鐘の音
空を揺るがすような鐘の音が、アウルにとって子守唄だった。
教会の鐘は日に二度、日の出と日の入りに鳴らされる。一日のはじまりと終わりを告げる、町の民の生活に欠かせないものだ。鐘を鳴らす役目は代々教会の神官に引き継がれ、現在はただひとり残った神官様が鐘撞きを務めている。
神官様は、ひと言でいえば『変なひと』だ。
薄く伸ばした黄金のような長い髪に白い肌、微笑みが似合う碧い瞳。背筋を伸ばし、すらりとした長身を純白の法衣に包んだ立ち姿は、三十路をとうに過ぎた今でもため息が出るほど美しい。だが難解極まり人柄が、そのすべてを裏切っていた。
面倒臭いと文句を垂れながらも、自分の仕事を完璧にこなさなければ気が済まない。鐘撞きを休んだことも一度もなく、高熱が出ているというのに鐘楼をよじ上ったときには、心配を通り越して呆れ返ってしまった。
そして最も理解しがたいのは、よりにもよって異形の娘を養い子にしていることだ。
異形とは、この世にごく稀に生まれる人離れした姿と力を持つ者のこと。彼らはふた柱の神や精霊から呪いを受けた存在として、生まれながらに罪人の烙印を押される。その血縁もまた、〈穢れた血〉として周囲から白眼視される。ゆえに、異形は生まれてすぐに捨てられるか殺されるかして、人知れず『始末』される運命にあった。
艶のない白い髪、蝋のような肌に時折緑に光る漆黒の瞳。両のこめかみからは、羊のような渦を巻いた角が生えている。そんな姿を持って生まれたアウルは、赤子の頃にぼろ切れにくるまれて教会の前に置き去りにされた。それを拾い上げてくれたのが神官様だ。
神に仕える身でありながらアウルを育てる彼を、町の人々は気が触れたのだと噂した。だが、当の本人は悪意などそよ風のようにしか感じていない。
「以前から興味があったんですよ。これほどまでに罪深いとされる異形とはどのような存在なのかと」
いつだったか、アウルを拾った理由をそんな風に答えたことがある。飄々と笑う養い親に、アウルは肩を竦めてみせた。
「それで、何かわかったんですか?」
「そうですね。この十六年間の成果といえば、きみは私以上に神官らしい、真面目でお堅い人間だというくらいです」
掴みどころのない、まったく困ったひとだが、自分を当たり前のように『人間』と言ってくれる彼のことが、アウルは好きだった。
その年の冬は、いつになく長く厳しかった。
扉や窓をぴっちりと閉めていても、執拗な冷気は小屋の中まで入りこんでくる。寒さにかじかむ指先がとうとう音をあげ、アウルは機織の手を止めた。
息を吹きかけ、両手を揉むようにこすり合わせる。それでもなかなか熱と感覚を取り戻せない。
異形は普通の人間よりも生命力が強いというが、痛覚はちゃんとある。寒さはつらいし、早くあたたかい教会の中へ戻りたい。
本当は小屋の中でも暖を取れたらよいのだが、ここは火気厳禁だ。あるのは布を織るための大きな機織機だけである。
教会の敷地の外れに建つこの小屋は、神事に用いる聖布を織るための機織小屋だ。まだ教会に多くの人がいた頃は、機織女と呼ばれる女性神官がここに籠る慣習があったらしい。しかし教会が寂れていくに従って、機織の音も途絶えてしまった。
それを甦らせたアウルは、名目上は数十年ぶりの機織女だ。しかし彼女の織った布は神にではなく、人に捧げられる。
異形は概して特殊な能力を持っている。アウルの場合、それは機織として顕れた。
自分ではよくわからぬが、アウルの織る布は途方もなく美しいのだという。それこそ『神々の纏う羽衣』などといわれ、遠い都にすら評判が届くほどに。
確かに、一番はじめに仕上げた布を見せたときの神官様の顔といったら、こちらが驚くほどだった。
神官様は珍しく真剣な顔をして、これをいったいどこで手に入れたのかと訊いた。自分で織ったのだと答えると、なんと絶句していた。アウルにしてみれば神官様の反応がよっぽどわからなかったが、今なら当然だと思う。何しろアウルは、機織のやり方をだれかに教わったことなどなかったのだから。
偶然見つけた小屋の中で、埃を被って眠っていた機織機。触れることはもちろん、目にするのもはじめてだった。それなのに、アウルは確かにそれを『知っていた』。
どんな風に動かせばいいのか、まるで呼吸をするように理解できた。目覚めた機織機の声が聞こえた――待ちくたびれた、と。
それからしばらく、何かに取り憑かれたように布を織り続けた。神官様の制止も、自分の思考すら掴めなくなるほどひたすらに。
再び響きはじめた機織の音に、噂はあっという間に小さな町中に広まった。事の真偽を確かめるため、アウルたちを毛嫌いしている町長がやってきたのはすぐのことだ。
早く帰りたくてたまらないと顔に書いていた町長は、アウルの織った布を前にして表情を一変させた。穴が空くのではないかと思うほど布を凝視したあと、にたりと歪んだ笑みを浮かべてこう言った。
(町の財産としてこの品を献上せよ)
あのときほどだれかをぶん殴りたいと思ったことはない。神官様に止められて実行できなかったが。
(貴様らがこの町で暮らしていられるのはだれのお陰だ? 私がご領主に訴えれば、この教会を取り潰すこともできるのだぞ)
肥えた腹を揺すって嗤う町長を睨み据え、神官様は苦々しげにその命を受け入れた。町長の言葉どおり、異端に対する慈悲など権力にありはしない。
以来、アウルの織る布は町を――正しくは町長の懐を潤す稀少な財源となっている。アウルたちの許に残されたのは、それまでと変わらぬ平穏だけ。だが彼女はそれで充分だった。
自分の異能が招いてしまったことなら、それを以て大切なものを守ろう。アウルはそう誓った。
「……あ」
ようやく指先があたたくなりはじめた頃、外から耳慣れた重低音が聞こえてきた。日の入りを知らせる鐘の音である。閉めきった小屋の中はすっかり暗くなっていた。
明かりを持ちこむことはできないため、今日はもう終わりにするしかない。アウルは小さくため息をつくと、片づけをはじめた。
鐘の音は何度かくり返されたあと、尾を引くような余韻を残して消えた。その間に片づけを終えたアウルは、固く閉ざされた扉に手をかけた。
軋みを上げて扉がわずかに開いた瞬間、まぶしい斜光とともにいっそう冷たい空気が流れこんでくる。羽織っていた肩かけをしっかりと体に巻きつけた。
外へ出た瞬間、黄昏の光が視界を灼いた。思わず目を瞑ったアウルは、ふっと近づいてきた人の気配に気づいた。
今朝まで降り続け、すっかり凍りついた雪を踏みしだく音がする。鐘撞きを終えた神官様が迎えにきてくれたのかと、アウルは目を開けた。
「――おまえが仔羊か?」
だがそこにいたのは神官様ではなかった。彼よりも若い、見知らぬ男である。夕陽を浴びて燃え上がる赤い髪。獣のように鋭い青の瞳は、値踏みするようなまなざしで見つめてくる。がっしりとした長身を包んでいるのは、黒い毛皮に縁取られた上等な外套だった。
町長よりも偉そうな、だがそれを許してしまえる高貴な印象。荒々しくも端整な容貌は、こんな田舎町にはふさわしからぬ洗練されたものだ。
庶民ではない。町長や領主などよりもっと上の――貴族だ。
「答えよ、娘。おまえが機織女のアウルかと訊いている。それとも口がきけぬのか?」
「……わたしに何かご用ですか」
アウルは一歩後退った。なぜ貴族がこんなところにいるのか、いったい何者なのか。そんなことを考える以前に、本能が恐怖のような感情を叫ぶ。
――この男は危険だ。
「そうか、おまえか。確かに聞いていたとおりの異相だ」
男はうっそりと目を細めると、ひと息に距離を詰めて手を伸ばしてきた。アウルは逃げる間もなく腕を掴まれ、引き寄せられる。
「……っ」
ぐいっと顔を上向かされ、覗きこんでくる男の双眸と目が合った。唇は震えるばかりで、悲鳴は声にならない。
「こんな小娘が『羽衣』の作り手だと? ……神も不可解なことをするものだ」
まぁいいとひとりごち、男は背筋が寒くなるような薄笑いをこぼした。
「なんの用だと言ったな。俺は買いにきたのだ、おまえを――」
「――何をしているんですか!」
心から待ち望んでいた声に、アウルは力の限り叫んだ。
「神官様!」
雪を蹴散らして駆けてきた神官様は、男からアウルを奪い取った。肩で息をしながら激しく男を睨みつける。
「この子に何をするつもりだったんですか。ここは聖域です。部外者の立ち入りを許可した覚えはありません」
「聖域に〈呪われしもの〉がいることは許されるのか? なんともおかしな話だ」
男は低く喉を鳴らす。神官様は眉をひそめると、男の視線から隠すようにアウルを抱き寄せた。
寄り添うふたりを眺める男の目には、残虐な愉悦の色が滲んでいた。
「婚礼の衣裳、を?」
「そうだ」
戸惑うアウルに、男はゆったりと頷いた。
やはり男は、遥々都からやってきた貴族だった。それもかなり位の高い者であるらしい。町長が唾を飛ばして何か言っていたような気がするが、ほとんど聞き流してしまった。
あのあと、慌てた様子で男を追いかけてきた町長や役人たちに連れてこられたのは、町のなかでも一等大きな町長の屋敷だった。その中で最も広い部屋に通され、アウルたちは改めて男と向き合った。
一段高い上座に腰を下ろした男は、毛足の長い織物の上に転がるクッションにもたれて寛いだ様子を見せていた。外套を脱いだ装いは、やはり上等だが着崩したようなゆるやかなものだった。しかし――まったく隙がない。
たとえばここで男に斬りかかる者がいたとしても、血の海に沈むのは男ではないだろう。アウルは緊張を解くどころか、ますます体を強張らせた。
隣に端座した神官様は、厳しい顔つきでじっとアウルと男のやりとりを聞いていた。アウルがまともに男と話せるのは、彼がすぐそばにいてくれるからだ。
「冬が明けてすぐ、春のはじめに妻を娶ることになった。その許嫁がな、おまえの織った布をいたく気に入って、『羽衣』で作った花嫁衣裳でなければいやだと言い出したのだ」
男はやれやれと言わんばかりに首を振った。
「まったくわがままなものだ。だが、これから妻になる女の機嫌を損ねるのも面倒だからな。こうしてわざわざやってきたのだ」
「……それならば使いをやればよかったのでは?」
そこではじめて、神官様が静かに口を開いた。
「何もあなたご自身がこちらに赴かずとも、使いの者だけを寄越せばよいのでは。なにゆえ、足をお運びになったのです?」
氷の針のような光を宿した神官様の瞳に、男はゆるりと口元に笑みを刻んだ。
「俺自身も興味があったのだ。『羽衣』を織る異形の娘……どれほど醜い者があの美しさを生み出すのかと、な」
男の両目がアウルを射る。アウルはぎゅっと唇を噛みしめた。
「仔羊は神の寵愛の象徴だ。神に呪われた身でありながら神の愛を名に謳い、神の衣を織る……なんとも面白い存在だ」
気に入った、と男は声を伴わずに呟いた。
「娘よ――俺とともに来い」
「なっ……」
アウルは目を瞠り、神官様は腰を浮かせかけた。驚愕と怒りを見せるふたりを、男は片手を閃かせて制した。
「言っておくが、依頼の品を織り上げるまでだ。俺の許嫁は好みが激しいのでな。いくら『羽衣』でも気に入らなければいつまでも是と言わん。そのたびにこのような辺境と都を往復させていては金と人と時間の無駄だ。だから許嫁が満足する『羽衣』を仕上げるまで、その娘はこちらで預からせてもらう」
「……仕事をやり遂げれば、この子は帰していただけるのですね」
「もちろん。たっぷりと謝礼もつけよう。なんなら、そちらの言い値でかまわん」
男の言葉に、後ろで控えていた町長が飛び上がった。まくし立てるような勢いで商談をはじめる。
アウルは、動くことができなかった。
息を殺して男を睨めつける神官様の袖に縋っても、笑う男の瞳からは逃げられなかった。
静まり返った聖堂は蒼い月の光に染まっていた。
祭壇の右手には、雄々しく厳かな光の男神ラーダの像。左手には、たおやかに微笑む闇の女神シアルの像。ふた柱の神の間には、ひと回り小さな像が五体並んでいる。夫婦神の最初の子どもたちである精霊だ。大地を司るアヴァス、水を統べるウルゥ、炎を率いるエッカ、風を纏うクーディ、雷を駆るスウラ。
アウルは祭壇の前に立ち、複雑な影を落として浮かび上がる七つの像を振り仰いだ。青ざめた薄闇の向こうから注がれる七対のまなざしは、昔から変わらず固く冷たい。
彼らが自分を愛していないと知ったのはいつだったか。どうしてこんな身に生まれたのかと苦しみにもがいた。なぜあんなやつらに祈りを捧げられるのだと、神官様の胸を叩いて泣き喚いたこともある。
(私は、私の神に祈るんです)
神は人の世からはあまりに遠く、ゆえに普遍的な存在である。だからこそ信仰が同じでも、ひとりひとりの胸に宿る神は違うのだと、神官様は言った。
(きみが祈れば、そこにきみの神がいる。アウル、きみはきみの信じるものに祈ればいいんです)
アウルが祈るとき、思い描いたのはいつでも神官様の姿だった。
清い光の射す聖堂で、祭壇に跪いて目を伏せる横顔。この世の何にも侵しがたい、神聖で確かな存在。
たったひとりの、アウルの神様。
「ここにいたんですか」
後方の扉が開き、現れたのは違えようもないひとだった。アウルは肩越しに振り返ると、歩み寄ってきた彼に小さく笑いかけた。
「なんだか眠れなくて」
「明日は早いでしょう。……まぁ、私も同じですが」
神官様は肩を竦め、苦笑をこぼした。
アウルは翌朝、男とともに都へ発つことになっていた。あれから数日しか経っていないというのに、男と町長の間で話がまとまるや否や決定した。
「都は――どんなところなんでしょうか」
「ごちゃごちゃしていて煩わしいだけですよ。病んだ人間と、この国の膿の溜まり場です」
「神官様は都を知っているんですか?」
「こちらに来るまで、ずっと中央の神殿にいましたからね。いやというほど知っていますよ」
吐き捨てられた言葉には拭いきれない嫌悪が滲んでいた。思わず眉尻を垂らしたアウルに、神官様は目を細めた。
「大丈夫ですよ。きみの腕ならさっさとやることを済ませて帰ってこられます。私もそのつもりで待っていますから」
「……はい」
教会の責任者である神官様がこの町を離れるわけにはいかない。都へはアウルひとりで向かうことになっていた。
「わがままな令嬢なんて文句のつけようがないものを作って、がっぽり稼いできなさい。私もそろそろ歳ですからねぇ。老後は安心して暮らしたいものです」
「よく言いますよ。まだ五十にもなってないくせに」
「いやいや、最近足腰が弱くなって……ごほごほ」
「なんで足腰が弱くなって咳が出るんですか。今日も張り切って鐘楼に上っていたのはだれでしたっけ?」
「そりゃあやることはやらないと。負けたみたいで悔しいじゃないですか」
「なんの勝負ですか……まったく」
いつもどおりの応酬にため息を洩らしかけたアウルは、きゅっと唇を引き結んだ。得体の知れない不安が暗雲のように胸を塞ぐ。
どうしてこんなにも――怖いのだろう。
「……神官様」
「なんですか?」
「あの……祝福を貰えませんか」
神官様は不思議そうに目を瞬いた。アウルはわずかに俯き、視線をさまよわせる。
「お守り代わりというか、勇気づけてくれるものが欲しいんです。それで……」
消えるどころか膨らむばかりの思いをごまかしたかった。そうしないと呑みこまれてしまいそうで。
「……きみがお願いなんて、ずいぶん久しぶりですね」
ふ、と微かにこぼれた吐息はひどく優しかった。額に指先が触れ、そっと聖印を記す。
「『我らが父よ、我らが母よ。その正義と慈悲を以て、稚き仔羊を導き守りたまえ。我らが兄よ、我らが姉よ。その勇気と知恵を以て、稚き仔羊を助けたまえ。稚き仔羊よ、汝に福音がもたらされんことを』」
祝詞を唱えたあと、もう一度聖印が描かれる。頭を上げかけたアウルに、神官様は「まだ終わっていませんよ」と声をかけた。
「え――」
「朝の光がきみに快い目覚めをもたらすように。夜の闇がきみに優しい夢を見せるように。大地の実りが、渇きを潤す水が、明るい灯火が、穏やかな風が、恵みの雷雨が、絶えることなくきみを満たすように」
指先ではない、もっとやわらかな感触が額に降ってきた。掠れたようなささやきが耳朶をくすぐる。
「私の仔羊、どうかこれからも健やかに――」
一瞬聞こえた言葉に、アウルは瞳を揺らした。顔を離した神官様を見上げると、彼は微笑んだ。
どうしようもなく泣きたくなるような笑顔だった。
「私からの祝福です。いってらっしゃい、アウル」
――何者かによって火を放たれ、教会が焼け落ちたという知らせが届いたのは、ようやく故郷に帰れると決まった冬の終わりのことだった。
ただいまを言うはずだったひとは、思い出だけを残して炎のなかに消えた。
焼け跡には、黒く煤けた建物の残骸しか残っていなかった。
アウルは斜めに傾いだ柱に手を伸ばした。焦げた表面は触れるとぽろぽろと屑を落とし、その脆さを物語る。
炎はひと晩中燃え続け、アウルが守りたかったすべてを奪っていった。
泣いて泣いて、そのまま死んでしまうのではないかと思うほど泣き続けた。声は嗄れ、握り締めた拳に血が滲んだ。最後の一滴まで絞り出した涙は、もう残っていない。
この先、自分が泣くことは二度とないだろう。心の底から笑うことも――だれかを愛することも。
アウルの心から冬が去ることはなかった。あの最後の夜から、彼女の想いは凍りついたままだ。
「いつまでそうしているつもりだ?」
呆れ気味の男の声に、アウルはゆっくりと振り返った。赤毛の男は面白くなさそうな顔をしている。
「ずっと突っ立っていたところで、死者は帰ってこぬぞ」
「知っています」
今更何を言うのか。アウルは冷めたまなざしを男に向けた。
帰るべき居場所を失ったアウルは、男の許に引き取られることとなった。専属の職人として――事実上の妾として。
異形を囲い者にするなどと、周囲は男を狂人のように扱った。男はそれに冷笑で応えた。
アウルにはどうでもいいことだった。
自分の境遇も、男の思惑も。この胸に冷たい憎しみと、あのひとの最後の言葉があればそれでいい。
(生きていきなさい)
何度も何度も、記憶のなかで反芻した。涙の涸れ果てた両目が疼くような、あの優しい笑顔とともに。
神官様が何かを感じ取っていたのかどうか、今となってはわからない。もしもおそれから目を背けず、ともに逃げようと手を差しのべていれば――結末は変わっていたのだろうか。
懺悔は尽きない。それでも、アウルは生きなければならない。
「おい、行くぞ」
苛立った様子で、男が乱暴に腕を引いた。アウルは素直に従いながら、乾ききった口調で告げた。
「思いどおりになって、さぞ満足でしょうね」
歩みかけていた男の足が止まる。
「けれど、これで終わりだと思わないでください」
「……終わりにさせないと?」
振り向いた男の顔が笑みに歪む。やはり彼は気が狂っているのだ。
生涯、この男を許すつもりはない。あのひとが煉獄の苦しみを味わったのなら、魂まで凍りつくような憎悪をささやき続けよう。
この身は異形。呪いと穢れに満ちている。神を殺せし罪人に破滅を。
男はくっと喉を鳴らした。
「せいぜい足掻け、堕ちし仔羊よ」
腕を引かれるまま歩き出す。アウルはもう振り返らず、前を見据えた。
――鐘の音が聞こえる。
遠く、遠く、幻のように鳴り響いていた。
拙作は『なろうファンタジー企画』第一弾の参加作品です。『異世界を舞台とし、異世界のキャラを主人公においた一万字以内のハイファンタジー』という共通テーマを元に執筆しました。