09.「やってしまった……」
風呂の小屋から家に戻ると、とんでもない言葉が聞こえてきた。
「あなたを愛しています。どうか私と結婚してくれませんか」
思わずぎくりと身体を震わす。……に、似合わない。ついでに三歩くらい後ずさりたくなった。
「王子様の求婚を、お姫様は喜んで受け入れました。こうして、二人は結婚し、末永く幸せに暮らしましたとさ」
そこまで聞いて、私はようやく我に返る。先程の愛の言葉は、絵本の中の王子様の台詞だ。読み聞かせのその場面に見事遭遇してしまったらしい。
すごい、まるで感情のこもってない棒読みの愛の言葉でも、男の人が口にしているとどぎまぎしてしまうことを学んでしまった。なんとなく知りたくなかった気がする。
「もう一回! もう一回よんでください!」
「これでおしまいだ。同じ本ばかり、何回読ませれば気が済むんだ」
ノイくんは、いつもそのとき読んだ本を、繰り返し読んでほしい、とねだる。どうやら今日も、ジギスヴァルト・レーベンはそんなノイくんの希望にきっちり応えていたらしい。
面倒がるような様子は見せるものの、意外と付き合いのいい男である。
「じゃあ、明日もよんでくださいね」
「明日は他のやつにしろ。もうそれ、暗記するほど読んだぞ」
この家には、ノイくん用なのか絵本の類がいくつかある。ジギスヴァルト・レーベンが買い与えたのだろう。今日の一冊はその中でも特にお気に入りなのか、よくこれがいい、とノイくん自身で選び取ってくる。
明日は、教えながらノイくんに自分でも読んでもらおうかな、と考える。文字を覚えるため、そろそろ次の段階に移ってもいいだろう。
椅子から立ち上がったジギスヴァルト・レーベンが部屋に戻ろうとする。夜は深まり、私はそろそろ眠るつもりである。けれど、彼はまだしばらく起きているのだろうか。
この家では、これまた魔法をかけられたランプによって、夜でも日中とほとんど変わらない明かりを灯せる。見た目はロッシュ家でもよく見かけた形の、持ち歩きも据え置きもできるランプだ。
ただ、魔力をこめると光量の調整が可能で、通常のランプよりもずっと強い光を出せるらしい。高い位置にでも置けば、部屋中を明るく照らしてくれることだろう。
そのためか、ジギスヴァルト・レーベンは夜起きて、朝になってようやく眠ることが多かったらしい。
最近では、朝食目当てに起き出しているが、それでもやはり、私より遅く寝て、私よりも遅く起きている。
「部屋に戻るなら、ノイくんを連れて寝てね」
いつものように念を押す。
彼が目を離した隙に自殺行為を行わないよう、夜にそれぞれの私室へ戻る際はノイくんに見張ってもらうことにしたのだ。
いくら見張るためとはいえ、夜を共に過ごすように求めることなどできるはずがなかった。書類上では夫婦とは言え、そんなはしたないことを言えるはずがない。い、いや、はしたないことを求めているわけではないけれど! ただの監視である。
一応、嫁いでくるときはそういう覚悟もしてきた。しかし、そんな覚悟も吹っ飛ぶようなことが次々に起こった上、彼にもそういった気配はなく、今ではまったく考えられなくなっていた。
「……必要ない」
「あなたじゃなくて、私に必要なの」
寝ている間に万が一にも死なれてはたまらない。
ノイくんは、人間が睡眠を摂るように、夜の内はぬいぐるみに戻って活動を停止し、魔力を回復するらしい。その間も人間の睡眠と同じく、大きな物音など異変があれば分かるそうで、私が夜の自殺行為の心配をしているとノイくん自ら、ぼくが一緒にいますよー! と言ってくれたのだ。
「少しは心置きなく死なせてくれ!」
嫌がってジギスヴァルト・レーベンが声を上げる。私も負けじと言い返す。私も人生と命が掛かっているので、そう易々と折れるつもりはない。
「それはだめって言ってるでしょ。 それに、」
少しの躊躇いを覚える。けれど、抱えていた不満が、その自制を取り払った。
ずっと、嫌だった。夫に死なれて困るのはもちろんだが、困るのではなくて、ただ嫌だと感じていた。『死にたい』という言葉を繰り返し耳に入れること自体が不快だった。
「生きているって、それだけで素敵なことでしょう? 不老不死なんて、誰もが憧れることじゃない」
それなのにどうして死にたいなんて。
生きたくても、生きられない人が。いやになるくらい沢山いるのに。
思い出すのは、両親の顔。行ってきます、と馬車に乗った二人を簡単に見送ってしまった。そのときの両親がどんな顔で笑い、どんな声で私を呼んでくれていたか、心に焼き付けることもなく。
事故に遭い、二度と私の元に帰ってきてくれなかった二人は、どんなに口惜しかったことだろう。どんなに生きたかったことだろう。
私は当たり前みたいに、どんな声だったか、どんな温もりだったかと焦がれる必要もないくらい、もっとずっと、そばにいてほしかった。だからこそ、死を希求する感情に反発を抱く。
これまで少しずつ降り積もりつつも目を背けていた不満が、何故だか今日、ぽろりと漏れた。
その後、一瞬何が起こったのか分からなかった。息が詰まって目を白黒させて、それからようやく、振り返ったジギスヴァルト・レーベンに胸倉を掴まれていることに気付いた。
「おまえに何が……っ!」
絞り出すような声だった。掠れて、抑え込んで、ほとんど唸るような。苛烈な色をした紫の瞳が、私を射殺さんばかりに睨み据える。それからくしゃりと、支えていた何かが崩れるように表情を歪めた。
突き飛ばすように私から手を離して、ジギスヴァルト・レーベンはそれ以上口にすることなく自室へと戻って行った。
突き飛ばされた拍子に、居間の食卓で軽く腰を打った私へ、ノイくんが慌てて駆け寄る。
「クルちゃん! 大丈夫ですか!?」
ノイくんは今にも泣きそうな顔をしていた。心配してくれているのだ。打ち付けた力は本当に軽いもので、さしたる痛みもない。
「私は、大丈夫よ」
そんなものよりも、と先程の彼の様子を思い出す。
きっと、私こそが彼を傷つけたのだと思った。
◇◆◇
ようやく住み慣れてきた自室に戻り、寝台に腰掛けた私は大いに打ちひしがれていた。
ジギスヴァルト・レーベンの、先程の顔を思い出す。私は言ってはいけないことを言ったのだ。衝動的に、無神経に彼を傷つけた。
あれだけ『死にたい』と焦がれている人に、まるで不老不死をいいことのように言うなんて。彼のことを何も知らず、彼の気持ちも分からない私が、勝手に口にしていいことではなかった。
確かに腹を立てていたが、それは私の都合だ。それを彼に押し付けるなんてことをしてはいけない。
自己嫌悪がはなはだしい。私は理不尽にも勝手に腹を立てただけだ。
「謝ろう……」
明日起きたら、きっと。顔を合わせてくれなかったらどうしよう、と思いながらそれでも謝ろうと決める。
ノイくんにもいたく心配を掛けてしまった。泣きそうな顔で『ケンカはだめです』と言われれば、申し訳なさも一入である。
今夜はノイくんもジギスヴァルト・レーベンの元へは行かず、居間で過ごすようにと頼んだ。夜はぬいぐるみ姿で座っているので、快適さはどこにいてもそう変わらないそうだ。
こうして、状況を見てジギスヴァルト・レーベンから目を離してしまえることこそが、彼の不死性を信じている証左だ。自殺行為を控えるよう求めるのは念のためと、見ていたくないから、というだけ。そのくらい私の目の前で、彼は当たり前のように死ななかった。怪我さえも負うことはなく。
だからこそ、絶対に言ってはいけないことだったのだ。私が口にした言葉は。
「とりあえず、明日」
今夜はもう、大人しくしているしかない。
早く寝てしまった方がいい、と思いつつもどうしても後悔や申し訳なさで目が異様に冴えていて、眠れる気がしない。
私の部屋にあるランプは魔法石の埋まっていない、一般に普及しているものだ。魔法の使えない私には、魔力で光を調整できないため、こちらを使っている。
家事をするときも、魔法石に魔力を与えて動かすのはノイくんの仕事だった。
居間ほどは明るくはないのだが、普通に歩いたり、ランプを寄せて手紙を書くくらいの光量はある。眠気が訪れるまで何かしようか、と考えた。
部屋の中を見渡して、ふとこれまで手をつけていなかった本棚が目につく。整頓されることもなく、積まれたまま本が突っ込まれていた。
嫁いで来た日に本棚以外は好きにしていいと言っていた、とノイくんに聞いて触れないようにしてきたが、今ではそれは捨てるな、という意味だったと解釈している。
ジギスヴァルト・レーベンは、私が起こしに行ったとき、触るなと言っていた彼の部屋の本を整理しても、文句を言うことはなかったからだ。
せっかくだからこの機会にちょっと整理しておこう、と寝台から下りて本棚に向かう。平置きされた横で斜めに置かれていたり、縦に置かれていたり。しっちゃかめっちゃかに詰め込まれた本棚を前にして、よくこれだけ詰め込めたものだな、とむしろ感心する。
まずは、一度本棚から取り出して、それから並び替える必要があるだろう。
本棚の中の一つに手をかけて取り出そうとする。しかし、ぎゅうぎゅうに詰まっているため、簡単には取り出せそうになかった。
隣の本が崩れないように抑えつつ、先程よりも力を込める。何度かぐっぐっ、と取りだそうと奮闘し、そしてようやく取れた、と思ったとき。
どうやら、絶妙の均衡で互いを支え合っていた本たちは、一気に本棚から飛び出した。片手で隣の本を抑えていた私の気遣いなど何の役にも立たず、本は見事に私の上に降り注いだ。
「いっ…………たぁ……」
その内の一冊の角が、私の頭頂部に直撃した。少々遅れて、地面に本が落ちる音がする。せめて角でなければこれほどには痛くなかっただろうに。
涙目になりながら、よろよろとしゃがみ込み、落としてしまった本たちを拾う。
「やってしまった……」
痛みに耐えながら、何度か床と本棚を往復して、落としてしまった段の本を背表紙が見えるように並べていく。
ガンガン、じんじんする頭の痛みに耐え、ようやく落とした本を本棚にしまい終わると、突然部屋の扉が開いた。
「おい、何だ今の音は……」
現れたのは、ジギスヴァルト・レーベンだった。木造のこの家は音が通りやすい。結構大きな音がしたので、聞こえてしまったのだろう。
そこまでは予想できるのだが、今の彼の表情の理由まではまったく想像できなかった。
ノックもなく部屋の扉を開けたジギスヴァルト・レーベンは、驚愕するように目を見開いている。その上、どうにも青ざめている気さえした。一体、何を考えているというのだろう。
「どうして泣いてる!?」
そして、彼は声を上げた。見たこともないくらい慌てふためく彼に言われて、私はようやく本が落ちてきて以来、涙目のままであったことに気付いた。
「僕が胸倉掴んだからか!? 机にぶつかってたな、それか!?」
完全に焦り切って混乱しているジギスヴァルト・レーベンに気圧されてしまう。どうやら彼は、私の涙を先程の居間での出来事が原因だと思っているらしい。
「い、いや、違うから。本を落として、頭にぶつけちゃっただけで……」
勢いに気圧され、彼の焦りも伝播して、円滑な説明ができない。とにかく誤解を解いて、彼を落ち着けなければ、とそれだけが頭を占める。しかし、そう思えば思うほど、私もまた、どうすればいいのか、と混乱してしまう。
「だから部屋に戻って」
「そのあとでまた泣くつもりだろう!?」
どうやら、彼の中では、自分が私を泣かせたということは最早決定事項らしい。
『どうしたですか?』
居間でぬいぐるみに戻っているはずのノイくんの声が、扉のそばに立つジギスヴァルト・レーベンの背後から聞こえる。それに気づいた彼は、はっとした顔を見せたあと、瞬間的に私の部屋にもう一歩踏み入って扉を閉めた。
「なんでもない! ノイは休んでろ!」
まるで、何か悪いことをして親に咎められないよう、それを隠す子どものようだと思った。実際の関係性にしても、見た目にしても、どちらかというと親と子は逆のはずだけれど。
『そうですか……? けんかしちゃだめですよー!』
結果的に締め出されたようになったノイくんだが、それだけ言うと納得してジギスヴァルト・レーベンの言葉に従ったようだ。ぬいぐるみ姿だと足音などがまったくしないので音は聞こえないが、きっとまた椅子に座って魔力を蓄えるのだろう。
「な、なんで入ってくるの……」
そして、私は目の前のジギスヴァルト・レーベンと対峙する。私の現状は、何も解決してはいなかった。明日になれば謝ろうと思っていたが、とてもじゃないがそんな空気ではない。
というか今謝れば、私を泣かせたと大いに焦っているジギスヴァルト・レーベンを、更なる混乱に突き落としてしまう気がする。
「おまえが泣くからだろ!」
それは本が原因だと伝えたのに、やはり彼はまったく信じてくれていないようだった。