8話 湖へやってきた
森が開けた場所には、澄み渡ったきれいな湖面が広がっていた。池、いや湖だろうか。
クルルの手の上で四本の足をふんばって立ち、首をできるだけ伸ばす。おおー、きれーだなー。目を見張り湖の端から端まで眺める。
「もうちょっとで歩けるようになりそうだ、な」
頭の上から嬉しそうな声がかけられた。そう、俺はまだ歩くことが下手だった。足の踏ん張りがきかず匍匐前進のように這って進むのみ。早くオトナになりたい。
きらきらと日差しを反射する湖のすぐそばまで歩くと、クルルは俺を地面に下ろしてくれた。
うおー、視線低っ!むぅ、これじゃ雑草と空しか見えない。あ、アリンコ。
生い茂る草とアリの行列を見ていたら頭上に影が差した。見上げると、ライアットが目の前の何もない空間に手をつっこんでいた。
あれ?手が消えた、あ、出てきた。一瞬消えていたその手には棒のようなものが握られており、それがずるずると引き出されていく。釣竿である。
「んん?ほっほっほっ、驚いたかの?これは“アイテムボックス”というスキルの一種じゃ。なかなか便利じゃぞ」
目を丸くしている俺を尻目に、ライアットが釣竿をいじりながら得意げに笑う。
なんだそれ、なにその魔法。いや、スキルって言ってたか?いやいや、どう見ても魔法じゃんそんなの。ずりぃ、俺にもそういうのないの?
興奮のあまり背中の毛を膨らませていると、何か音がした。
ザパンッ
「ぬおぉッ!?な、何しとるんじゃー!」
ライアットが素っ頓狂な声を上げる。水音がしたほうを見るとクルルの姿がなく、水しぶきがキラキラしていた。
キラキラに目を奪われていると、耳をつんざく轟音が響き足元が揺れだした。
な、何が起きてるんだ!?
再び上を見上げると、ライアットが釣竿ではなく木の杖を持っていて、小声で何かつぶやいている。
俺は夢中で足をばたつかせ匍匐前進、視界をふさぐ雑草の間に顔をつっこみ、杖が向いている先の湖を見た。
ドドドドドド…
湖には向こうの端まで一直線に深い切れ目が走っていた。湖が、割れている。
不自然に上へと流れる水の壁の中心、湖の底にクルルがへたりこんでいるのが見えた。こちらに気づき振り向くと、口に咥えていた魚がぼとりと落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
穏やかな青い水をたたえた湖、その中をけっこうなスピードで泳ぎ回るクルルを眺めながら、ライアットは丸太に座っていた。俺はその膝に載っている。
「…呆れた奴じゃ、まさかこの魔物のいる湖で泳ぐとは…魔物より早く泳げるなど信じられん」
そうぼやきながら、釣竿を手に疲れた顔をしていた。たしかにあの泳ぐスピードは人類っぽくない気がする。あいつ獣人っていうのじゃなくて、魚人なんじゃねーのか。
背後では平和にモシャモシャと草を食む音がする、連れてきたヤギは問題なく食事をしているようだった。
ヤギって何気に手がかからなくていいな、ヒモつけてないのに逃げていかないし。
しかしじいさまよ、俺はむしろさっきアンタが使った魔法のほうに驚いたぞ。なんだよあれ、魔法ってあんな派手なやつばっかなの?この世界で生きていける気がしない。
内心ドキドキしつつ心の平穏を保とうと前足を舐める。
俺だって人間だった、そんな動物みたいなことするなんてばっちいし嫌だと思っていた。しかしなんだ、いざ猫になってみると…毛づくろいをしていると気持ちが落ち着く。舐めた所がスースーして気持ちいいし。
「…お」
ライアットの釣竿がぴくりと震える。魚がかかったようだ、座り直すと嬉しそうに竿を引っ張る。
魔法で捕れば早いだろうにとも思うが、この顔を見るに釣りが趣味なんだろうな。
釣り好き爺さんは微妙に力加減を変えながら、少しずつ竿を引き続ける。
だが突然水面から魚がビョーンと飛び上がり、引っ張っていた勢いのままじいさんは切り株の後ろへ転げ落ちた。膝にいた俺も宙に浮き、ころんと転がってその胸に着地。
「ク、クルル。親切は嬉しいんじゃが…それやられると釣りの醍醐味が…」
魚が飛び出したとこの水面から顔を出したクルルが、情けない顔をしてゆっくり沈んでいった。