4主従契約
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目を覚ますと、見覚えのない景色が広がっていた。
長方形の天井の中央には、灯りのともされていないシャンデリアが吊り下がっている。視界に入った壁紙は、ミントグリーンを地とした落ち着いた柄だ。
随分と豪華な部屋の中、マリーはふかふかのベッドに横たわったまま、ぼんやりと瞬きを繰り返した。
全身を柔らかな敷布が包んでいる。
その心地よさに、もう一度目を閉じてしまいそうになって、はっとした。
急いで半身を起こすと、今度ははっきりと周囲に目を走らせる。
しんと静まり返った部屋には、誰の姿もなかった。
マリーは掴んだ上掛けを強く握り締め、静かな部屋を用心深く見渡した。
客間だろうか。広い室内には、マリーの眠っているベッドの他、精巧な造りの机がひとつと、同じような色合いのチェストがひとつ揃えられているのみだった。
壁面に大きくとられた窓の外は、青空が広がっている。絵に描いたような快晴に、マリーは細い眉を顰めた。明らかに魔城ではない。あそこはいつも灰雲に覆われているのだから。
ああ、そうだわたし、また失敗して、捕まってしまったんだ。
全てを思い出し、マリーは身震いした。
マルクスの凍てついた眼差し。忍び込んだ夜会。そして―――
と、思考はそこで遮断された。
ノックもなく扉が開かれ、ひとりの青年が顔を覗かせる。
「やっと起きた」
そう低く呟いた青年は、断りもなく部屋に入ると、後ろ手に鍵をかけた。
マリーは声を上げることも出来ず、その一挙一動を見守る。
「おはよう。もう昼だけど……気分はどう?」
リシュリアはマリーから距離をとったまま、窺うように首を傾げて見せた。今日は下ろしたままの金色の髪が、さらりと揺れる。服装も、夜会の時よりもうんと軽装だった。そのシャツ一枚にしても高価であることに変わりはないのだろうけれど。
それにしても、わからない。
気分?
どうしてそんなことを聞くのだろうと、マリーはほんの少し眉を寄せた。
途切れ途切れの記憶だけれど、連れられた拷問具だらけの部屋で、彼に名を教えたこと、彼の隷属に下ったことははっきりと覚えていた。
真名の下、服従の誓いを立てたマリーは彼に逆らう術を持たず、言いなりになるしかない。ひどい仕打ちも覚悟していた。
それなのに、彼はどうしてかこんな清潔な部屋にマリーを寝かせ、あまつさえ体調を気遣ってくる。
魔城にいた頃との扱いの違いに、戸惑いを隠せない。
「……普通です」
迷い迷い、やっと答えると、リシュリアは少しだけ言葉を柔らかくした。
「そう、良かった。三日も目覚めなかったんだよ、君」
「三日も?」
驚くマリーに、リシュリアは頷いた。
「たぶん、僕の魔法が浸透するのに時間がかかったんだと思う……契約のことは、覚えてる?」
尋ねられ、マリーはこくと顎を引いた。リシュリアはこれにもほっとしたように瞳を和らげる。
「約束した通り、君が協力してくれる限り、僕は君を傷つけようとは思っていない」
「……はい」
断片的な記憶をたどり、確かにリシュリアが「助ける」と言ってくれていたことを思い出す。握り返した、大きな手の感触も。
と、その時マリーははたと気づいた。
自分があの夜の赤いドレス姿ではないことに。
ウエストを絞り上げていたはずのコルセットも外されていて、今はゆったりした白い寝巻を身に着けているのみだ。
上質な絹の寝巻の胸元を掴み、マリーはリシュリアを見上げる。
「あの……これ」
まさか、彼に着替えさせられたのだろうか。
どうか違うと言って欲しい。
羞恥に頬を赤らめたマリーに、しかしリシュリアは気まずそうに視線を反らせてしまう。
彼の頬もほんのりと赤らんでいることに、いっぱいいっぱいのマリーは気づくことが出来なかった。
「君のドレス、駄目にしてしまったから……なるべく身体は見ないようにしたよ。でも、ごめん」
やっぱり。
マリーは恥ずかしさに両目を瞑る。ベッドに隠れたい衝動を抑え、項垂れた。
「……申し訳ありません、お手間をとらせました」
「いや……僕も本当は、女性に任せるべきだと思ったんだけど。背中の印を見られるのはまずいと思って」
「……背中?」
言われて思い出した。
マリーのそこには今、醜い焼き印に代わってリシュリアの紋章が刻まれているはずだった。他人の目に入れば、確かに訝しがられるだろう。
リシュリアは言った。
「君の正体は、他の人間には隠しておこうと思うんだ。皆が怖がるといけないから」
「……それは、そうですね」
人にとって、悪魔という存在はそれ自体が脅威で忌むべきモノだ。
マリーがいくらリシュリアの隷属だとは言っても、不用意に恐怖や嫌悪をまき散らすべきではない。
また、正体を知った人間が、マリーを攻撃しないとも限らなかった。
双方にとっての最善の措置をとってくれたリシュリアの心遣いに、マリーは感謝した。
と、リシュリアがふいに苦笑した。
「本当に君は素直というか、従順だね」
「え?」
「その方が僕としても有難いけど……」
一度言葉を切って、リシュリアは言った。
「魔城の場所を教えて欲しいんだ。魔王のことも、その部下のことも、君の知る限り、すべて」
リシュリアの紅玉色の瞳に真っすぐに見つめられ、マリーはわずかに渋る。
そう聞かれるだろうことは予想していた。
脆弱なマリーを生け捕る理由など、他にはなかったから。
マリーは、膝上に重ねていた自分の手元を見下ろす。
リシュリアの落胆する様が目に見えて、いつかのように腹部が痛んでいた。役立たずだと知られれば、また見捨てられるかもしれない。
それでも口を開くしかなかった。
「……わたしは下級魔ですから魔王様に直接お会いしたことはありません。幹部のおひとりに使役されておりました。マルクス様……マルクスという名の大悪魔です」
「マルクス。それが魔王の近侍?君をここに送り込んだっていう?」
「はい」
「あの印を発動させたのも、そいつ?」
「……はい」
「覚えておこう」
呟いたリシュリアに、マリーは言葉を強くした。
「お気を付けください。マルクスは魔法だけでなく、知略に長けています。あまり表に出る方ではありませんが、魔法戦になれば、短時間で大魔法を発動させることが出来ます」
「厄介だね」
「はい。それにきっと、魔王様……魔王はそれ以上でしょうから」
わかったと言って、リシュリアは続きを促した。
「それで、マリー。魔城の場所は?どうやったらいける?」
期待の込められた熱い視線が痛くて、マリーは口を噤む。
察しのよいリシュリアは、すぐに低い声をあげた。
「……知らないのか?」
もう、リシュリアを見ていることは出来なかった。
マリーは申し訳ありません、と頭を垂れる。
「わたし、ほとんど魔城から出たことがなくて……」
「じゃあここへは、どうやって」
「マルクス様の転移魔法で送られました。城から出る時はいつもそうです」
「どこに転移した?」
「気づいたら夜会場の、前にいて……」
リシュリアの反応が怖くて、マリーの声は小さく、か細くなっていく。
「そんな」
リシュリアはそれきり黙り込んでしまう。
流れた沈黙の長さに、マリーは片手で腹部を押さえた。
せっかく命を繋いで貰ったのに、おそらくリシュリアが一番欲している情報を、マリーは与えることが出来なかった。
今度こそ、終わったかもしれない。
そう両目を閉じた時だった。
「痛いの?」
ふと、思わぬ声が返ってきて、マリーは顔をあげた。
歩み寄ってきたリシュリアがそばで屈み、診せて、とマリーのそこに掌を当てる。リシュリアの治癒魔法の前に、じんわりと痛みが和らいでいく。
「どう、まだ痛い?」
問われ、マリーは小さく顔を横に振った。
なんなのだろう。この人は。
「もう、平気です」
「具合が悪くなったら、すぐに言うんだよ」
「……はい」
せっかく手に入れた悪魔を、そんなに手放したくないのだろうか。
こんな、役立たずでも。
リシュリアはマリーをのぞき込むようにしたまま言った。
「夜会場の場所を調べてみるよ、なにか、魔法の痕跡は残っているかもしれない。手伝ってくれる?」
「ええ。もちろんです」
「ありがとう」
リシュリアが、ゆっくりと身を起こす。
「魔城の場所が分からなかったのは残念だけど、君が協力してくれるならとても助かるよ」
「わたし、なんかが?」
リシュリアは困ったように微笑む。
「君、自分は大したことないって言ってたけど、たぶんそんなことないよ。君にかけられてた幻術、あれ、マルクスってやつのと、君自身の魔力が二重になっていた。君の魔力は、そいつと同等はあると思うよ」
「まさか」
「君が気づいてなくて、僕たちは助かったけどね」
冗談を言うように笑って、リシュリアはきびすを返した。
「お腹空いてるだろう?着替えと食事を用意してくる」
と、ドアノブに手をかけ、振り返る。
「食事って僕たちと同じでいいのかな?」
「……たぶん」
リシュリアが頷く。
「少し待ってて」
この部屋からは出ないように、と釘をさしたあと、リシュリアは扉の向こうに消えてしまった。
足音が完全に遠ざかった頃、マリーはぐったりとベッドに身を横たえた。
そうして、深く息を吐きだす。
やっと息が出来るかのようだった。