」
クルクルとカウンターを滑る様に手元に届いた伝票ーーその桁の多さにカイルは思わず天を仰いだ。
「マジか…………何で俺はウービンさんに言っちまったんだろう? 言わなきゃ全部アイツの所為だったのに!」
伝票に並ぶ夥しい数の品名に、来た時以上に疲弊した顔で目を通すカイルが悲鳴にも似た声を上げる。
「ちょっと待て、このエールって……さっきウービンさんが半分飲んだヤツじゃねぇかよ!」
「あぁん? 今更ちょっと増えたぐらい大して金額は変わんねぇだろ? それにオメェ、俺を巻き込んだんだからそれくらいは払えよ馬鹿!」
早くも彼を逃した事を後悔し始めたカイルであった。
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