1捨て駒
***
魔城の深部――呼び出された謁見の間は、相変わらず寒々しくて薄暗かった。
集められた同胞たちは皆、中央に放り出されたマリーに好奇の視線を送っている。残虐な処刑を、望まれていた。
「つ、次こそは必ず……」
跪き、頭を伏せ、震える声を絞りだす。
何度目だろう。
これで、何度目の失敗だろう。
マリーはきつく視界を閉ざし、指先が白くなるほど強く両手を握り合わせた。
「次、か」
正面に座したマルクスの蒼い唇から、抑揚のない声が零れた。続く言葉を想像するだけで、マリーの腹部は捩じられるように痛む。マリーは、しくじり過ぎていた。
マリーの命令権者であり王の直下兵でもあるマルクスは魔族の中でも比較的理性のある男だった。
度重なるマリーの失敗にも他の幹部のように感情的に処断することはなく、幾度も許しを与えていた。命令権者がマルクスでなければ、マリーなどとうの昔に殺されていたことだろう。その一点だけを見れば、マリーは幸運とも呼べた。
だが、その寛容にも限界はある。
「マリー」
低く艶やかなマルクスの声に、マリーは石床に深く伏せたまま、額から汗を垂らした。
「顔をあげろ」
言われるがまま、おそるおそる身体を起こす。希少な翡翠石の椅子の上で、マルクスが微笑んでいた。背筋を悪寒が這った。
「努力は認めてやる、が、お前はどうも要領が悪すぎるようだな。仕方がない、わたしの力を貸してやろう」
「……マルクス様の、お力を?」
「そうだ。お前の容姿を生かして、彼の王子を殺すのだ。場は用意してやる」
マリーは、返す言葉を見つけられなかった。
彼の王子。それが、人間の王の息子リシュリアを指している事は明白だったからだ。
リシュリアは国の第二王子にして魔族をも唸らせる腕前の魔術師だった。
五年前、十九という若さで国軍の将についたリシュリアは、手始めというように王都に巣食う魔族を根絶やしにした。
それからは各地に進軍し、魔族を倒し続けている。
しかし本当に厄介なのは、彼本人ではなく、リシュリアの鼓舞と活躍により勢いづいた人間達そのものだった。リシュリアに勇気づけられた人間達は、怯え生きることを止め、武器を手に徒党を組んで魔族に歯向かうようになった。リシュリアの考案した武具が普及したことも大きな要因なのだろう。触れただけで魔族の肌を焼く装身具や、街の至るところに配備された魔物避けのせいで、魔族は安易に手出しが出来なくなっていた。
忌々しい。
かつてない劣勢に怒り狂った魔の王は、リシュリアとその仲間へ次々と刺客を放った。
数百匹の魔物、人質、毒、果ては指揮魔自らまで、ありとあらゆる手段を講じた。しかし、どんな攻撃もリシュリアの前には無意味だった。唯一、幹部のひとりだけが後一歩まで追いつめたこともあったようだが、リシュリア付きの騎士の援護により、それも泡と散った。日に日に魔城からは魔人の数が減っていく。魔王軍には、もう後がなかった。
だからといって、わたし?
「そんな、の……無理です」
マリーは縋るようにマルクスを見上げた。
大悪魔さえ叶わなかったリシュリアを相手に、自分などに何が出来るというのか。リシュリアの部下にさえ何度も負け続けた自分が。
マリーの揺らぐ瞳に、マルクスは笑みを深めた。
「案ずることはない。これはお前の最後の仕事だ」
「……最後?」
「そうだ。王子暗殺に成功すれば、お前を自由にしてやろう」
マリーは思わず目を見開いた。
自由。
それはさも魅力的な提案に聞こえた。
悪魔マリーは、赤子の頃から魔の王に服従を誓わされていた。
生まれてすぐ背に焼き印を押された悪魔たちは、魔の王にその命を握られている。故に彼らは魔の王とその配下に付き従わねばならなかった。
下級魔であるマリーも、つい先頃までは、魔城の下働きに過ぎなかった。
しかしリシュリアの活躍により窮地に立たされたマルクスが、通常の魔人よりは強い魔力を有しているマリーに目をつけ、己の部下に引き上げたのだった。それほどまでに魔族軍は精神的にも物質的にも追い詰められていた。
マリーは争いを本能的に嫌っていたが、大悪魔を相手に逆らえるはずもなく、命じられるまま人間を襲い、そうして、返り討ちに遭い続けていた。
『やはり捨て駒にするしかないか』
そうマルクスは呟いたのは、いつだったか。
目の前のマルクスは冷たい笑みを浮かべ続ける。
「どうだ、嬉しいだろう?マリー」
マリーは、笑い返すことなど出来なかった。
王子の暗殺など、成功するはずもない。万が一にも成功すれば儲けもの、その程度の案だった。不要になったマリーをただ処分するのではなく、せっかくだから最後までこき使ってやろうという、マルクスの合理的な作戦だった。
つまりはただの、死の宣告だった。
「無理ですマルクス様、それだけはどうか、お許しを」
マリーは冷たい石の床に両手と額をこすり付けた。虫けらと罵られてもいい、鞭で打たれても耐えて見せる。単純に死が怖かった。リシュリアが、怖かった。
しかしマルクスの冷ややかな瞳にはマリーの懇願など映りはしない。
無情な声が場を揺らした。
「この小剣を使え。人の姿に化かしてやろう。夜会へ潜り込み庭にでも誘い出すのだ。奴は人間には甘いと聞くからな。せいぜい誘惑してやれ」
「い、嫌、無理です……っマルクス様、マルクス様!」
「話は終わりだ、行け。マリー」
マルクスは興味を失ったようにマリーから目を背けると、側近に別の話題を振った。
愕然とするマリーを、屈強な悪魔たちが引きずり出す。マリーは叫び続けることしか出来なかった。
*
そうして潜入させられた人間達の夜会は、それは煌びやかなものだった。
色鮮やかな女性達のドレスに、シャンデリアの光りを返して輝く装飾品。
見上げるほど高い天井画には天使達が所せましと描かれ、マリーをやさしく見下ろしていた。ここはお前のいる場所じゃないよ、早くお帰りと、そう囁かれている気がした。彼らには、マリーの醜く捻じれあがった二つの角も見えていたのかもしれない。
マリーは身を包む紅いドレスの裾を握りしめた。人間の娘を真似、ダークブラウンの髪はゆるく巻いてある。マルクスの魔法で人に化けてはいるものの、与えられた時間は今夜限りだ。悠長にしている暇はない。早くリシュリアを探さなくては。
マリーは夜会には似つかわしくない蒼白な顔で人の波を歩いた。
魔術師に見抜かれるのではないか、角は隠れているだろうかと気が気ではなく、その上、人間の数は増えるばかりで何度も眩暈を起こしそうになった。ぶつかる度に頭を下げ、話しかけられそうになれば身を引かねばならず、城中に張り巡らされた魔除けもマリーの身体を苛み続けていた。
肌はヒリヒリと痛み、上手く呼吸が出来ない。
苦しい、とそう思った時だった。
「大丈夫ですか?」
ふらついたマリーの肩を、背後から支える手があった。あまりの不調に抵抗することも出来ず、マリーは有り難く親切な男の手に寄り掛かる。
「……すみ、ません」
「いいえ。それより何処かでお休みになられた方が。随分、顔色が悪いようですよ」
「ええ」
マリーは礼を述べようと男を振り仰ぎ、そうして息を止めた。
「お連れはどちらに?探しましょう」
初対面のマリーを、彼は心配そうに見下ろした。その瞳は穏やかで、柔らかな金色の髪は、暖かな陽だまりを思わせる。
「―――」
臨戦態勢の彼しか知らなかったマリーは一瞬、人違いかと思った。
直接の面識はない。遠目から見かけたことがあるだけだった。
淡々とマリーの同胞達を葬りさったあの冷酷な青年と、目の前のやさしげな青年が同一人物だとはにわかに信じられず、言葉をなくす。
しかし青年の胸元に飾られた国章は、間違いなく彼があの仇敵――リシュリア・リ・フィオネルであることを示していた。
「あ……あの」
「?なんでしょう」
思いがけず標的から声をかけられ、マリーの頭は真っ白になった。
早く何処かへ連れ出して二人きりにならないと。でも、どうやって、どこに誘い出せばいいのかわからない。
混乱し、見るからに狼狽えたマリーをどう思ったのか、リシュリアの形の良い眉がひそめられた。
「そんなに、具合が悪い?」
「いえ……あの」
「とにかく外に出ましょう」
有無を言わさぬ強引さで、リシュリアはマリーを会場から連れ出した。
人のいない、静かな廊下に出ただけで、呼吸は嘘のように軽くなる。ここには魔除けが効いていないのかもしれない。
落ち着きを取り戻したマリーは、未だ自分の肩を抱くリシュリアの手を離そうと立ち止まった。
「すみません、ご迷惑を」
「迷惑だなんて、とんでもない」
だがリシュリアの手は離れない。マリーは不意に怖くなって身をかたくした。こんな好機はないというのに、頭のどこかで警鐘が鳴っている。
「……あの、本当にもう、大丈夫ですから」
「いえ。どうぞゆっくりしてらしてください」
声から突然、温かさが消えた。
マリーはゆっくりとリシュリアを振り仰ぐ。
「歓迎しますよ、悪魔のお嬢さん」
あの冷酷な瞳が、マリーを見下ろしていた。