その存在は
「ミヒト、貴方は何人いるのです?」
まるで人形の瞳の様に生気の無い紫の目玉が、白銀のドラゴン、ミヒトの大きな瞳に問いかける。
ミヒトの眼前に佇む悪魔、ドールは開いた瞳そのままに、姿勢を歪めた。
船の先に夕日は沈み、ミヒトの背から夜がのしかかる。考えたくも無い得体の知らない不安感が、心の内から湧き上がり、背筋を伝うようだった。
ドラゴンと言う鱗の殻、その内側にある人間の心から色の無い感情。いや、自分自身とでもいうべき、淀んだ不確定の色が心を満たしていく。
頭の中では”自分の事を考えてはいけない”と警笛が鳴り響く。そうでもしなければ、眠ることのできない自分に、夜も眠れぬ謎が追いかけてくるようで。
かつて生きていた人間としての自分は分かっている。だが、このドラゴンとしての自分、ミヒトとしての自分と、エルピスとしての自分。今や自分だけの自分では無くなり、目に見える形として、もう一人の自分がいる。
この黒緑の女を自分の目の前から、少なくとも今は、この話題から遠ざけるべきだと。
そうでもしなければ、想像もつかない謎をミヒトは考えさせられ、悪魔について問い詰める機会を失ってしまいそうだった。
ミヒトが造った船は、飛行船へ姿を変えたが、その速度は船に比べれば格段に速く、一日あれば目的地であるアムレトに到着するだろう。
ならば、話をすり替えてでも悪魔から、自身と同じように転生してきたユウトの情報を引き出すことが、今は重要だ。
ドールが作り出したドラゴンのような刃先を持つ三日月刀がいつの間にか二頭の刃に分かれ、うつろな瞳は未だミヒトを見つめて来る。
船を押す腕に力が入る。白銀の翼がより強く空気を押しのけた。
「それが、貴女に何か関係があるんですか?」
自分の声は震えてなどいない。
頭にそんな思いがよぎるミヒト。悪魔とドラゴンの話に口を挟めずにいるモウル親子やイェレアスたち姉妹が抱いている困惑の表情は変わらない。
物理的に表情に乏しいドラゴンから感情を読み取れというのも困難なことだ。
それでも悪魔は違った。作り上げたばかりのうつろな表情に柔らかさが戻る。
手を胸に当てながら、刃物とは言い難い複雑な形の二股の金属を持ちながら、一度は殺そうとしていたドラゴンに穏やかな声で語り掛ける。
「私には意思はありません。ただユウト様の声に従い、時に他の悪魔に相談すればいいのですから」
そう言ってドールは彫刻のような刃先を、まるで水を注ぐように滑らかに、二股を四股に変えた。
けれども、そんなことに興味は無いというように、作り替えたばかりの刃を下に向け手を放す。
四本の刃を持つ奇怪な彫刻を模した刃物は、巨大な飛行船に気にもならない傷をつけて刺さった。
ドールは続けてミヒトに語り掛ける。
「ですが、貴方はどうでしょうか?この世界と元の世界の認識に悩み、時には苦しみすら感じるかもしれません」
「それはありません。僕は自分で望んでこの世界に来ました。元の世界に戻りたいとは思っていませし、悩みなんてありません」
「いいえ、貴方の求めている物はここには無い。だから元の世界に焦がれている。そうでしょうミヒト?」
「僕は、そんなことはありません。モナさん達が作る街を、文化を、この世界を見届けるのが僕がこの世界に生まれた、神様に呼ばれた意味なんです」
さっきまでの皆に語って聞かせるドールでは無い。悪魔から紡がれる言葉はミヒトではない、その内側にいる柔らかい自分に向かって話しかけられているようで、ミヒトは冷静でいられなかった。
始めは悪魔たちの正体をつかめると思っていたミヒトだった。だが蓋をあけてみれば悪魔に自分の心を見透かされ、心の隅にある不安を引き出されている。
「本当にそう思っているのは貴女たちでしょう、ドールさん。」
「何を…」
「ユウトさんの記憶とこの世界の差に悩んでる。だからユウトさんに従っている」
「話は、まだ」
「そしてそのユウトさんご自身は元の世界に帰りたいと思っているんじゃないんですか?それでも何をすればいいか、わかっていないんでしょう?」
「…」
「貴方たちはまだ何も知らないんですよ。あるのはユウトさんだけ。そのユウトさんも憎しみばかりで何も知ろうとしない。だから力を振るうしかなかったんでしょう?」
「ユウト様は、決して憎しみばかりではありません!」
「でも、この世界に住んでいる人たちをよく知らないでしょう?!知っていれば、火を放つことも、暴力を振るうことは無かったはずです」
ミヒトは半ば強引に話を持っていく。言葉に乏しいミヒトにこの場面を有利にするだけの話術はない。
ドールの言葉を無理にでも遮らなければミヒトが後手に回る。そうなれば何を仕掛けられるかわからない。
現に、今こうして言葉を交わせるのも、アムレト村に到着するまでは自由を封じ、攻撃を禁じる契約を交わしたからだ。
そしてその契約というものが何を持って成立して、どうしてそれがミヒト達に作用しているのか理解できていないのだから、考えるだけでもミヒトの不安は膨らむばかりだ。
もう一度戦いが起きることなど、ミヒトが望むところではない。
「ユウトさんも、貴方たちも。それだけじゃない、僕やモナさんたちも、もっとお互いの事を知る必要があります」
だからこそ、いや。ミヒトの当初の目的である悪魔自身からその正体や目的を知ることが叶わないのならば、彼らに別の目的を、憎しみの赴くままに暴力を振るう以外の目的を示唆することで、争いを回避できないだろうか。
「ミヒト様の言う通りですね。私も、まだあなたの事を、よく知らないです」
モナがミヒトの言葉に賛同する。
張りつめていたミヒトの心が、モナの一声で緩んだ。自分だけがドールと話をしているのではないと気付くと、何か迫るような気持ちは遠いものになった。
モナは一歩前に、一度は邪悪と言ったその存在に歩み寄る。
「どうか私にも、あなたの事を教えていただけませんか?」
モナはドールに語り掛ける。
ドールは、目をそらす。ただその顔に拒絶の表情は無い。
「…ですか。考えておきましょう。明日、貴方のお気持ちが変わらなければ、お答えしますが」
ドールの目線はミヒトに向く。
「それでも、ある程度、悪魔というものがどういうものなのか知っておくべきですし、質問くらいは事前に用意しておくものでしょう。それでは…」
ドールは首に繋がった鎖をひと撫ですると、その場から鎖を引きずりながら去っていった。
その様子を見届けると、イェレアスは姉の傍に駆け寄る。
「何なのアイツ、言ってる意味が解らなかったんだけど」
「まぁアイツなりに困っているんだろうよ。仲間に置いていかれて、いきなり誘き出しの餌みたいにされちゃあな、ちょっとは気持ちもわかるってもんよ」
文句をつぶやくイェレアスに対し、モウルは悪魔に同情を抱いていた。
「なによモウル、あれだけ気味悪いだの許せないだの言ってたじゃない!」
「まあなんだ、全部ユウトってやつの仕業何だろ?親のいう事聞いてただけで悪者扱いは、どうかと思ったんだ」
「それは、そうかもしれないけど」
「あとアイツの話は面白かったしな。それだけ聞けるならまた聞きたいぜ」
息子であるフフを持つモウルは、イェレアスとは違う視点でドールが見えたのだろう。
イェレアスよりもずっと冷静になってモウルに、彼女は感心していた。
「そうですね、彼女の話は何というか、普通ではありませんでしたけど。だからこそ面白かったのかもしれませんね。イェレ―も面白がってたし」
「モナお姉様。そうね、アイツがまたあのゲエム?とかいう話をするんだったら聞いてあげなくもないわね!」
「やっぱり、本当に好きなのね。」
隠しきれない興味を抱いているイェレアスを見て、モナはくすりと笑った。
だが、穏やかな表情は変わり、その瞳には強い意志が宿る。
「それでミヒト様、私たちに教えていただけませんか?悪魔について、知っていることを」
モナは顔を上げ、夜空を背にした白銀のドラゴン、その赤い瞳を見つめた。
彼女もまた、無知のまま悪魔と対峙したのだろう。その表情は、モウルやフフとはまた違う毛色の眼差しをしている。
ふとミヒトの頭によぎったのは、それは娘や愛する者、身近にいる者を守るために戦う主役の表情では無い、と。
どちらかと言えば、責任のある、それでいて愛などの感情とは違う。本より揺るがない芯があり、どこか気が触れているような影のある表情。
映画に出てくるような登場人物で、ミヒトに連想させたのは、彼女におおよそ似つかわしくない者だった。
彼女の一層真剣な表情に、ミヒトは答える。
「ええ。僕が知っている限りの事を、お教えしましょう」
正直な所、ミヒトは悪魔について専門外だ。ホラーやカルト映画に登場するような悪魔は知っていても、その原典にまで詳細を知っているわけではない。
ましてや、今回はそれら創作の映画の知識が役に立つような物とも考えにくいし、なにより同一である可能性すら無いに等しい。
それでも、何も知らないよりは何かしら知識がある方が良い。ミヒトもずっと彼女たちと共に行動するわけにもいかない。
いずれはモナ達、この世界の住民たち自身の手で、問題を解決しなければならないだろうから。
ミヒトは口を開き、静かに語りだした。
「そもそも悪魔というのは、元々は悪魔では無かったというのがというものがあります」
「元々悪魔では無いというといったいどういうことでしょうか?」
「悪魔の本当の姿、悪魔になる前は天使だったといいます」
その言葉にモウルとイェレアスが声を荒げた。
「おいおい、ソイツはどうゆうことだよ」
「じゃあ、あの悪魔も元々天使だったって訳なの?!天使のセレヴェラはそのこと知ってるの?!」
「落ち着いてください」
途端に話が飛躍したイェレアスの発言をミヒトが止める。
ミヒトはその発言の答えは持っていないが、少なくとも、そうではない可能性がある。
「悪魔の大本はユウトさんだと思います。神様に何をして、どうして堕天使になったかはまだわからない。でも、ドールさんや、炎を纏っていた炎華と呼ばれた悪魔も、きっと僕とエルピスと同じ、元々一つの存在だったんじゃないかと思うんです」
「ミヒト様と、エルピス様と同じ存在?」
「たぶん、大本のユウトさんが堕天使に、つまり悪魔になってしまった。それから僕とエルピスの様に別々に分離したとしたら、その分身も便宜上悪魔になる。だから、恐らくこの世界に存在する悪魔は五人だけだと思います」
「そうか、五人か」
モウルが確認するように呟く。
ミヒトは続けて悪魔について説明する。
「そして、悪魔は人を陥れ、神から遠ざけようとします。具体的に言うと、神様がやってはいけないと定めている事をやらせる。あるいは神様がやってほしいとお願いしたこと、約束を破らせる事をさせようとします」
モナは理解しているようであったが、他の者の表情は理解しているとは言い難かった。
「僕が元いた世界では、自分と同じ種族を殺したり、騙したりすることや、己の望み、欲望の為に他人を利用することなどが悪魔の行動と言われたりもします。でも、彼らが同じ目的を持っているとは、今のところ考えにくいです。なにせ、ユウトさんの一言で目的や手段は変わってしまうようなので」
「もしかして、イェレ―があの悪魔と交わした契約というのも。」
ふと、ミヒトは違和感を感じた。いや、そもそも魔力を持たない身で何故刃物や炎、挙句山の様に城を生やせるのか?それでいて契約とは何をもって成立しているのか?
彼らが力の根源としているモノ。それは一体何なのだろうかと、再びミヒトの中で疑問が湧き上がる。
だが、解き明かすヒントをミヒトは持ってはいない為、まずは悪魔の契約について話すことにした。
「悪魔は契約によって、人に利用され、そして陥れます。悪魔は契約に忠実で、対価を支払えば望みをかなえるとも伝えられていました」
「望みを叶えるのにどうして陥れるのですか?」
「詳しい理由はわかりませんけれど。力を増すためだとか、それが人間を陥れやすいからとか理由は色々です。でも、ただ良いことばかりで契約を結ぶわけではありません。悪魔は契約の穴を突いたり、その対価や、望みそのものを使って人間を破滅させます」
「望み、そのものが破滅に?」
「ええ、だからこそ悪魔の契約、それだけじゃない、悪魔と話をするというのは恐ろしいんです。話をしているうちに、巧みに考えを誘導されることだってあります。それで契約を結ばせて、望みを叶える契約が、最終的にはすべてを失うことになるなんてことも。
だから、ドールさんとの会話には十分気をつけてください」
「ひとまずは、わかりました。教えていただきありがとうございます」
「モナお姉様は何かわかっているみたいだけど、私はまだわかっちゃいないわよ」
「イェレ―、まずは注意して話を聞くこと。それから答えるときもはっきり答えては利用されかねないということよ」
「イェレアスがわからないなら、また落ち着いた時には話しましょう」
そう言うと、ミヒトは改まって首を上げた。
「僕は、考えたいことがあります。それにもしもの事に備えて、このまま船を押したまま飛んでいます」
「そうですか。ミヒト様、船の事を、よろしくお願いします」
「頼んだわよ!ミヒト!」
「ですから、僕の代わりに、ドールさんから、ユウトさんの事、それから彼女が持つ記憶の事、彼女が見てきたこの世界の事を聞き出してほしいんです」
ミヒトの申し出に真っ先にモウルが答えた。
「おうよ、狩りでよくいろんなところを走ったからな!アイツが何を見てきたかは俺様に聞いといてやろう、任せておけ!」
「とうちゃん、おれさまにまかせとけ!」
「おぉ~、じゃあ父ちゃんとフフで骨まで聞いてやろうなぁ~」
「うん!まかせとけ!」
わしゃわしゃと一人息子のフフの毛をかき撫でるモウル。強面の狼が、子犬のようなフフを撫でる様はこの異世界独自な光景だろう。
少なくとも、ミヒトが生きていた人としての人生の中で、そんな不思議な光景は見たことは無い。
モウルが行動を起こすならと、イェレアスも対抗心を燃やす。
「だったら私は、アイツの記憶について聞いてやるわ!悪いことを考えられるかはアイツの頭の出来次第だし」
「それじゃあお姉ちゃんは、ユウトさんのこと、いえ、天使について聞いたほうが良いかもしれないですね」
モナの頭の中でどういった考えがあるのかはミヒトにはわからないが、何か思い当たる節があるのならば、いっそうモナに任せた方がいいだろう。
ミヒトの頭には悪魔という存在が張り付き、それ以外の視点でドールを見ることが難しいのだ。
そうして、あとどれくらいで村に着くのか、空を飛んでいるが大丈夫なのかと質問されたが、ミヒトは全て問題ないと返し、みんな船の中に入るように言った。
そうして、船の外、夜風に当たるのはミヒト一人となった。
夜空に雲は無く、結ぶことの出来ない無名の星が散らばっていた。星々の存在を奪うように、大小二つの月が煌々と空を照らしている。
しばらくすると飛行船へと姿を変えた船からは寝息が聞こえてきた。起きているのは夜行性の獣人と、ミヒトを含むドラゴン達だけだ。
自分とは、この世界とは何なのか?それは神のみぞ知るが、神であるムー、デューの双子は、それを知ることを目的にミヒトを呼んだわけではない。
ミヒトの目的はこの世界で何が起こるのか、今から未来に起きる事象を知ることがその存在理由だ。
だから、今日抱いた不安を、もう一度心の奥に封じることにした。
あくまでもドラゴンとして、この異世界に生きるミヒトとして。例え同じ記憶、同じ性格を持っていようとも、もう一人の自分としてではなく、一頭のドラゴン、エルピスとして。
ミヒトは今日までの出来事を、そしてこの気持ちを《通話》の魔法でエルピスに伝えるだけ伝えた。
腕に力が入る。白銀の翼が夜空の冷たい空気を押しのけた。緊張では無く、早く自分の目的に辿り着くために。
大変遅くなりました。見ていただけると幸いです