19話 記憶の世界
…ここはどこだろう。
たくさんの人が回りを行き交っている、無機質な灰色をしたビルの群れ、ガソリン臭い空気。
「は?」
違和感を覚えあたりを見回す。
ここは、俺がたまに行ってる飲み屋のある交差点じゃないか?
信号機の横に薬局、あのビルの受付はボブカットの可愛いおねいさん、道路の向こうには見慣れた看板が並んでる、間違いない。
これはもしかして、もとの世界に戻って…
「へぇ、人が多いんだねぇ」
「はぁ!?」
「うっふっふっ」
艶のあるハスキーボイス、俺の後ろには白い着物の美女がぷかぷかと浮かんでいた。
赤い瞳を輝かせて世界を見回す、まるで見たことがないものを見る子どものようだ。
「な、なんであんたが!?って、俺しゃべってる!あ、手がっ足がある!?」
「手も足もさっきからあったろう」
「ちっがーう!人間に戻ったんだよ!!」
わ、訳がわからん、なんでこの人がここに?
ここ、元の世界だよな?俺、戻ってきたんだよな?
「きらきらしくて目がおかしくなるねぇ、これはずいぶんと文化が発展してるようだ」
異世界の美女は中空を漂うように、あっちへふわふわこっちへふわふわと、目を見張ったり細めたりしつつまわりを物色している。
やばい、こんなあからさまに普通じゃないのが人通りの多いとこにいたら、大騒ぎになっちまう…!!
「あ、あれ?なんで誰も騒がないんだ?え…今、俺のことすり抜けなかった!?」
スマホを見ながらすたすたとこっちに向かってきた中年リーマンが、俺の体をすり抜けていったのだ。そのまま何事もなかったように歩き去っていく。
「ここはアンタの記憶の中さ」
なぬ!?
「へえ、この城は壁が硝子でできてる!これは…地面の石みたいなのは『コンクリート』ってぇのかい。ふむふむ」
ビルの壁面のガラスをぺたぺたと触り、上を見たり下を見たりしている。
と、美女が突然黒いスーツ姿に変わった。
「うおっ!?」
「こりゃいい、見た目は窮屈そうなのに存外着心地がいいじゃないか。『スーツ』ってのか、あっちの服はどうだろうね」
黒いスーツが、今度はブレザーの制服に。
短いチェック柄のスカートから露になっている組まれた生足、肩には学校指定のかばんまで…いやいや、ちょっとこれはマズいんでは…
「ん?ああ、これは若いもんが着る服なのかい。ほぉ?一概にそうとも言えないって?そういう性癖のやつには需要が高いっ…て、娼婦みたいなもんかね?」
「おおお俺は何も言ってないぞ!?決してちょっとエロいだなんて思ってませんですます!」
うおーっ、なんで俺の考えてることがことごとく分かるんだよ!?俺一言も言ってないし顔にも出てない(多分)なのに!
叫ぶ俺を置いて、彼女はブレザー姿のままふわーっと飛んでいった。
無機質な街並みに淡い光を落としながら、次に彼女が興味を持ったのは本屋だった。
店先に並ぶ雑誌や文庫本を眺めながら、唇に人差し指を添え口の端を吊り上げる。
「すごいね、羊皮紙の本が一つもないよ、全部紙でできてる。こんなにあると圧巻だねぇ」
うきうきとレジ横のお奨め新作コーナーを眺め、文庫本を二冊手に取った。
「なになに…『泥棒三姉妹~湯煙ムラムラ暴れ旅、愛欲の怪物絶倫男~』、『恋のはたきこみ、キミとボクとで八卦よい』?」
「ふぁ!?」
なんだそのタイトル、なによ、その本?どう考えても一般的な話じゃなさそう。
「こういうのが好きなのかい?」
「んなわけあるかーーーー!!」
「いやいや、ここはアンタの記憶の世界だからねぇ…あれかい、ベッドの下とか本棚の裏にこういうものが」
「隠さねーよそんなおかんに即バレするような場所!いやちがう!持ってねーし、つーか見たことも聞いたこともねーよそんな本!」
思わず叫んだら、ほんとかな?って顔で見られた。冗談じゃない。
ま、まぁそういう本に興味を引かれたことはあるかもしんない。けど読んだことはない、買ったのはアイドルの写真集とか…いやいやいや、やましいことなんてない!ないから!
「中身は白紙か、残念。多分こうして店に並んでたとこを無意識に見たことがあるんだろうね。人間の潜在記憶ってのはすごいんだよ」
言うと同時に、音もなく辺りの景色が一変した。
学校だ、俺の通っていた高校の校庭に立って校舎のほうを向いていた。
「ほぅ、アンタのいたとこじゃ10年も学校に行くのかい?ん、義務教育、大学?ほうほう、こいつは興味深い」
あ、頭がついていけない、本当にここは俺の記憶の中なのか?
ここでもやっぱり、校庭で走っている野球部のやつらも先生も、こっちを見ることすらないのだ。もう信じるしかない。
「あー、何かの間違いででもいいから、もう10、20人くらいこっちに来てくれないもんかね。アンタ一人の記憶でここまで面白いんだ、もっとこの世界を見てみたいねぇ」
気のせいか声がすっげぇ楽しそうだ、そしてとんでもないこと言ってない?この人。
うう、頭が痛くなるけどこの人の言ってる通りだとして、そもそも何故に俺の記憶を…
「へえ、おねしょは9才までねぇ。好きなタイプは黒い長髪、胸が大きい色気のある年上か。ほほぅ、好みのシチュエーションは…でんじゃぷれい?」
「ほぎゃーーーー!?」
ちょっと待て!まさかもしや、嘘だろ!?
「なに、恥ずかしがることはないさ、初恋の相手がお母さんだったり、海で水着が脱げて気づかないで全裸で走っていたりしたなんて。しかし黒髪の年上が好みかい、照れるねぇ。なんならちょっとこれから、でんしゃってやつに一緒に行ってみるかい?」
「いやあああああもうやめてーーーー!!」
黒い髪の女の目が一瞬禍々しく光ったかと思うと、その手の上にいたジャックがぐったりと脱力した。
「おっと、ちょっと辛かったか」
女が眉尻を下げ困ったふうに笑った。
手の上でうつ伏せになった子猫をそっと撫で、俺の手へと返す。
良かった…腹が動いてる、生きている。
「ちょいと調べさせてもらったが、やはりこの子には異世界人の魂が宿ってる。アタシも何人かは異世界からの転移者を見てきたけど、魂だけで渡ってきた奴は初めてだねぇ」
その言葉を聞き、ライアットが口をぽかんと開けていた。その顔のままジャックを指差し目線で訴えると、女がにっこり頷く。
ジャックは動かず、うつ伏せのまま微かに震えているようだった。
「ミュウ…」
両前足で顔を抑え小さく鳴いた、まるで泣いているような悲しげな声だ。
「まーまー、そう悲観するこたないよ。元気をお出し」
「ミーーーー!」
女がぽふとジャックの背中に手を載せると、がばっと顔を上げ非難めいた鳴き声をあげる。
いつもは丸い形を作っている黄色い目が、微かにだがつり上がっているようだ。
怒ってる、のだろうか?
「わ、ワシの魔力探知では微かに魔力がある猫としかわからんかったが…もしや、キマイラにかけた呪いとは」
「そ。完全に害意のない存在が、悪意なく触れた時だけキマイラの封印を解くようにしといたんだ。で、万が一の場合はそいつに責任を取ってもらおうと…使い魔契約が自動で作動する呪いを、ね」
…なんの話だ?
キマイラ、あの卵の話なのだろうが、よくわからない。
「なんと…おぬし猫ではなかったのか。妙に頭のいいやつだとは思ったが、人間だったとはのぅ」
ライアットが感心したようにジャックを眺め、ふわふわの頭を撫でた。
「異世界の人間に会ったら聞きたいことがあったんじゃが、なんとか会話できんものかの?いや、記憶を見たのなら姫神様に聞いたほうが早いのか…ちょっと癪だが」
「あー、それなんだがね?多分異世界の進んだ技術について詳しいことはわからないよ」
そう聞くと、ライアットは目に見えてがっかりと肩を落とした。
そうか、オレも噂話くらいは聞いたことがある。
過去、異世界からこの世界に訪れた人間がもたらした伝説の数々を。
魔力を用いないのに驚異的な強さを誇ったという戦闘技能、先進的な医療技術、これまで誰も想像すらできなかった植物や鉱物等、さまざまな資源を活用するための知恵。
「この子は、あー…学生を終えて大人になったばかりの、とくに変わった技能を持たない普通の子だったんだ」
「プグ…」
ジャックの小さな耳と、短いしっぽがへにょりと下がった。
「アタシが見てきた限りでもかなり文明が発達した世界だったが、発達してるからこそかね?いろんな道具の構造も製法も、社会の仕組みや知識さえも、一般人にはなじみのないものらしい。すごかったよ?食べ物一つとっても、野菜も家畜も育てたことがないやつばかりさ」
オレの手のひらの上で、ジャックがうずくまって顔を隠した。しっぽはまっすぐ真下に向いてしまった。落ち込んでいるようだ。
「なんと…」
「みんながみんな貴族みたいな生活をしてるって訳じゃないが、少なくともアタシらよりは楽な生活をしてるみたいだが。馬なしで自在に動く鉄の車、鉄の筒から無限に出てくるきれいな水だの、なんでも売ってる商店とかね。記憶を見るだけじゃなく、いっぺんくらい行って見てみたいもんだ」
す、すごい。想像もできない、そんな夢物語のような世界があるのか。
まるで神々のいるという天上の世界のようだ。ジャックは、そんなところから来たのか。
そこでふと改めて思い当った。
「…ジャックは、人間…?」
「ミー!ミー!」
おれがつぶやくと、ぴくりと反応しこちらに向かって必死に鳴き始める黒猫。
なにを言ってるのかわからないが、何か訴えかけているのはわかる。
「あー、実はその子がそういう姿になったのは、キミのせいなのだよ。人に害をなさない、非力な弱々しい存在であれと願ったろう?」
非力な…弱々しい…。
「………」
「ミャアー!」
そっとジャックの顔を伺うと、強い声で鳴かれた。
な、なんと言っているんだろう。
「とりあえずその子の性質は確認したから問題はないさ。人畜無害、むしろケンカすらしたことがない、いい子だったよ…あっちの方もね」
「フシャー!!」
「ジャ、ジャック?」
ジャックが尾を膨らませて威嚇をし始めた。全身の毛を逆立てて、ヒゲまで広がっている。
それを見ていた女は口をにやーっと厭らしく歪め、目を細めた。
「まぁ、とりあえず自己紹介でもしておこうか。アタシのことは…ウロとでも呼んでおくれ。一応、大地の女神の代理をしてるから色々頼ってくれてかまわないよ」
「女神…代理?」
なんだろう、冗談なんだろうか?オレには判断できないが…
ふと肩に手を載せられた感触がして振りかえると、ライアットが苦悶の顔でゆっくり首を左右に降っていた。なんだかわからないが、同情されているような気がする。
それから女…ウロの語った内容はオレには全く意味がわからないものだった。ライアットにかいつまんで説明してもらい、やっと少しだけ理解する。
ジャックはやはり間違いなくキマイラであり、しかしウロの呪いによって全く別の生き物に変えられていること。その呪いはオレの意思で成立しているため、元のキマイラに戻れるかどうかはなんともいえないらしい。
さらに複雑なことに呪いはオレだけでなくジャックの意志の影響も受ける可能性があり、これからどんな生き物に成長していくかは、魔法をかけたウロにも分からないらしいのだ。
ライアットが言うには、ウロの魔力とジャックの魔力が干渉しあった結果であって、本来のキマイラとしてのジャックは種族的なものを考えても相当魔力が高かったようだ。
ジャックがふて腐れていたようだが、ウロが「本当の姿はこんな感じだ。今の姿のほうがずっとマシだろ?」と砂に絵を描いて見せたところ納得していた。オレには何が描いてあるかわからなかったが、ライアットは「相変わらず絵心がないのぅ」とぼやいていた。
とりあえず、オレが心配していたようなことにはならないようで、内心ほっとした。
例え本当はキマイラであっても、オレと使い魔契約でつながっている。ならオレがきちんと抑えてさえいれば、人に害を与えることはないらしい。
ジャックは、オレと一緒に普通に生きていられるのだ…ずっと心に痞えていた悩みが消えて、肩から力が抜けてしまった。
「一応この子は魔物だからねぇ、放っといても成長することはないよ。他の生き物と戦って魔力を吸収して、レベルを上げないと…ずっと子猫のままさね」
「ミィ!?」
大問題が発生した。