殺す
君は息を止めたけれど体温の流出は免れられないようで、足の小指から順になくなっていく感覚、そこで冷えた血が巡り心臓が凍えるような感覚におびえている。身動きがしづらいほど窮屈で、うつ伏せになっているから、呼吸もままならない。
君に構うことなく鈍重な雲が月を隠して流れていく。夜はふけていくが、君は正確な時の流れを知らない。山中に投棄されたクローゼットの中に閉じ込められた君は、体温を奪うだけで、まるで棺のようだと君は考えているけれど、黴が生え虫が住まうその中の切り離された空間では君こそが侵入者だ。
君は昨日の夕方から最終電車まで中学時代の友人と居酒屋で同窓会をしていたようだけれど、幹事をしていた女が選んだ店は飯の質を優先していたようだね。君は頭部への強烈な打撲で意識が薄らいでいるけれど、その人への恨みで胸を焦がしている。そのたぎる熱さもまた外気に冷却される。その繰り返しをずっとだね。でも根本的なことを言えば、その人たちは今日の君の不運とはあまり関係がない。君の運命とそのクローゼットが重なりあっている事実に、この世界で一人しか知らない。
コツンと音がする。それは烏が羽を休めるために降り立ったからだけれど君は今自分が山の中の廃棄されたクローゼットに押し込まれていることを知らないので、暗黒世界の音は際限なく反響しているけれど、それは君の頭の中だけのことだ。烏の趾が天辺を引っ掻くだけでも、君には不気味な存在が掠れた声で自分を嘲笑しているように聞こえる。その存在とは、夜道で君を背後から襲い掛かった暴漢のことかな? 君には、心当たりがあるはずだ。そう、君は今、記憶を蘇えらせようと映像を構成しはじめる。けれど夜の砂の城のように押し寄せた波にさらわれて暗闇のなかに埋没する。それでも君は諦めない。
――夜、酔ったままアパート前。オートロックを解除、ドアを開けた。その背後にッッ。
君には思い出せない。見ていないから、本当に誰の仕業か分からない。殴られた拍子に記憶がとんだと君は結論づけているけれど、それは不十分な現状把握だ。君が知らないのも無理ないけれど、君が倒れて運ばれている間に精神安定剤を何錠も流し込まれている。それにアルコールはまだ完全に分解されていない。そもそも君はまともな思考ができる状態ではない。
しかし、君はただそこで寝転んでいるような柔な人間ではなかった。君は自分を殴ったのが誰なのかを考えはじめた。犯人像を思い浮かべるくらいなら可能であった。
まずひとりめ。同窓会で一緒になった桜庭。理由は、途中まで帰路が同じ方向であったためだ。つまり君と最後に言葉を交わしたという薄弱な根拠であるが、これは君もすぐに棄却した。なぜなら桜庭を含め同窓会のメンバーの殆どと会うのは10以上年ぶりであったからだ。
そこで君はふたりめに、自分を同窓会に誘った柳下を犯人だと仮定した。しかしこれも信じがたいことだ。柳下と自分の関係は良好であり、また、お互いに偽りや隠し事などない。何より、いつでも接触できるのが柳下と君の関係であるから、わざわざ同窓会の帰りに自分を襲う必要などない。
烏が飛び立った。君はクローゼットの中でびくりと震えた。
ズボンの裾から白蟻が入ってきて君の脛の辺りを這いまわっているが、凍れる体で体表の感覚はなかった。しかし先にも述べたが君の聴覚は厄介なほど研ぎ澄まされていた。
君はいっそのこと気絶してくれればと自暴自棄になり頭を思い切り持ち上げた。殴られた箇所を天辺にぶつけて露出した神経に痛みを直接あたえてやれば、その衝撃に意識がとぶはずだと。
まるで芋虫のように君はじたばたと狭いクローゼットの中でもがいた。しかし絶え間ない痛みも虚しく意識がとぶことはない。当然、眠れるはずがない。いつまで続くのかわからない地獄のような悠久にいることを、君は思い知らされた。
気絶もしない。当然、眠れもしない。君は再び自分をこんな目に合わせた卑劣な奴の正体について考えはじめた。しかし先程とは少し視点を変えて、今度は自分の人生から考えはじめた。
まず候補に浮かんだのが、先月まで同居していた恋人である。君が家賃などの生活費を払い続けていたこともあって向こうを家から追い出すかたちで破局した。恋人の借金が原因で喧嘩をした。そこから不仲になり、そういえばと君は重要なことを思い出した。恋人の暴力である。ある日、君が読みかけていた漫画に煙草を落としたといってテーブルの上に残骸があった。君は、その物が失われたことよりも恋人の不注意で全ての物が失われる可能性に激怒した。すると恋人はその残骸を君に投げつけた。君は思い出しながらまた怒りはじめている。
そう、君は恋人の衝動的な動作を許すことができずに声をあらげた。するとテーブルの上にあったガラスの灰皿で君の頭をなぐりつけた。
君は思い出しながら、その理不尽さに、やはり恋人が犯人だと断定できそうな気がしたけれど、君が知らないだけでその恋人は君に追い出されてから別の家に転がりこんでいて、今はその家主と情交に及んでいる。元恋人は君のことなんて既に忘れていた。
雨が降り始めた。腐りかけのクローゼットはその隙間から雨水を通してしまう。容赦なく君の体温を奪う。そして君はつい忘れていた感覚を思い出した。自分にはまだ命があると喜ぶべきか恥辱に震えるべきか判断がつかない、そんな矛盾した感覚。
アルコールを排出したいと膀胱が嘆いている。股間の辺りがうずきはじめたのは、この雨に冷やされて刺激されたからに違いない。君はここで漏らすべきか悩んだが、しかしそんな意思とは無関係に、勝手に排尿した。すると気が緩み肛門まで開放されて液状の便を垂れ流した。下着の中をつぅと滴る排出物の違和感に君は我慢できなくなるが、途中で堪えようとしても一度出始めたものを止められるはずもなかった。
君は屈辱に涙を流した。いっそ舌を噛みきって息絶えてやろうかと。しかし、である。君はまだ希望のようなものを捨てていなかった。それはまだこの暗闇の外、さっきまで自分がいたところには、自分を探してくれる人が確実にいると信じていたからである。手を縛られてスマホで連絡はできない。
なぜなら、君のスマホは私が今この文章を書くために使っているからだ。
そろそろ私も雨に凍えはじめ辛くなってきた。クローゼットの中にいる知らない人への想像に飽きはじめていたところであるから、穴を埋めようと思う。