一章 振り返ったって何もない昨日だから 1
一
「今からやるのはパワハラだからな」
汚い町工場で今日も汚い言葉でののしられ、社長に平手で顔をたたかれた。たたかれた衝撃でメガネが吹き飛んだ。
特に理由はない。仕事をミスしたわけでもない。単純に社長の憂さ晴らしで顔をたたかれただけだった。報告が遅いという事らしい。だが早く報告すれば自己解決を求め、遅く報告すれば、報告の遅れを理由にたたかれる。
どのタイミングでいえばいいというのか?
うまくいかない理由を俺に押しつけて、暴力で気持ちを整理しているとしか思えなかった。口の中が鉄っぽい血の味でいっぱいになった。ギシギシと歯がきしむほどに鈍い痛みが顔全体に広がる。
段々と痛みにも慣れてくるようになったものの、言いようのない社長に対する怒りだけは慣れることはなく、蓄積されていくようになった。
「俺の堪忍袋にも限界があるからな。たまには発散しないと緒が切れる」
社長はわけのわからない事を言った。社内のブラジル人社員がヒソヒソとこちらを見ながら笑っている。わかっているさ。君らからすれば良いゴシップだろうさ。
でも次の被害者が自分以外という保証もまたどこにもない。
十五人程度の中小企業では話はすぐに広まるだろう。日系人を含む八人のブラジル人と、四人の日本人の専門職。後は社長一家が重役と言う形で管理職を圧迫している。
「力で教えてやらないと、お前らはわからないからな。今度言うことを聞かなかったら、ブラジリアン柔術の技をかけてやる。覚悟しろ」
正直言って心外だ。パフォーマンスとしての厳しさを演出したいのかもしれないが、誰がどう考えたってパワハラだ。
社長は四十代半ば。「日本鉄工」を背負う二代目社長だ。正直言って、こんなやつの名前も覚えたくない。
ブラジリアン柔術をやっているせいだろうか、百八十センチの肉体は必要以上に鍛えられていて作業服ごしにも筋骨隆々であることがわかる。
M字に禿げあがった頭をスキンヘッドにしている。禿げ隠しをするためだ。
そして妙な自信を顔にたたえていた。透けて見える底意地の悪さを露呈させる醜い笑い。俺もジムなどで鍛えている方だけど、とてもじゃないが社長と取っ組み合いになってもかないそうにはない。要は頭の中身以外で勝てる見込みのない相手だ。
『平松!! お前のかわりはいくらでもいるんだぞ!』と今日も朝の朝礼で言われたりする。
世の中に良いワンマン社長と悪いワンマン社長がいるとしたら、この会社の社長はまさしく後者だな。
残業したからと言って、残業代をもらえるわけじゃないのに、居残り残業をしない人間は怠け者だ。そんな事を言われるような俗にいうブラック企業だ。
「サービス残業なんて、今の社会じゃザラだから」
それが社長の今の口癖だ。俺は会社を辞めようか、ずっと悩んでいた。
それでもかれこれ六年勤められたのは単純に他に行き場がない事を理解していたからかもしれない。
俺こと平松博は今日も仕事に追われていた。
年も三十路手前の二十九歳。このままでいいのか? なんて思っていたりもする。
俺はジムで鍛えているので百六十八センチの身長の割には横幅はでかく見える。肥満を除いたとしても、着ている服はユニクロでXLサイズだ。
顔立ちは自分では普通だと思っていたが、弟ほどよくはない。フィギュアスケートのスター選手にそっくりの弟と比べると、月とすっぽんだ。
油で汚れた作業着を着て死んだ目をして働いている。
この仕事を始めて、メガネの度がかなり進んだ。一日中、パソコンと闘っているような仕事だ。すっかりビン底メガネの老け顔デブオタクと化してしまった。体だって服を脱がなきゃただのデブにしか見えない。正直、自分の見かけに関して鏡を見たくないレベルのコンプレックスを抱えている。
チェックのネルシャツにオーバーサイズのジーンズを履いてリュックサックを背負って歩いたらまさにその人種のテンプレートみたいに見えると思う。
そろそろ定時の午後五時だ。でもまだ検査室にいる誰も帰る気配は見せない。さすがに一月下旬の午後五時はいささか寒い。だが検査室は年がら年中、空調の設定を二十五度にしているので長袖一枚着ていればひとまず体調管理は大丈夫だ。
正直言って、仕事にやりがいとか楽しさを求めて生きていけるほど世の中が甘くない事を俺は知っている。
ただ、三十路手前になり思うのは、それでも二十代のうちにやりたい事をやっておけばよかったという後悔だった。でも、きっと三十代のころにやりたいことをやらなくて後悔する四十代が来るような気もしていた。
品質管理という仕事も、機械加工の仕事も、油にまみれる準ホワイトカラーの今みたいな仕事を辞めたいと思っていた。 俺にはそんな事ができそうにない事はわかっていた。
俺は車の部品工場で働いている。加工した製品の寸法にズレや間違いがないかを確認する。シリンダーゲージやノギスといった測定器具が正しく機能するのかを確認する。
変化があったら加工担当のプログラムを扱う社員にデータを提出し調整を行う。必ずしもプログラムの担当者が有能とは限らない。次から次へと寸法のズレた製品を生産することもある。
だからこそ、やりがいがあるとも怖い仕事だともいえる。
それから色んな交渉を他社を回って行う。
完全に裏方の仕事だ。最初はやりがいがあると思っていた。でも、頭を下げたり、土下座をしたりするのが関の山の、要は他人のしりぬぐいが俺の仕事だ。
会社と言う歯車の中では絶対に必要な仕事だが、別に俺じゃなくてもできる仕事だと思っている。三年おきに責任者はいなくなる。要は責任が重いリストラ候補者が俺なのだ。真面目に働いているつもりだ。でも報われない。会社は悪い。社会も悪い。こんな会社を選んだ自分はもっと悪い。
俺には就職先すら満足になかった。
急ごしらえで無理やりに就職した会社がブラック企業だった。よくあることじゃないか。
悪い理由をあげたらきりがない。なんで俺はこんな時代に生まれたんだ。
午後七時半に仕事が終わった。正確にいえば午後七時に作業は終了した。そこから三十分間の掃除時間というサービス残業が待っている。
作業中もずっと歯が痛んでいた。鏡で確認してみてもどこかを怪我しているわけではないが、それでも痛みは消えなかった。
まるで働くという事は、それ自体が痛みを伴う事と同義であるように感じる。