壱
さーとり、さとられ、さーとるくん
それは、父に教わった、童謡だった。それを聞いた友だちにはよく不思議な顔をされていたから、相当、マイナーな民謡だったのではないか。むしろ、父が勝手につくり上げたのかもしれない。いや、それはないか。
あるひーあらわれきえていく
どこへいくんだ、さとーりー
それでは、自虐的すぎる。ふっと、自嘲近い笑いが漏れる。古い窓から覗く曇り空。吹き込む隙間風。そこに交じる馴染んだ気配。
そろそろ、彼が来るころだ。迎えに行こうと立ち上がる。
そういえば、彼と初めて会ったのもこの季節だった。
彼が初めてこのおんぼろなアパートにやって来た時。弾んだ気持ちがなかなか去らなくて、寝つけずに父を困らせた。少しずつ冬の気が高まっていた頃だ。季節をいうなれば秋。
秋は、彼と出会えた季節であると共に、父が消えた季節でもある。大きな出会いと別れ。
さーとり、さとられ、さーとるくん
思わず、口ずさんだ童謡に誘われたように、玄関でノック音が響いた。
*
新井田 アレクは、湿り気を帯びた鼻を擦りあげ、すっかり色付いた葉を揺らす並木を眺めた。自転車が、坂にさしかかり、加速する。途中、ヘイ!と白人の西洋人に声をかけられた。とりあえず曖昧に微笑んで、通り過ぎる。
アレクは、その名の通りイギリス人の父と日本人の母の間に生まれたハーフである。顔は何となく浅造りなのだが、いかんせん髪がダークブロンドで肌があからさまに白人のそれだった。よく外国の観光客に、唐突に英語で話される時が有る。
残念ながら、彼は日本語が母国語で、さらに言うと英語は常に赤点である。そういうと、みな信じられないという顔をする。とくに同胞同郷の日本人たちはあからさまに驚く。
いや、だって親父無口だし。
アレクの恐らく良い先生になったであろう、父は、どこの日本男児だと突っ込みたくなるほど無口である。生まれてこのかた、「ああ」と「いや」以外を聞いたことが無い。
さらに、体格もよいので、その西洋の色合い(髪・目・肌)がなければ、どこぞの山伏である。
必然的に、アレクは英語のaの発音すら触れずに育った。家にテレビが無かったのも災いしている。
と、横目に赤い残像。アレクは急ブレーキをかけた。自転車が甲高く鳴いて止まる。
「お、彼岸花!」
遊歩道越しの堤防に、赤が氾濫していた。ぼうぼうと奔放に生息する雑草たちを押しのけて、緑が霞むほどである。
「綺麗か不吉か微妙なところだ」
なんせ、彼岸花の別名は死人花だ。さらにいうと、彼岸は浄土を意味している。だが、西洋では観賞用の品種が沢山あるというだけあって、美しく鮮やかで目を引くのも事実だった。
アレクは、ふと気付く。
「あれ?こっちにゃ咲いてないのか」
彼岸花は、すべて、アレクがいる方とは対岸にあたる堤防に咲いていた。
「こっちが、此岸、あっちが彼岸ってか?」
此岸は、現世のことだ。ちょっと前、日本美術史の先生が話していた雑学の内容がよみがえる。
昔は、墓を動物が荒さない措置として、根に毒がある彼岸花を墓に植えたのだそうだ。
アレクは、自転車から降りて、花を観賞することにした。折りたたみの携帯を、リュックから取り出し、カメラを起動する。そろそろスマートフォンに乗り換えたいなどと片隅で思いながら、向こう岸で揺れる花々に向けた。
「あれ?」
ぎょっとして、カメラから目を離す。
反対側に、子供が赤に埋もれるようにして膝を抱えているのである。
思わず、変な力が入った。
ぱしゃり。
へ、と間抜けな声が漏れる。
画面には彼岸花と子供が映っていた。ああ映って良かったなどと、変な安堵を感じながら、不可抗力とはいえ無断で撮影してしまったことを、少し後ろめたく思った。
ちょうど、子供が膝に埋めていた顔を上げる。
川の幅は広くない。せいぜい3メートルあるかないかであった。そのせいか。子供の顔が良くみえた。
自分のように、どこか異国の血が混じっているのだろうか。 髪はおかっぱというにふさわしく前髪も横髪も綺麗に直線的だった。色は、黄身がかっている。目は、まるで、メガネザルだとかそういった動物を彷彿させるような白みの少ない大きな瞳だ。
異国というより、並はずれたその容貌がどこか化け物じみていた。
慌てて、その思考を振りはらう。勝手に映した揚句の人外扱いとは、失礼にもすぎるだろう。
(ごめんな)
アレクは、心の中で謝罪して、とりあえず会釈をした。
子供は、何事かを呟いたようだ。いいよってことだろうか。いや、もうすこし長かった気がする。そもそも、いくら近くとも小声ならまだしも心の声が届くはずもない。
気まずさを抱えながら、アレクは自転車にまたがった。
アレクが同じ場所を通ったのは、その出来事から3日たったころである。
前とは反対側の遊歩道を、自転車で走っていく。向こう側からは見えた鮮やかな赤が、不思議なほどみえない。ただ、遊歩道にも進出しているらしく1本、2本唐突な鮮やかさが目に入る。反対側の雑草だらけの堤防は、寂しげだ。このごろ交じってきた冷たい風が頬を撫でていく。
(この辺か?)
おそらくこの辺りに、あの子供はいた。そう、都合よくあえる訳もなく、波打つ彼岸花があるだけである。
周囲を見渡すと、どうやら住宅街のようだった。全体的に古めかしい木造の民家が密集している。
そろそろ行くか。前に視線を戻した時である。
「あ」
あの子供が、狭い道を右手に曲がっていくのがみえた。思わず、自転車を端に止めて、追いかける。同じように、その角を曲がった途端。
言い表せられないほど奇妙な感覚が、全身に走った。
古めかしい家々。軒に忘れ去られたように、つり下がる風鈴。ちりんちりんと鳴る音は、澄み切っている。青い葉を茂らせた家庭菜園のプランター。
昼だからだろうか。どこにも人影はない。
「ほらーだ」
思わず、口にした。子供は、数メートル先で、さらに右に曲がった。
慌てて、追いかける。そして、子供が消えた場所には。
「アパート?」
時代に置いて行かれたような木造アパートがあった。さぞや長い年月此処にあったのだろう。そう思わせるほど、使われている木材は黒ずんでいる。
門に取りつけられた看板は、もう色が判別し難い状態である。さらにいうと、鏡文字。まるで、昭和にタイムスリップしたようだ。
「は、か、な、い、荘」
見た感じはどっしりしているのに。などとくだらないことを考えた。
数秒、どうするか思考する。なんせ、冷静になってみれば、幼い子供を追ってきた自分は、どう考えても変質者に近い。
踵を返そうと後ずさる。
「おや、珍しい」
「え」
「何か御用ですか」
黄色のおかっぱに、黒々とした瞳。明らかに、あの子供の縁者と思われる男が、スーパー袋片手に立っていた。