5鎖
数十分後。
リシュリアから渡された服に着替えたマリーは、寝室を出た。隣室は続き間となっており、寝室と似た色合いの調度品で彩られていた。
と、テーブルに食事を並べていたリシュリアがマリーに気づき、穏やかに言った。
「似合ってるじゃないか」
「そう、ですか?」
おかしくはないだろうかと、マリーはスカートの裾を押さえるようにして俯いた。
リシュリアが持ってきたのは、簡素な薄碧色のドレスだった。胸元の大きなリボンがアクセントになっていてとても可愛らしいのだけれど、自分に似合っているかと聞かれれば微妙なところだった。いつもは黒や紺といった地味な服しか着ていなかったから、なおさらこんな明るい色は落ち着かない。
「おいで。温かいうちの方が美味しいよ」
リシュリアに手招きされ、マリーは香しい匂いに誘われるようにテーブルに寄った。四人掛けの丸いテーブルの上には、一人分のパンとスープ、付け合わせのサラダ、それからメインの肉料理が配置正しく並べられていた。
「どう?食べられそう?」
「はい」
これなら大丈夫そうだった。
マリーはリシュリアが席につくのを待って、腰を下ろした。
リシュリアの前には紅茶のセットだけが用意されている。
「僕の食事は終わってるから。気にせずどうぞ」
「はい、いただきますね」
そう断ってから、まずは湯気の立つスープを口にした。そして、初めての味に思わず両目を見開いてしまう。
「美味しい?」
尋ねられ、マリーはこくこくと頷いた。
「はい、とても」
琥珀色の透き通ったスープには、小さく刻まれた野菜と薄い肉が入っていた。
塩加減がちょうどよく、ほのかなハーブの香りがまた絶妙に適合している。こんな美味しい料理があるなんて知らなかったと、マリーは頬を緩ませる。
魔城では、こんな食事をしたことはなかった。マリー達下位の者に回ってくる食事といえば、白湯のようなスープや、余りものの固いパンばかりだったから。
そんなことは知らないリシュリアは、ただ笑みを返すのみだ。
「そう、良かった。味覚は僕たちと変わらないんだね」
「そうみたいですね」
それからマリーは、リシュリアに勧められるまま食事を完食した。
肉料理はもちろん、サラダの葉の一枚すら新鮮で瑞々しく、マリーは最後まで美味しく食事をすることが出来た。
「やっぱりお腹減っていたんだね」
空になった食器を見やりながら、リシュリアが紅茶を淹れて、マリーに渡してくれた。それもなんらかの魔法だろうか。ポットの湯は、温かいままだった。
「はい。どれも、美味しくて……ありがとうございます」
「どういたしまして」
リシュリアも自分のカップに紅茶を注ぎ直し、ゆっくりと口に運ぶ。
日常のなにげない仕草。にもかかわらず、マリーは視線を吸い寄せられた。
綺麗な人だと思った。
その心も。
マリーはこれまで、他人にこんなに親切を受けたことはなかった。たとえそれが打算だとしても、利用されているだけだとしても、初めて受ける親切に、マリーは動揺した。嬉しかった。
騙されているのかもしれない。
でも、リシュリアになら騙されてもいいかもしれないと思えるくらいに、マリーの心は疲弊していた。
だからリシュリアからの頼みをマリーが断るはずもなかった。
「マリー、急がせて悪いけど、この後夜会場を回ってくれる?」
「ええ、もちろんです」
そう快諾した瞬間だった。
扉が静かにノックされ、マリーは顔をそちらに向ける。
リシュリアが応えた。
「誰?」
返ってきたのは、低い男の声だった。
「わたくしです。殿下」
身構えたマリーを宥めるように、リシュリアは言った。
「大丈夫。僕の部下だ。君のことも教えてある――入れ」
リシュリアが許可すると、扉が開かれ、背の高い男が入室してきた。
男は部屋の内に立つと、リシュリアへ一礼する。
「失礼いたします」
リシュリアも背が高いほうだと思ったけれど、男はそれ以上だった。
全身を黒いローブで覆ったその出で立ちも異様だったが、それ以上に、見下ろすようにマリーを見つめた瞳が鋭利な刃物のようで、恐ろしかった。
「早かったな」
言ったリシュリアに、男は「その方がよろしいかと思いましたので」と丁寧に返す。
「マリーさん、でしたか」
「はい」
つと声をかけられ、マリーは背筋を正した。
視線がかち合い、畏怖してしまう理由がわかった。男は、マルクスと雰囲気が似ているのだった。
リシュリアに最初に捕まった時も恐怖したけれど、男からはそれ以上の威圧を感じた。
「殿下から話はうかがいました。わたくしは王立魔術師団団長のゼネルと申します。貴女の補助を務めてまいりますので、以後お見知り置きを」
「はい……どうぞよろしくお願いいたします」
魔術師団長。ということは彼もまた、幾度もマリーたちと戦ってきた人物に違いなかった。
マリーに好意的でないのも頷ける話だ。
「早速ですが、こちらを」
そう言いながらゼネルが懐から取り出したのは、紅い宝石がところどころに添えられた金鎖の腕輪だった。
「殿下の印がそう易々解けるとも思えませんが、念には念を入れさせていただきます」
「?……はい」
どういう意味だろう。
当惑するマリーを見かねて、リシュリアが助け船を出す。
「ゼネル。それじゃ言葉が足りないよ、貸して」
「は」
リシュリアは腕輪を受け取るとマリーに向き直る。
「マリー、左手を出して」
「はい」
差し出した手首に、腕輪を付けられる。綺麗な装飾品だと思えたのはその一瞬だけだった。
笑顔を潜めたリシュリアは、重責を負っている、王子の顔をしていた。
「これには、僕と、そこにいるゼネルの魔力がこもっている。隷属の魔法は僕が発動させなければいけないけど、これはゼネルひとりでも発動可能だ。それに、君の居場所も逐一把握できる」
「……はい」
言わんとしていることが分かって、マリーは右手で左手首ごと腕輪を握りしめた。
つまりゼネルは、もうひとりの監視役だった。
マリーが人間に危害を加えるようなことがあれば、この装飾品に見立てた呪具で、即刻処断されるのだろう。
「殿下はこのようなことをする必要はないとおっしゃられておりましたが、万が一ということもございますので」
言ったゼネルをリシュリアが困ったように見上げる。
「彼は用心深いんだ。いい気分じゃないだろうけど、我慢して欲しい」
「いえ……大丈夫です。お気持ちはわかりますから」
悪魔のマリーは、そこにいるだけでも嫌がられて仕方がない存在だ。
それをこの鎖ひとつで許してもらえるのなら、願ってもない待遇だった。
それでも、ほんの少し気分が落ち込んでしまったのは、自分の立ち位置を思い知らされてしまったから。マリーに敵意がなくとも、仲間と見ては貰えないのだと。あくまでマリーは、隷属に過ぎないのだと。
「それでは、会場に参りましょうか。転移魔法の見分をいたしませんと」
「ああ。マリー、行こう」
「はい」
リシュリアに言われて、マリーは重い腰をあげた。
「待って」
リシュリアが呪を唱える。とたん、マリーの頭から角が消えた。早くて正確な魔法に、マリーは感嘆の息を漏らす。
「うん、完璧だ」
「ありがとうございます」
頭を下げたマリーの手を取り、リシュリアは部屋を出た。
手など握らなくとも逃げたりしないのに。
マリーは思いを飲み込んで、リシュリアに続いた。