働く必要なんて全くない
「ぉわぁ……」
目の前に広がる光景を見て、思わず感嘆の吐息が漏れる。
数十分ほどの徒歩で、僕たちはようやく街に到着したわけだが。
確かに大きな街とは言っていたものの、僕の予想を遥かに絶していた。
レンガや石造りの街並みに、大きさも形も色も様々な店や民家が立ち並ぶ。
老若男女問わず大勢の人々が闊歩しており、とても賑やかな喧騒に包まれていた。
まさに大都市といった様相で、街の入口に立っているだけでも気持ちが逸っていく。
「ククルって、この街に住んでたり?」
「あ、いえ。私は、ここから遥か遠くにある龍族の里に住んでいるので、この街にはたまにしか来ないんです」
龍族というからには、高い山だったり人間があまり近寄れないような場所に住処があるのだろうか。あくまで、僕のイメージだけど。
ともあれ、こんなに大きな街に来たのは初めてと言っても過言ではない。
娯楽も充実していそうだし、せっかくだから遊び尽くそう。
そう思い、一歩を踏み出した――瞬間。
「なー、ご主人ー」
ふと、隣に立っているシールが、僕の袖を引っ張ってきた。
訝り、振り向く。
シールは首を傾げ、僕が全く考えにも及ばなかった問いを発した。
「衣食住って、どうするんだー?」
衣食住。
確かに、この世界にいるにしても、それらはどうしても必須になる。
服は……まあ今の服でも構わないが、食べるものや住む場所は一体どうすればいいのか。
異世界なのだから当然お金は円ではないだろうし、今の僕は一銭も持ち合わせていない。
それはずっと筆の姿だったシールも同じだろう。ククルはどうなのか分からないけど、さすがにククル一人に払わせるわけにはいかない。
いや、衣食住に限らず、暮らすなら必ずお金は必要になるのだ。
稼ぐ方法を何とかして模索しなければ、あっという間に飢え死にしてしまう。
「ね、ねえ、元の世界に帰ったりは……」
「戻る方法なんてたぶんないぞー。ここで暮らすしかないんだから諦めろ、ご主人ー」
「ひぃ……無慈悲……っ」
薄々と分かってはいたけど、言葉にされると余計に悲しい。
まあ家族はいないし、既に成人していて学生時代の友達とも疎遠になったし、元の世界に対する未練は正直あまりない。
ククルやシールとはおそらくこっちの世界でしか一緒に過ごすことはできないのだろうから、この二人と楽しく過ごせるのであれば、異世界生活も悪くないのかなとは少し思っていた。
しかし、衣食住の問題に直面してしまえば話は別である。
そんなの、生きることすら困難じゃないか。
「く、くううう……」
「ご主人ー? 大丈夫かー? 急にホームシックかー?」
これからのことを考え、その場で四つん這いになって涙を流す。
そんな僕を心配してか、シールが僕の背中を撫でてくれていた。
食事も住居も、まずはお金を稼がなくてはどうにもならない。
だけど……ここは異世界なのである。
元の世界ですら働いたことのない僕に、こっちでまともに働けるわけがなかった。
それに、たとえ働いてもすぐにたくさんのお金が貰えるわけではないだろう。
となると、最初の数日はやはり野宿だったり何も食べられない日が続く可能性がある。
なんてハードなんだ……まさか、こんなに早く家に帰りたくなるとは。
「落胆するのは早すぎるぞー、ご主人ー。ご主人のためなら、わたしがいくらでも力を貸すに決まってるだろー?」
「……うん、ありがとう」
涙を拭い、起き上がる。
具体的にどんな力を貸してくれるのかは分からないが、その気持ちがただただ嬉しい。
仕方ない。
とにかく、一刻も早く仕事を見つけないと。
いきなり就活を始める羽目になってしまうとは思わなかった。
「あ、あの、しばらく私の家に泊まりますか……? って、遠いし汚いし臭いですから、無理ですよね……すみません」
「い、いや、大丈夫だよ。ありがとう」
ククルにも気を遣われてしまい、僕は慌ててお礼を述べる。
そして辺りをキョロキョロと見回し、働けそうな店はないかを探す。
とはいえ、見ただけで仕事内容の詳細が分かるわけでもない。
直接、店員から話を聞き、働かせてもらえないか交渉するしかないだろう。
とりあえず一番近くにあった飲食店へ向かい――再び、シールに袖を引っ張られた。
今度は振り向くより早く、シールは何でもないことかのように言ってきた。
「なー、ご主人ー。別に、ご主人が働く必要なんて全くないぞー」
「……え?」
「だって、わたしの力を使えば、家でも食べ物でも好きなだけ出せるんだからなー」
「……は、あ、え、あ、んっ?」
笑顔で言われた言葉が上手く理解できず、自分でもよく分からない反応を返してしまう。
いやまあ、確かに筆で書いた文章を具現化する能力だと最初に説明されたが……。
まあ、うん、そうか。そりゃあ、攻撃手段だけでなく建物も食べ物も家具も、何ならお金だって出せてもおかしくはないよね。うん……。
「だったら、先に言ってくれない!?」
「いやー、さすがに分かってるかと思ったんだけどなー。わたしがいくらでも力を貸すって、ちゃんと言ったしなー」
「くう……力を貸すってそういう意味だとは思わないって!」
あんなに落ち込んで悩んじゃったのが、バカみたいじゃないか。
でも、それなら何事もなく無事に解決できそうでよかった。
そう考えると、本当に恐ろしい筆だな。
「あはは、よかったですね。それで、どこに家を出すんですか?」
「そうだね……空いている場所があればいいんだけど」
ククルの問いに答え、辺りを見回しながら街中を歩く。
様々な店や民家、そしてたくさんの人々で、空いている場所などなかなか見つからない。
そうして、彷徨うこと数十分以上。
僕たちは、街の外れにまで到達していた。
さっきまでは色々な建物が立ち並んでいたのに、ここは空き地となっており、見渡せる場所に建物はひとつも建っていなかった。
人気もあまりなく、少なくとも今なら突然家を出現させても驚かれるということはなさそうだ。
「ここら辺で、大丈夫かな……?」
若干の逡巡をしつつも、二人に確認をとる。
二人とも特に反論はないようだったので、シールに目配せをすると、すぐに察してくれたのか筆の姿へと変身した。
とまあ、今から家を出現させるわけだが。
この能力は万能に見えて、案外そうでもないことは既に身を以て思い知った。
ドラゴン状態のククルと戦ったときのように、また想定外のものが出現してしまいそうで少し不安を覚えてしまう。
僕は意を決し、筆先を虚空に向けた。
『目の前に、すごく大きな屋敷が建った』
すると、次の瞬間。
何もなかったはずの眼前の空き地に、一瞬にして大きな家が出現した。
そう。
それはそれはとても大きな、あまりにも巨大すぎる屋敷が。
「な、何この豪邸……?」
ほぼ無意識に、口からそんな呟きが漏れる。
数人が暮らしても余裕で使い切れないくらいの、大きな家。
十人近くは住めてしまうのではないだろうか。
これじゃ、どんな金持ちが住んでいるのかと思われてしまう。
おかしいな……大きな屋敷と表記した程度だと、ここまでの豪邸にはならないと思っていたのに。
本当に、つくづく融通が利かない。
「にししー、大きくて困ることはないんだからいいんじゃないかー?」
「す、すごいです……一度は、こんなに大きな家に住んでみたいと思ってたんです……!」
また人間の姿に戻ったシールは楽しそうな笑顔で、ククルはどこか緊張を滲ませた表情で、家の中に入っていく。
う、うーむ……いいのだろうか。僕としては、さすがにもう少し小さめの家にするつもりだったのだが。
まあ、二人も楽しそうだしいいか。
僕は諦め、二人に続いて家の中に入っていった。