プロローグ(2)
「あ……いや、その、心配しなくても、襲わないから、いや、その、ほら、いや」
明らかに動揺をしているジエール。その様子が少し可愛らしく見えて、笑いが込み上げてきた。
「……ふふ、ふふふ、あははっ。……大丈夫ですよ、そんなに言わなくても大丈夫です」
「いやさ、ほら。記憶ないとか、知らない場所、とか色々大変なのに、無神経な心の声が漏れちったなって反省してるって言うかさぁ」
ポリポリと乱雑に斬られた髪を掻くジエール。どうも悪い人では無さそうだ。
「心の声だったのね」
「なっ! いや、違う……違わない……。はぁ、ダメじゃん俺。何とか穴掘ってるし」
「……墓穴、かな?」
「そうそれ! 墓穴! あーもう、第一印象台無しじゃねぇか」
今まで接した事が無いような男性だ、と感じた。
随分と真っ直ぐで、初対面なのに打ち解けやすい、気さくな男性。話しているだけで、こっちまで面白おかしくなってくる。
「初めまして、私は……」
自己紹介をしようとして、気がついた。
「どうかした?」
あまりのショックに、言葉が出てこない。
「……?」
心配するジエールに助けを求めるように、私は言った。
「名前……も、……分からない……」
考えた事もなかった。自分が誰なのか、何者なのか分からない気持ちを。今まで確かに生きてきたはずなのに、それに関する一切の記憶を失うという事は、こんなにも虚無で、恐ろしい事なのか。
ガタガタと全身が震えた。
「ちょ、おい、大丈夫かよ。オイ!」
ジエールが慌てて震えを止めようとしてくれるが、私の意志とは無関係に震える身体は止まらない。
「どうしたんだよっ」
「怖い、私、名前が思い出せない。誰なのか分からない。“私”が居ない。どこにも居ないっ! 嫌だっ、嫌だ!」
底なし沼に埋まっていくような感覚に襲われる。どれだけもがいても、手足が取られ、ズブズブと埋まっていく。腹、胸、首と飲み込まれ、呼吸すら出来なくなる。
「たすけて……」
最後の力を振り絞り、右手を懸命に伸ばすと、その手をグッと力強く握ってくれた人物が居た。
「よし! じゃあ俺がつけてやる。お前はルナだ!」
「……ル、ナ?」
光が差し込み、一気に沼から引き出された感覚。
「そうだ、ルナ。今までの記憶を無くしちまったルナ。これから思い出すルナ。俺たちの仲間、ルナだ」
「……」
「後はー、お前の居場所を証明するのに何が必要だ? 女の子のルナに可愛いルナ。ケガしてるルナで谷に落ちてたルナ。ほら、もうここまで言えば、ルナって名前の女の子はもうお前しか居ねぇぜ!」
慌てて紡いだ言葉だからか、途中途中拙い言葉だった。
それでも、今の“私”が欲しい言葉の全てだった。
暖かい気持ちで、心が満たされていく。
「ありがとう、ジエールさん」
握ってくれた手を、両方の手で固く握り返す。
「お、おう! それと、そんなに歳変わんねぇだろ? ジエールでいいぜ。よろしくな」
「うん、よろしく、ジエール」