☆もし本当に異世界ってやつがあるなら
暖かい光が、全身を包み込む。
こんなに日光を浴びたのは、いつぶりだろうか。
いつも窓やカーテンはちゃんと閉めていたはずなのに、寝ている間に開いてしまったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、目を開ける。
瞬間、目が合った。
大きな口から覗く、鋭利な牙と長い舌。
僕より何百倍も巨大な、真っ赤な鱗に覆われた体。
背中から生えた、赤黒い翼。
どこからどう見ても巨大な赤いドラゴンが、その凶悪な瞳で僕を見ていたのだった。
それも、かなりの至近距離で。
一瞬で全身から血の気が引き、頬を冷や汗が伝う。
いや、頬だけじゃない。
それだけで、全身から嫌な汗が大量に吹き出す。
時間が止まった気がした。
心臓も止まった気がした。
えっと……どういう状況ですか、これ。
気づいたときには、僕は立ち上がってすぐさま踵を返していた。
全速力で、とにかくひたすら駆ける。
「ななな何これ何あれっ!? ていうか、どこ、ここっ!?」
泣き叫び、周りを見渡す。
辺り一面にたくさんの木々が並ぶ、鬱蒼とした森。
肩越しに後ろを振り向いてみれば、先ほどのドラゴンが執拗に追いかけてきていた。
右折と左折を繰り返し、周囲の木を利用して攪乱を試みる。
しかし、こんな深い森に来たことなんて今までにあるわけがないし、ドラゴンを撒くのより先に僕が迷ってしまいそうだった。
というか、もう迷った。
どの方向から進んできたのかすら分からず、当然どっちに進めばいいのかも分からず。 もう背後を振り返る余裕はとっくにないが、未だにドラゴンが追いかけてきているかもしれない以上、僕は足を止めるわけにはいかずただ前へ走り続けた。
「……はぁ……はぁ……」
やがて、とある一本の木に隠れ、乱れた息を整える。
身を隠しながらも様子を窺い、近くにドラゴンがいないことを知ってほっと胸を撫で下ろす。
何とか撒けた……のはいいんだけど、一体どうなっているのか。
ここは明らかに日本じゃないし、そもそもあんなドラゴンがこの世に実在していること自体が信じられない。
でも――異変は、他にもあった。
ゆっくりと、自分の体を見下ろす。
白いワンピースに、黒を基調とした丈の長い上着。
そして。今度は肩越しに後ろを振り向き、僕の頭部から伸びている金色の毛を指に絡める。
そう。
何故か身に纏っている服装が変わり、更に僕の髪が、かなり伸びているのである。
本来、僕は普通の男らしく短い黒髪だったのに。
それが、癖っ毛の多い金髪のロングヘアになってしまっていた。
本当に自分なのかさえ疑ってしまう。
「どうなってんの、これ……」
思わず声に出し、眉根を寄せる。
声が高い。僕の口から発せられたであろう声は可愛らしく、とても男のものだとは思えなかった。
意味が分からない。
大きな驚愕は恐怖に変わり、僕の感情を支配し――。
「――汝、力が欲しいか?」
不意に、どこからともなく聞こえてきた。
口調の割には甲高く、まるで幼い女の子のような声が。
辺りをキョロキョロと見回してみても、僕以外には誰もいない。
「ここだぞ、ここー。ポケットを見てみろー」
気のせいかと思ったら、また同じ声が聞こえてきた。
ポケット……?
服を探り、上着に内ポケットがついていることに気づいた。
手を入れ、中に入っていたものを取り出す。
それは――一本の筆だった。
「よし、やっと気づいてもらえたなー。ご主人、家で何があったか覚えてるかー?」
「……え、は、えっ?」
筆が完全に言葉を発しており、僕は困惑して素っ頓狂な声を漏らす。
自分の服装や髪、更に声まで変わり、ドラゴンに追われ、挙句の果てに喋る筆。
本当に、何から何まで訳の分からないことばかりだ。
事実は小説よりも奇なりとは言うが、その言葉を作った人だって、現実でここまで奇妙な出来事が起こるとは思わないだろう。
「ほら、思い出してみろー。ご主人ー」
「そ、そんなこと言われても……」
僕は頭を押さえ、ここで目を覚ます前の記憶を探す。
ああ、そうか。
思い出した。あそこで何があったのかも、この筆が何なのかも。
§
「く、くっそお……っ」
僕――藍都璃音は、自室の机に突っ伏して呻き声をあげていた。
もう一度顔を上げ、目の前に置かれたパソコンの画面を睨む。
とある小説投稿サイトの画面だ。
数々の文字と、数字が並んでいる。
いや、『数々の』というのは誤りか。
何せ、ブックマーク数もコメントもポイントも皆無で、表示されている数字は0だったのだから。
しかも、PVという何回閲覧されたかを表す項目には三桁の数字が表示されているのが、余計に辛くてしょうがない。
それはつまり、読みに来たはいいものの、つまらなくてブックマークしたりコメントを残す必要がない、と判断されてしまっている証拠だ。
半年ほど前から始め、既に数十話以上も投稿しているのにも関わらず。
普通は、人気のない小説というのは面白いか否か以前に、まず読まれすらしていないことが多い。
だから、僕は某SNSを利用して宣伝を欠かしていない。
それでも、僕の小説を読みに来てくれる人はあまりいない上に。
他の人たちがランキングに載っただとか、ブクマ何件突破しただとか、書籍化が決定しただとか、そういう報告を目にする度に、祝福より先に嫉妬心に襲われてしまうのである。
……だめだな。
そんなことばかり考えていたって、醜いだけでちっとも前に進めやしない。
そうやって嫉妬している暇があったら、少しでも多く書き続けないと。
頭を左右に振り、一本の筆を強く握りしめる。
僕は普通にタイピングはできるし投稿もパソコンで行うが、執筆だけは筆を使っている。『筆を執る』と書いて執筆と言うわけだし、そちらのほうが個人的に書きやすいのだ。
この筆は、今は亡き父親の形見。
何年も前、僕が幼い頃から使い続けており、筆管には一枚のシールが貼っている。
そのシールの柄を眺めながら、僕は深々と溜め息を吐く。
「はぁ……もし本当に異世界ってやつがあるなら、僕も――」
刹那。
パソコンの画面と筆が、突如として光り出した。
思わず筆を握りしめたまま両腕で顔を覆う。
光は治まるどころか徐々に輝きを増していき、やがて。
僕の視界全てが、他に何も見えないほど濃い光に包まれた。
そして、僅か数秒程度で。
僕の意識は、闇の中へと落ちていった。