文章って難しい
「……じゃあ、ここって……」
「んまあ、簡単に言うと異世界ってやつだなー」
記憶が蘇った僕の呟きに、筆は軽い口調で返してくる。
異世界。まさかそんなものが、本当に実在していただなんて。
あるなら行ってみたいと何度も思いはしたものの、実際に来るとあまりの衝撃でどうすればいいのか分からなくなる。
それにしても、この筆は本当に僕が持っていたものと同じなのだろうか。
色や形、そして筆管に貼ってあるシールは同じものだとしか思えないけど……でも言葉を話したりはしなかった。当然だけど。
「それで、君は何で喋ってるの?」
「んー? さーなー。なんか、異世界に来たときに魂が宿っちゃったみたいだなー」
そんな奇跡みたいなこと有り得るのか……。
でもまあ、異世界に来てしまっている時点で奇跡みたいなものなのだから今更か。
この森といい、さっきのドラゴンといい、喋る筆といい、訳の分からないことだらけで、困惑したり驚くのにもそろそろ疲れが生じてきてしまった。
「けど、変化したのはわたしだけじゃないだろー? 今のご主人、女の子になってるんだしなー」
「や、やっぱり……!」
髪型や声に服装が明らかに変わっていたからもしやと思ったが、まさか本当にそうだったとは。
そっと、自分の股間に手を当ててみる。
生まれたときからずっと一緒だった相棒が、そこにはなかった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
ついてないし、実にツイてない。
もう既に、早く男に戻りたくて仕方がない。
「な、何でこんなことに……?」
「んー、何でかは分かんないけど、強い願いが形になったのかもしれないなー。にひひー」
冗談のように、快活に笑って言う筆。
誰かに正確な答えを教えてもらえない以上、実際のところどうなのかは分からないし、そんな奇跡みたいな現象に理由や説明を求めても今更どうにもならない。
生憎と、夢でも何でもなく、確かに自分の身に起きてしまっているのだから。
「でも、女の子になれてよかったなー。可愛い女の子は自分の小説にいっぱい登場させるくらい好きだったんだもんなー」
「いや、そうだけど! だからって、自分がなりたいわけじゃないから!」
「んー? そうなのかー?」
僕の渾身のツッコミに、筆は怪訝そうな声を返してくる。
こりゃ絶対、全く理解できてないな。
落胆やら諦念やらが綯い交ぜになったみたいな溜め息を、深々と漏らしていたら。
不意に、頭上から咆哮のような大きな音が聞こえてきた。
訝しみ、上を見上げると――。
先ほどの赤いドラゴンが、すぐ近くの上空に飛んでいる。
明らかに凶悪な瞳をこちらに向けており、今にも襲いかかってきそうだった。
いや、『きそう』ではない。
実際に、大きな口を開けて火炎を吐いてきたのである。
咄嗟に避けることなどできず、炎は僕のすぐ傍らに生えていた木に直撃する。
大きな音をたてて地面や他の木々に燃え移り、一瞬で炎に包まれてしまう。
炎の熱さと、絶体絶命の危機感に、全身から嫌な汗が吹き出した。
「や……やばいやばいやばいっ!」
そんな情けない叫び声をあげながら、慌てて踵を返して駆け出す。
肩越しに後ろを振り向くと、やはりドラゴンは僕のことを執拗に追いかけてきていた。
さっきようやく撒けたばかりだというのに、またすぐ命の危機に見舞われるとか。どれだけ運が悪いんだ、僕は。
「――汝、力が欲しいか?」
「いらないっ! いらないっ!」
「えっ? いらないのかー?」
「力より、確実に逃げられるルートをくださいっ!」
ひたすら森の中を走り、僕の手の中にある筆へ向かって叫ぶ。
もし仮に力を手に入れたところで、あんな強そうなドラゴンと戦うなんてどう考えても無理だ。単純に怖い。
とにかく、今はこの場を逃げ切ることさえできれば問題ないのである。
「しょうがないご主人だなー。なら、わたしの力を使うのが一番だと思うぞー」
「わたしの力……って?」
「わたしで書いた文章を、具現化できる能力だぞー。すごいんだぞー」
わたしで書いた文章。
つまり、この筆で何かを執筆しろ、ということか。
いきなりそんなこと言われても何を書けばいいのか分からないが、それでこの場を切り抜けることができるなら迷っている暇などないだろう。
「で、でも、どこに何を書けばいいの?」
「何でもいいぞー。炎の玉を出してドラゴンに攻撃するのもいいし、大きな壁を出してドラゴンが通れなくするのもいいしー。適当に、空中に何か書いてみろー」
「空中に……?」
半信半疑ながらも、駆けながら言われた通りに虚空に筆を走らせる。
すると、筆の動きに応じて、虚空に文字が浮かび上がってきた。
なるほど……筆が言っていることが本当なら、この浮かび上がってきた文章の内容を具現化できるということらしい。
考えている余裕などない。
僕は真っ先に脳内に浮かんだイメージを、そのまま文章に書き起こした。
『熱く大きな球が、ドラゴンへ向かった』
瞬間、どこからともなくバスケットボールくらいの大きさの球が現れ――かなりゆっくりのスピードでドラゴンへ迫った。
奴は意にも介さず、軽々と回避してしまう。
「あ、あれ……? いくらなんでも遅すぎない……?」
「にししー。どれくらいの速度か書いてなかったから、遅くても問題ないと判断されたのかもしれないなー。言うの忘れてたけど、判定はかなり厳しいから気をつけるんだぞー」
「ええっ……?」
どうしよう。
大ヒットを連発しているような作家の方々なら大丈夫なのかもしれないが、何を隠そう僕は底辺ウェブ作家でしかないのだ。
そんな文章力があれば、もっと人気が出ていたに違いない。
「それにしても、『向かった』はないだろ『向かった』はー。確かに間違いじゃないけど、あんまり速いスピードで迫っているイメージができないだろー? それに、『熱く大きな球』って、ふわっとしすぎだろー。どれくらいの熱さなのかも、どれくらいの大きさなのかも分からないし、何がしたかったんだー?」
「やめて! 傷口に塩を塗らないで!」
口調自体は軽くはあるんだけど、指摘の内容がいちいち厳しくて涙が出てきそうだ。
僕の編集者か、このやろう。
とにかく、もっと細かく詳しく書かなければ正しく判断されないということか。
気を取り直し、再び筆を虚空に走らせた。
『スカイツリーのような長さの壁が立ちはだかった』
ガガガ……と奇妙な物音を伴い、地面からひとつの細長い壁が伸びた。
僕の、目の前で。
「ギャーッ!? 何で後ろじゃないのお!?」
「だってなー、『立ちはだかった』だけだったら、自分の前に現れたみたいだろー? それに、ただ長いだけだったら細長くなっちゃうし、数も指定してないからひとつだけ出てきても普通に避けられて意味ないと思うぞー。あと、この世界にスカイツリーはないぞー」
「ああもうめんどくさいなぁっ!」
まさかの自分の攻撃で自分の邪魔をしてしまうという失態を犯し、壁を躱しながら思わず叫ぶ。
一文を書いただけで、三つもの指摘をいただいちゃって心が折れそうだ。
どこからどこまでの情報を描写しなくてはならないのか。判定は厳しいと言っていたが、これはもはや厳しいを通り越して理不尽である。
「わたしが代わりに書けたらいいんだけど、それはできないからなー。頑張れ、ご主人ー。応援してるぞー」
またもや凄まじく軽い口調で、何とも無責任なことを言ってくる。
確かに応援はしてくれているのかもしれないけど、指摘ばかりでどうすればいいものやら全く分からなくて困る。
「やっぱり……文章って難しい……ッ!」
たまらず、半ば無意識に呻き声を漏らした。