2話 ここではないどこかで
気が付くと、目の前には真っ白な広い空間が広がっていた。なんだ、ここ?
抑揚のない白一色な景色、視線を横へずらしそこに何かがいることに気づく。美しい女性のように見えるが、なんだかぼんやりしていてよく見えない。その人は目の覚めるような真っ青な、流れるように長い髪を足首までたらしていた。
うっすら光ってるようにも、透けているようにも見える。この人って、まさか…天使的なもの?
もしかして…俺死んだの?
唖然としたままそんなことを考えていると、頭の中に声が響いた。
『あなたは…困っている人がいて、あなたなら助けられると聞いたら、助けて下さいますか』
ぼけーっとしたまとまらない思考のままその言葉を聞く。うん…?えーっと?
『………』
答えもせずただ立っている俺に、その女性はにっこりと笑いかけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い石畳の上を、慎重に一歩ずつ進んでいく。見通しの悪い通路はまだまだ続いている。
埃臭い空気をゆっくり吸い込み、匂いを探る。右に向かう空気の流れ、しかし腐敗臭と血の匂いもまざっている、次の分かれ道は左へ行ったほうがいいだろう。
裸足のつま先で床をなでるように、しかけがない部分を探して踏みしめながら歩く。この通路は落とし穴がとても多い、歩ける道が見つけづらいほどに。背後に続く気配が苛立ったため息をついた。
それからは罠を作動させることなく歩を進め、やがてかび臭く広大な空間に出た。向こうに巨大な石の扉が見える。安全だという合図…しっぽをだらんと下げた。
俺の後ろに続いてぞろぞろと入ってくる者たちを、じっと立って待つ。命令がなくてはこの先へ進むことはできない。
「くそっ、忌々しい…!なんであいつらが死んだのにお前は生きてんだよ!」
怒鳴りつつ背中を切りつけられた、背後から赤い血が舞う。使ったのはお頭の大太刀だろう、だがこのくらいいつものことだ。切るほうも慣れたもので致命傷にならないよう浅く切っているのがわかる。
しかし…あいつら?…ここへ至るまでの道のりで罠や魔物によって死んだ奴らのことを言っているのだろうか。誰、だったっけ。何人死んだのだろう?思い出せない。
「お頭、この扉!間違いねぇ、古文書にある通りだ。いや、でもまだ罠がある可能性は…」
「ここの広間には仕掛けはないと書いてあったんだろ?王都の宝物蔵に収められてた古文書だ、嘘は書いてないと思うんだが…」
野盗達が俺の背後で会話している、俺へ向けられた指示が出るまで耳を澄まし、待ち続ける。
「クルル!扉を開けろ」
お頭からの命令が出た。俺はまっすぐ歩き巨大な扉の前へ立つ。背後から息をのむ音が聞こえた。
俺の背をゆうに越す巨大な扉には取っ手のようなものは見当たらない。両手をあて、力を込めようとした…が、触れた瞬間、焼けるような熱さを感じた。とっさに手を離そうとするが、まるで貼りついたようにはがれない。手が触れているところからじわじわと赤い線が広がり、扉に複雑な文様が浮かび上がっていく。
「う…!?こ、こいつは」
「おい、手を離せ!そこから放れろ!」
お頭の命令が聞こえる。手のひらに感じた熱は痛みへ変わり、全身へ広がっていく。痛い、…痛い?
そうか、俺は痛みを感じている。俺は…俺はなぜ、こうしている?
目が覚めたような気分だった、しばらくぶりに自分の意思が働く。目の前いっぱいに広がる赤い文様を見て、ここがどこで自分が何をしているのかを思い出す。
あぁ、またか…最近自分が自分でなくなるような気分になることが増えた。自我が消えかけているのかと恐ろしくなる、もしくは俺の心はすでに死んでいるのかもしれない。
背後から立て続けにお頭の怒声が聞こえるが、扉につけられた手はもちろん、瞼すら動かすことはできなかった。
罠…しかも魔法によるものか、最悪だ。俺は魔法が欠片も使えない、この状態から抜け出す策など一つも浮かばなかった。
痛みに呻きながら、このまま死ぬのならそう悪くはないのかもしれない、とも考える。この首輪、これがある限り俺は自由になれないのだから。
力むのを諦め、全身の力を抜く。出来るならこの苦しみを早めに終わらせてくれと願った途端、痛みが消え体が軽くなった。
何が起きたかわからずにいると、扉が消えていてその向こうにぼんやりと広大な空間が広がっているのが見えた。
「まさか…なぜ解除されたんだ…?」
「い、いやッ、そんなことより卵だ!おい、卵を探せ!!」
盗賊達がどよめく声が聞こえる、なぜ俺は罠で死ななかった?そんな混乱した思考とは関係なく、聴覚が捉えた命令に従ってオレの足は無意識に前へと進んでいった。
…頭から血の気が引いていく、正面には石の台座へまつられた大きな丸いものがある。かすかに感じる強大な気配、これが魔獣の卵だ。
命令に従うため体が勝手に動くのを、意志の力で必死に止めようと試みる。それだけで首のあたりに激痛が走り目の奥が熱くなった。
わずかな抵抗だったが、体がぶれたせいで爪先がかすかにずれ、その下の床がカチリと音を立てた。その瞬間、薄暗い広間が真っ赤に燃え上がる。
台座を円形に囲むように轟音を立てる火柱が次々と噴き上がり、空気が熱でゆがむ。盗賊達の声と足音は扉のあったあたりで止まっている。気づけばオレの立つ場所の数歩後ろには、天上まで覆う炎の壁がゆらめいていた。
「……ッ、…早く…ろ!」
ごうごうと音を立てる炎に遮られながらも、かすかに命令が聞こえた。
命令に従わないと、この首輪の魔力でおそらく脳が真っ先に壊れるだろう。あまりの激痛に頭を抑えながらそれでも台座から後ずさろうとする、しかし俺の足はゆっくり前へ歩き出した。
もう目の前、手の届く距離に卵がある。抵抗もむなしく、俺の両手は震えながらそれへと伸びていった。
(だめだ、あいつにこれを渡したらどうなるかなんて俺だってわかる。そんなこと…ッ)
気を抜くと消えてしまいそうな自我を懸命に働かせ、考える。魔獣が生まれてしまえば、また大勢の人が苦しむ。魔王が生き返ってしまうとも、魔物の力が強まってしまうとも聞いた。
俺の心は決まった。勝手に動こうとする己の手を見つめる。俺の力で出来るかはわからない、だがここでなんとかしないとこの世界がどうなるかわからないのだ。
卵をじっと見つめ、視界が霞むほどの痛みをこらえながら、ゆっくりと右腕を振りかぶった。