一章 振り返ったって何もない昨日だから 2
二
中古で買った軽ワゴンのエンジンをかける。
調子の悪いヒィヒィ声をあげながら、エンジンがかかる。
「くそ、ポンコツ車が!!」
そう言いながら、車をバックさせ、駐車場を出る。静岡県西部は車がないと何も行動することができない。
それくらい交通公共機関は発達していない。都会とは違うのだ。車の維持費なしに生活できる人たちがうらやましい。
過疎化、少子高齢化、ハードで低賃金な仕事。何もかもが都会とは違う。リーマンショック後に至っては、優秀な人間でさえ仕事にあぶれて余っている。
そんな中では今の仕事があり、定収入があるだけでもマシなのかもしれない。
まぁ、会社にいるブラジル人や社長の事は好きにはなれないが。ブラジル人の加工オペレーターは特に重責を背負っているわけでもないのに、態度だけがデカイ。
それなら俺の代わりに品質管理をやってくれよ。重責でつぶれるぜ。
車は日本鉄工本社を抜けた。俺の住む磐田市は静岡県西部の小都市だ。人口は十七万人弱。ちょっと街を外れれば、そこは田んぼと茶畑が広がる農業地帯。
米と茶以外に特に目立った特産品がないのが特徴と言える。
就職浪人の末、六年前にたどり着いたこの町の事を俺はわりと気に入っていた。
温暖な気候と同じくらい温かい人たちの集まる都市だと思う。
昼間に街を歩くと、見事なまでに少子高齢化のトレードマークとでもいうべき、老人が多くて子供が少ない現状を実感することができる。
駅前は夜になると真っ暗に近くて、フィリピンパブと飲み屋がところどころに点在しているくらいで非常にさびれている。
もはや駅前商店街のジュビロードもオレンジロードも死んでいるに近い。もうこの死んだ商店街は生き返らないだろうなという予感はする。
この町を生き返らせるには、大幅なソーシャルデザインが必要なのだろうが、それをするだけの力のある指導者がいない。そんなイメージだ。
俺はそんな事を思いながら、週三回、仕事帰りに汗を流す公共体育館のジムに直行した。
あいかわらず空いてるよな、この体育館。と思いながら、ジムへと足を運ぶ。
ジムは三十畳くらいの広さだ。ランニングマシーンを置いてあるスペースと機械トレーニングのできるスペースに分かれている。
機械トレーニングのできるスペースには、ローイングマシン、チェストプレスマシン、ラットプルマシン、懸垂マシンなどと言った筋トレマシンが立ち並んでいる。
ちなみに料金は一回五百円。入口でカードを購入すれば、十回三千円で利用できる。
スタンプを入り口で押してもらって初めてジムに入れる仕組みになっている。着替えを終え、誰とも挨拶する事もないまま、ストレッチをして機械の前に座る。
俺はこのまま、どうなってしまうのだろう。このままでいいのだろうか。
筋力トレーニングマシーンへの集中力をちょっと欠きながらも、各機械で限界まで体に負荷を与える。仕事は楽しくない。
でもせめてプライベートで楽しめることを探したい。こんなつまらない人生を過ごし、漠然と年をとり、そして何もできないまま死んでいく。守りたい者も大事な物も何一つ手に入れられないまま、仕事だけをして死んでいくのだ。
それだけは嫌だった。でも何とかしなければいけない。でもどうしたら?
そんなことを考えているうちに機械での筋力トレーニングは終わった。
ランニングマシーンに乗る。機械の設定は傾斜を五%かけ、時速十キロのスピードで走る設定にしておいた。体は程よく温まり、汗は顎を伝って床に落ちた。
ジムに通うようになったころに比べると、ずいぶん体がデカくなったよな。
鏡張りのイベントスペースで全身を映すとそう思った。
もっと鍛えたとしても、もとの骨格が小さいから、これ以上の見栄えは難しいかもな。
でも、重量を上げるのは好きだし、ダイエット目的でジム通いを始めた当初と比べると、だいぶ贅肉も落ちたし、良い感じの体になってきた。
もっと鍛えて、もっといろんな事に挑戦できる体を目指そう。YOUTUBEに上げたトレーニング動画の評判はいい。やってみたかいがあるってものだ。
ジムでのランニングマシーンの有酸素運動を終えた。所要時間三十分。
汗をかく事で、会社でのストレスや憂さを晴らすことはできる。問題は先送りになってしまうが、気持ちの整理はできている。だから俺はジムに通っているのかもしれない。
俺は真冬の寒さの中、ダウンジャケットを着こみ、車へとひた走った。なんせ寒くてたまらないのだ。
「金を出せ。出さなければ死んでもらう」
突然の事だった。目の前に顔を隠した男が立っていた。身長は百八十センチ以上。ガタイはかなりいい部類に入る。その右手にはナイフ。
電灯の光をうけてナイフがギラギラ輝く。
それが鮮明に見えた。恐怖で声はでなかった。男のマスクに隠れた口角が上がったように感じた。
ナイフが腹の横を抜けた。心なしか痛みが走った気がする。
「うわ、何するんだよ! おまえっ!」
思わず悲鳴をあげて、地面に倒れた。血は出てない。でもナイフがかすめたり、刺さったりしたのではないか?
恥ずかしながら少し失禁していた。だが痛み以上に、もう一度、男が体勢を整え、こちらにナイフを持って歩いてきていた。それが怖かった。
そのナイフにはベッタリと血が……ついてはいなかった。つまりこれは強盗ではない。ただのイタズラだ。そう錆びつきはじめた俺の脳みそが呟いていた。
「ふざけんなよ、おまえ!!」
俺は強盗に飛びかかった。ナイフを蹴りあげる。ナイフは放物線を描いて、茂みの中へ。
俺はそのまま、強盗を地面に引き倒した。
俺の腕の中でジタバタする強盗のかぶった目だし帽をひきはがした。
汚らしいプリン状態になった金髪と、よく見れば粗末なコートにくたびれたネルシャツ。パンツもやぶれたジーンズを履いている。どこかで見たことがある。だがそれが誰かはわからない。
「悪ふざけがすぎるだろ。バカ」
俺は強盗のみぞおちに右ひざを落とした。男はゲホゲホと咳をしながら言った。
「平松。ションベンちびってたんだな」
男は笑った。なんで俺の名前を知っているんだ? その疑念が頭をかすめているうちに男は言った。
「俺だよ。安藤だよ。昔、お前を教育してやってた安藤だよ」
そこまで聞いて、俺の頭の中を嫌な記憶ばかりがかすめた。
中学時代の事だ。俺の座る椅子に画鋲をしかけて、他の旧友とともに笑っていたヤツがいた。俺を負け犬呼ばわりするヤツがいた。中学一年の時に転入してきたイジメっ子がいた。そうか、こいつは……。
「安藤か。ふざけんなよ。嫌われ者の安藤じゃないか」
「嫌われ者は余計だっつうの」
醜い笑みだった。ほほをゆがませてぎこちなく微笑むその笑顔に吐き気を覚えた。思えば、こいつが人に好かれた事をしていた記憶がない。
この男はエロ本を授業中に読んでいた。
新任女性教師にFUCKという言葉の意味を立て続けに聞いたり、不良ぶって俺をイジメていたが、不良全員にスルーされたりしていたな。本当にどうしようもない記憶しかコイツとの付き合いの中にはない。
「警察には突き出さないでおく。消えろよ」
俺は立ちあがって、ダウンジャケットについた土を払った。安藤は恨めしそうな顔をしながら、背中を向け、ママチャリに乗って、走って行った。
いったいなんだったんだ。あいつ。そんな事を思いながら、昔も今もまともな人間とつきあえていない自分に気づいた。
他の人間は俺よりもうまくやっているのに、俺だけはいつもこんな感じなのだろう。
会社でもだめ。会社以外でも、安藤みたいなやつにしか出会えない。気づかぬうちにクズの仲間入りをしていたのだろうか。
このままじゃだめだよな。今の俺は何をやっても中途半端だ。俺は何をしたい?
YOUTUBEに上げた動画みたいに、また動画を作ってみようか。
人を集め、共同作業をして、スキルを磨き、高めあっていく。そんなことが可能ならば、始めるには遅くないんじゃないだろうか。
動画をつくろう。そう思った。