エピローグ
雲ひとつない青空が広がっていた。
見上げたマリーは、柔らかく微笑む。
今日もいい天気だった。
洗濯物もよく乾くだろう。
空になった洗濯籠を抱えて、家の中に戻る。そうして手早く家事を済ませると、身支度を整えて仕事へ向かった。
目指すのは老夫婦が営んでいる小さな菓子店だ。
そこでマリーは店員として働かせてもらっている。
気づけば二年も経っていた。
「おはようございます」
マリーがまだ暗い店の扉を開けると、奥から老婦人の明るい声が返ってくる。
「おはよう、マリーちゃん。今日もよろしくね」
「はい」
マリーは微笑み、うなずくと、厨房とは名ばかりのこじんまりとした部屋に入った。
腰を痛めてしまった老婦人に変わり、数ヶ月前からはマリーが菓子を焼いていた。
彼女のレシピを全て習得するにはまだまだ時間がかかりそうだったけれど、マリーはひとつひとつを丁寧に教えてもらっていた。
「焦ることはないよ。なに、大した店じゃないからね。気負わずに作ってくれたら良いよ」
調理室の片隅に用意した椅子に腰掛けたまま、老婦人はマリーにそうやさしく笑いかけた。
店主である老婦人の夫は無口な人で、滅多にマリーに話しかけはしないけれど、マリーの菓子の出来がいい時は、小さく笑ってくれる。皺の刻まれた老婦人と老旦那のその笑顔が、マリーはとても好きだった。ふたりは幼馴染みでもう五十年も連れ添っているのだと言う。偉大な夫婦だった。
「早く奥様に追いつけるよう、頑張ります」
マリーは腕まくりをすると、小麦粉を秤にかけた。
そこは、王都から遠く離れたのどかな田舎町だった。
りんごやぶどうなどの果物の特産地として有名らしく、よく商人たちが買い付けに訪れる。彼らを憩うための宿屋や酒場などもあり、活気のある町とも言えた。
マリーが世話になっているこの菓子店には毎日、子供からお年寄りまで大勢の客がやってきた。日々の労働を癒すひとときのため、買いにきてくれるのだ。
店内には数席、飲食ができる場所もある。
そこでは主婦たちがたわいもないお喋りを繰り広げていた。
「しかし、本当に平和になったもんだね」
「第二王子殿下のおかげだよ、魔物がさっぱり出なくなった」
「本当に、素晴らしいお方だよ」
マリーは、彼女たちにお茶を出しながら、静かに微笑んでいた。
「都じゃ、祝祭期間だっていうね」
「お祭り騒ぎらしいよ。いつか行ってみたいもんだ」
「なんでも聞いた話じゃ第二王子殿下はえらい男前だっていうじゃないか」
「拝んでみたいねえ」
旦那の顔は見飽きたと笑いあう主婦のひとりが、マリーを見上げた。
「ねえ、マリーちゃんも気になるだろ?」
マリーは困ったように笑い返す。
「そうですね」
「だよねえ。でも、本当の話、あんたもそろそろいい人見つけなきゃだよ」
「そうだよ!こないだからたまに来てる、黒髪の騎士さんなんてどうなんだい。絶対あんた目当てだよ」
「騎士なんてダメさ。身分が違いすぎる」
「なら、教師のジェニなんてどうだい。真面目だし、稼ぎもある。話をつけてやろうか?」
「あの子は無愛想じゃないか。もっとマリーちゃんを大事にしてくれる男でなきゃ」
「ああ、そうだ。ジェニといえばさ、こないだ学校で」
「なに?なんだい」
話題は、すぐにジェニの勤める学校の問題へと移ってしまった。
マリーは内心ほっとしながらジェニの話に相槌をうつ。
自分でも、焼き上がったばかりのマドレーヌを一口かじった。
数ヶ月前、黒髪の騎士ーー遠征軍に混じっていたクインと偶然再会してしまった時は、どうしようかと思った。
彼はもちろんマリーのことを覚えてはいなかったけれど、記憶の片隅には残っていたのかもしれない。
クインは、二ヶ月に一度のペースで遠く都から買い物に来るようになっていた。
マリーがあの日、祈るようにかけた忘却の魔法は不完全だったのかもしれない。いつ、どんな綻びで思い出されてしまうかがわからず、不安になったマリーは、なるべくクインとは顔を合わせないようにしていた。彼が来る時は老婦人に店番を頼み、自分のことを聞かれたら留守だと伝えてもらった。
怖かった。
もしもクインが思い出して、その記憶があの人に繋がってしまったらーー。
その先の想像を振り払い、主婦たちの笑い声に耳を傾けた。
きっと大丈夫。
忘却の魔法は強固にして禁忌。
消した記憶は、燃えた本と同じ、二度と蘇ることはない。
マリーが読んだ魔術書には、そう書かれていた。
あの人は念願を果たした。英雄として、幸せに暮らしていることだろう。
あの日のマリーの願いは叶ったのだ。
その上、奇跡まで起きた。
マリーは今でも信じられない思いで朝を迎えることがある。
忘却の魔法で魔力を使い果たしたためか、あるいは神の気まぐれかーーあの日、目を覚ましたマリーは人間の身体になっていた。
そばには自分を抱きしめるように意識を失っているリシュリアと、同じく倒れているエゼル。
マリーはリシュリアを揺すり起こそうとして、自分の中からすっかり魔力がなくなっていることに気がついた。いくら魔力を練ろうとしても、少しの風も起こせない。課せられていた腕輪は灼熱の炎に溶け、慌てて触れた背中からは隷属の印が消えていた。
マリーは悪魔からも人間からも自由になったのだ。
まるでそれを祝福するかのように、雨の上がった雲間からは陽の柱がマリーを照らしていた。マリーは泣き出したいような気持ちで空を仰いだ。
リシュリアは、全てを忘れているだろう。
一度は愛してくれた。けれど、今はもう。
マリーは、眠るリシュリアに別れを告げるとそばを離れた。
それが、二年前のこと。
突然現れたクインには驚いたけれど、マリーさえ気をつけていれば、縁は二度とは交わらないはずだった。
陽が傾く少し前。
喋り終えた主婦たちが店を後にする。
マリーはひとり、静かになった店内を片付け、テーブルを拭いていた。
そろそろ店じまいをしよう。
そう思った時だった。
木製の店の扉が開いた。
「すみません」
低く、落ち着いた声に、マリーはテーブルを拭く手を止めた。そのまま、振り返る。
「まだ開いていますか」
その瞳は穏やかで柔らかな金色の髪は暖かな陽だまりを思わせる。
マリーはゆっくりと瞬きを繰り返した。
「はい……」
青年はほっとしたように微笑む。
「良かった。ここの菓子が絶品だと聞いて、気になっていたんです」
言って青年は、小さな店内を見回した。
「良いお店ですね」
こんな時に限って、老夫妻は留守にしていた。これも神様の気まぐれだろうか。
マリーは震えそうになる足を叱咤して、客人に歩み寄る。
「お口に合うかはわかりませんが、お好きなものをどうぞ」
「ありがとう」
青年はいつものようにやさしく笑うと、菓子の並んだ棚をじっくりと眺め始めた。
そうして、幾つかのビスケットを選ぶ。
「ここで食べても構いませんか?戻ると部下がうるさくて」
部下とはゼネルのことだろう。
マリーは頷いた。
「ええ。どうぞ。今、お茶を入れますね」
先ほどまで主婦たちが座っていた席に、青年が腰をおろす。
「いただきます」
生まれも育ちも王子様の彼がそうしているだけで、田舎町の菓子店が、まるで違う空間に見えた。
青年は親指と人差し指でビスケットを一枚取り上げると、口に運んだ。一口かじり、ゆっくりと咀嚼し、残りも口に放り込み、何度か噛み砕いて、飲みこむ。ひとりごとみたいに、言った。
「美味い」
そして、残りのビスケットも次々と食べてしまう。
「美味しい。本当に、こんな美味しい菓子は初めてだ」
青年はこぼれるような笑顔で、マリーに言った。
マリーはくしゃりと顔を歪める。
「大袈裟です」
「そんなことはないよ。本当に美味しい」
リシュリアは、空になった皿を見つめた。
「僕はずっと、これを食べたかったような気がする」
そうして、自分でも不思議だと言うように首を傾げて笑った。
「なぜでしょうね、おかしいですよね」
リシュリアは立ち上がると、土産用にもと、店に残っていた菓子をほとんど買ってしまった。マリーは、おおきくなった包みを、リシュリアに渡した。
「ありがとうございました」
「ご馳走様でした。また来ます」
リシュリアは言って、店を出ていく。
マリーは店先に出て、小さくなる背中を見送った。
仕事だろうか。
最近は晴れ間続きで、水不足が問題になっていたから、魔法で対処をしに来たのかもしれない。そのついでに、クインから聞いていたこの店に、顔を出してくれたのかも。
マリーは唇を噛み締めた。
元気そうで、良かった。ちゃんと魔法が効いていて、良かった。
「……リシュリア様」
小さく呼んでみる。
声は届かない。
だから彼は立ち止まらない。
どんどん、影は小さくなっていく。
待って、お願い、行かないで。
マリーは気づけば、駆け出していた。
きっと近くには護衛がいるだろう。
頭のおかしな女として捕まってしまうかもしれない。
それでも、堪えきれなかった。
だってもう一度彼が来てくれるとは限らない。
「……っリシュリア様!!」
叫ぶと、彼は立ち止まった。
驚いたような顔で振りかえられた。
「わたし……っわたし、マリーです!」
思い出して欲しい。
内から内から、貪欲な願いがあふれでる。
やはり自分の本性は悪魔だった。
最後までリシュリアの幸せを願う、綺麗な女でいたかったのに。
思い出して欲しい。
思い出して欲しい。
たとえあなたが苦しんでも。
欲があふれでる。
「マリーです……!」
リシュリアは立ち止まったまま、じっとマリーを見つめていた。
そうして、やっと小さく小さく、ささやく。
「……マリー?」
声に出した、とたん、彼の表情がゆっくりと変わっていった。
両目が見開かれ、抱えていた菓子の包みを取り落とす。
「マリー」
もう一度、今度ははっきりと名を呼ばれる。マリーは手伸ばした。リシュリアが駆け寄る。次の瞬間、マリーは彼の広い胸の中にいた。きつくきつく抱きしめられて、懐かしい匂いがマリーを満たす。
「マリー、マリー、マリー!マリーだ!」
何度も何度も名を呼ばれ、マリーも必死に彼の背中に腕を回した。
「リシュリア様……」
夢なのかもしれない。
忘却の魔法で消された記憶は、二度と蘇るはずはないのだから。
けれど、そうならばーー夢ならば、縋っても、甘えても、望んでも、許される。
「会いたかった……」
リシュリアの胸に顔をすり寄せたマリーが言うと、頭上から押しつぶしたような声が降ってくる。
「僕だってずっと会いたかった。どうしてこんなところにいたの」
リシュリアが腕の力をわずかに抜く。離れてしまうのだろうかと不安に思ったマリーが見上げる。と、唇に、柔らかなものが触れた。
「もう離れないで」
もう一度、角度を変えて口付けられる。リシュリアは泣いていた。あの日も彼は泣いていた。それを嬉しいと思う自分。浅ましい自分。
マリーは彼を抱きしめ返して、微笑んだ。抱きしめられすぎて痛かった。だからこれは夢じゃない。リシュリアは悪魔に落ちた。
「はい、もう二度と離れません」
「約束だよ」
唇を離したリシュリアが背を屈めて、疑うようにマリーを覗き込む。
マリーは爪先立ちになって背を伸ばし、彼の唇に唇を寄せた。
「はい、約束です」
「……マリー」
たまりかねたようにリシュリアが口づけを返す。
「愛してる」
帰宅途中、少し離れた場所でふたりを見つめていた老夫妻は、顔を見合わせて微笑んだ。
明日も快晴でしょう、と婦人が言って、同意するように老旦那が空を仰ぐ。気の早い星々が、輝き初めていた。
*
リシュリアはマリーをさらうように都へ連れ帰った。
老夫妻は良かったと微笑み、マリーを快く送り出してくれた。
城に戻ったリシュリアは、少しの時間も離れ難いと言うように、マリーと生活を共にした。一緒に眠ることはとても恥ずかしかったけれど、夜、眠る前にお休みと言い合えること、朝、起きて一番にリシュリアがそこにいることが、幸せでならなかった。
「夢みたいだ」
リシュリアは、ことあるごとにそう言って、マリーを抱きしめる。
もう魔法が使えなくなってしまったこと、なぜか人になっていたことを打ち明けると、リシュリアは考え込んだ。
「あの魔法はそもそも、成功例がないはずなんだ」
ますます、答えは分からなくなった。
しかし結局、マリーのことを思い出せたのは、リシュリアだけだった。
シェンナやエゼル、ゼネルらとは一から関係を作り上げねばならず、マリーは寂しさを覚えながら少しずつ交流を深めて行った。
「魔法が使えないから、もう魔術師団には戻れませんものね」
ふたりきりの私室でマリーとリシュリアは長椅子に身を寄せ合って座っていた。
リシュリアが、悲しげに微笑む。
「僕だけじゃ不満?」
「……っそんなことはありません」
焦ったマリーが言うと、リシュリアは楽しそうに笑った。
「良かった。そうだ。結婚式のドレス、シェンナと考えると良いよ。護衛としてつかせるから」
「ありがとうございます」
マリーはやさしい未来の夫を見上げた。
ただの人間になったマリーは、王子に見染められた庶民の娘として注目を浴びている。
御伽話のような話に、国中の娘たちが色めきだっていた。
「ああそうだ、それから」
リシュリアは思い出したように胸元から白い封筒を取り出す。
結婚式の招待状だった。
マリーは受け取りながら、ため息をつく。
「また戻ってきたのですね」
「うん……クインにも調べさせたんだけど、やっぱり、そんな菓子店どこにもなかったって」
世話になった老夫妻に宛てた招待状も、感謝の手紙も、全てが宛先不明で戻ってきてしまう。それどころか、そんな店も夫婦も知らないと顔見知りの主婦までもが首を傾げる始末だった。だったらあのふたりは、誰だったのか。
思考を遮るように、部屋の扉がたたかれた。
ゼネルだ。
「殿下、マリー様。お支度はお済みでしょうか」
「ああ、うん」
リシュリアはうなずくと、マリーの手を取り、扉に向かう。
今日は、仲間内だけの晩餐会が開かれるのだ。
「デザートは、君のビスケットがいいな」
すぐそこにゼネルがいるのも構わず、リシュリアはマリーの目尻に唇を寄せた。
マリーは顔を赤くしながら、リシュリアを見上げる。
「わかりました」
「楽しみだな」
咳払いしたゼネルに急かされるように、ふたりは部屋を後にした。
王子に恋した悪魔と、悪魔に恋をした王子。
ふたりはそれから、末長くそれはそれは幸せに暮らしたそうだ。
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マリーは知らない。
記憶が戻った瞬間の、王子の絶望を。
違和感の正体は、この娘だったのか。
全ての記憶が波のように押し寄せて、王子を襲った。
もう逃げられない。
王子は悪魔を抱き寄せ、唇を寄せた。
細い手が、背中に回される。
幸福に包まれたことに、涙した。
たくさんの仲間たちを葬られ、また彼は彼女の同族を葬り去ってきた。
これは裏切りなのだろうか。
でも、もう後戻りはできない。
胸は押しつぶされそうに痛み、涙が止まらない。
ただひとつ確かなのは、マリーを愛していると言うこと。
彼女を幸せにしたいと言うこと。
それだけだった。
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長いお話にお付き合いくださり、ありがとうございました。**koma




