07.「覚悟はできているんだろうな」
「ええい、離せ!余計なことをするな!」
「余計なことじゃないと思うけど!」
「うるさいうるさい。僕のことは放っておいてくれ!」
部屋の片隅にうずくまり、ジギスヴァルト・レーベンは身に付けたままのローブを必死に握りしめている。私もそれに負けじと彼のローブに手を掛けていた。
秋も深まり、森深いこの家にはなかなか陽の光が届かない。そんな中、久しぶりによく晴れたとなれば、するべきことは一つしかない。
洗濯である。
普段、小まめに洗えていないものまでかき集める中、私の目に留まったのはジギスヴァルト・レーベンのローブだった。
ノイくんに聞いたところ、魔法使いのための特別なものではなく、本当にただの衣服としてのローブらしい。ついでに言えば、普段は適当にノイくんに預けて洗っているそうだ。
ならば何故抵抗する。
私は俄然やる気になって、ノイくんの協力も得つつ、彼からローブを引っぺがした。
「綺麗にしようって言ってるのに、何の不満があるの?」
「……そういう気分じゃない」
「お日様はあなたの気分には合わせてくれないのよ」
つまらない我儘を切って捨てると、ジギスヴァルト・レーベンはいじけるようにますます小さく丸まる。しかし、それ以上ローブを取り返そうとはしなかった。ローブの下は麻製と思われる簡素な服を着ているが、そろそろ肌寒くは感じないだろうか。あまり家から出ないので、大丈夫なのかもしれない。
家の裏手に回ると、小さな薬草畑に薪割り台がある。森は家の周辺で終わり、その向こうには山が広がっていた。
真ん中の開けた場所には縄が張ってあり、そこが物干し場になっている。洗濯を終えた衣類を運んで、ノイくんと協力して干す。
「ノイくん、一人だと干すときどうしてたの?」
今は、ノイくんが渡してくれる洗濯物を私が干しているが、彼一人では手が届かなかっただろう。
「脚立もあるから、だいじょうぶですよ! ジトくんも、困ってたらたすけてくれます」
嬉しそうにノイくんがにこにこ笑う。当のジギスヴァルト・レーベンは今頃家の中で朝食を摂っていることだろう。食事に目覚めたらしい彼は、朝食目当てに不規則な生活を少なからず改めているようだが、それでもまだ起床が遅い。いつも私が食事を終え、家のことをしている内に起き出してくるか、私に起こされるかのどちらかである。
まあ、彼が食事をしている間は自殺行為の心配がなく、こうして安心して離れられるので、食事の後片付けを一度にできないことくらいは大目に見るとしよう。
「クルちゃんともいっしょにお仕事できて、たのしいです」
ノイくんから向けられるのはてらいのない笑顔。屈託ないその顔に、これ以上なく和む。
心が温まるような心地がして、ふと気付く。すっかりこの家での生活にも馴染んでいるなあ、と。
当然ながら、貴族の子女はその身分に相応しいお屋敷で使用人に任せて生活する。私のように家事に興味を持つ女性はおそらく少数派で、基本的に貴族社会では自ら家事などをしていると、使用人も雇えないのか、と愚弄される一因となるだろう。
そんな中で、使用人の一人もいないこの家に貴族の子女が嫁いで来たとしたら、早々に根を上げても責められないはずだ。そう思うほどには、嫁いでくる女性への配慮が感じられない。
ジギスヴァルト・レーベンが花嫁を迎えるにあたって行った用意は、精々食料の確保と部屋の片づけくらいだったらしい。あまりにも雑すぎるし、例え相手が貴族でなくとも、花嫁を迎え入れる準備が出来ているとは言いがたい。
何せ結婚式すら挙げていないのだ。教会から発行された結婚証明書のみが、二人の関係を示している。
少なくとも、もしもこうして嫁ぐのが私ではなくアマーリエであったならば、私は絶対に相手の男性に恨み言を吐いただろう。可愛い妹には、誰よりも彼女を愛し、尊び、大切に扱ってくれる殿方以外認めない。ジギスヴァルト・レーベンの態度は、私が求める妹の夫像の真逆にあたる。
ただ、そう頭では考えるのだけど。
「……そうね。私も楽しいな」
存外、性に合っていたとでも言うべきか、私はこの生活が嫌いではなかった。食事を作り、洗濯をして、掃除をして。元々使用人の仕事を好んで手伝っていたので、それらに対し、大変だとも辛いとも思わない。むしろ、日々が充実しているように感じる。
もちろん、魔法によって随分生活しやすい環境だから、そう思える部分もあるのだろうが。
夫がやたらめったら死にたがる、ということ以外はおおよそ満足のいく婚姻だった。そう思えば誰も不幸にはならなくて、ある意味いい婚礼だったのかもしれない。なんとなく、納得いかないような、悔しいような気持ちはあるけれど。
「よし、終わり。家の中に戻ろうか」
「はい、そうしましょう!」
洗濯物を干し終えてノイくんの賛同を受け取る。空を見上げると洗濯物が風にたなびいて、実に清々しい気分になった。空は真っ青に染まっており、綺麗な秋晴れである。
そのままぐるりと視線を巡らせ、ふと、家の裏手に続く山が気にかかった。周囲は森に囲まれているが、裏手からは斜面になり、山へと続くらしい。森の中の山の麓にこの家がある。
「山の方も行ってみたいな」
呟くと、ノイくんがきょとりと目を見開いて私を見上げる。
「山はだめですよ」
「どうして? 危ない動物とか出るの?」
野生の動物は人間の気配を恐れて普段は人里に近付かないが、偶然山の中などで遭遇してしまえば、襲い掛かってくるという。当然ながら、そうであれば山に入るのは諦めなければならない。私に野生動物と対峙できるだけの能力はないのだ。
「えっと、それもなんですけど。うんと」
散歩くらいしてみたかったな、と思っているとノイくんは困ったように言葉に詰まっている。どうやら上手く説明できないらしい。
「ジトくんの魔法があるから、出ちゃだめなんです」
「どういう魔法なの?」
魔法石に、人間になれるぬいぐるみ、不老不死、と色々な魔法を身近に見た。そろそろ生半可なものでは驚かないぞ、とノイくんの説明を待つ。まさかこれが盛大な前振りになるとは露ほども思わず。
「ええとですね、あ!」
言葉を探していた様子のノイくんは、ふと閃いたように声を上げると元気よく駆けだした。洗濯物の合間を縫うように進んで、山の方へ向かう。
「見ててくださいね!」
ノイくんの後を追って付いて行くと、彼は山へ踏み込む一歩手前で私を振り返り、ぶんぶんと手を振る。微笑ましい気持ちになって、表情をだらしなくさせて見送った。
「こんなかんじです!」
そう告げた、次の瞬間。
「えっ!」
ノイくんの姿が消えた。山の奥の方に進んだからではない。一歩山に向かって踏み込んだ瞬間。まるでその存在など最初からなかったように、忽然と姿を消したのだ。
「ノイくん!?」
私は大慌てで駆け出そうとして、どうして消えたかも分からないのに、どうやって追いかければいいのだろう、と足を止める。何が起きたか分からない焦りと混乱から、胸の奥が嫌な音で暴れてしまう。
落ち着こうと深呼吸しようとして、それでも荒く細い呼吸しかできなくて、私は身を翻し、大急ぎで家の中へ戻った。
「ジギスヴァルト・レーベン!」
扉を開ければちょうど朝食を終えたらしく、食器を重ねている彼の姿をすぐに見つけることができた。
私の勢いに驚いたのか、ジギスヴァルト・レーベンはぎょっと目を見開いた様子で後ずさる。それを引き留めるために手を伸ばし、彼にしがみついた。
「な、なっ、な! なんだ急に!」
反射的に引き剥がそうとするその手に縋るように、私はますます強く彼の服を握る。
「ノ、ノイくんが! 山の方に消えちゃって、ど、どうしよう!」
声が震える。驚きと混乱が、頭の中で渦を巻いていて、全く冷静になれないでいた。どうしよう、という言葉が自分の中を駆け巡る。
私の動揺とは裏腹に、先程まで焦ったような声を出していたはずのジギスヴァルト・レーベンは急に落ち着いた様子で私の肩を抑える。
見下ろしてくる紫の瞳にはまるで揺らぎがなく、不思議と心が落ち着いた。
「ノイが山に行ったのか?」
「そ、そう。魔法があるから出ちゃだめって。見ててって言ってそっちに行ったら、消えちゃったの」
自分でもこれでは伝わらないだろう、と思うたどたどしい説明になってしまったが、ジギスヴァルト・レーベンはそれ以上問い返すことはなかった。ただ、不機嫌そうに眉を顰めている。
それから、しがみ付いたままだった私をその場において、彼は家の外へ向かう。慌ててその背中を追いかけた。
「あの!」
「おまえはここで待っていろ。いいか、すぐに戻るから絶対にこの場から動くな。おまえのことまで面倒見たくない」
突然振り返ったジギスヴァルト・レーベンは、私の顔に人差し指を突き付けて足を止めさせた。反射的にそれに従うと彼は満足げに一つ頷き、身を翻してノイくんが消えた山の方へ向かう。
そして、彼もまた、ノイくんと同じように家の敷地から一歩山へ足を進める。すると、
「あっ!」
ジギスヴァルト・レーベンの姿も、一瞬にして消えてしまった。思わず駆け出しそうになるが、すぐに彼の言葉を思い出して足を止める。それでも気持ちが落ち着かなくて、その場でぐるぐると足踏みをしてしまった。
しかし、そんなもどかしい時間は幸いにしてすぐに終わりを告げる。
「約束を破ったノイが悪い!」
『うう、うっかりでした。反省』
姿を消したときと同じように、何もないように見えていた場所に、突然二人は姿を現した。ジギスヴァルト・レーベンの小脇に抱えられているノイくんは、何故だかぬいぐるみの姿となっていて、たっぷりの綿が詰まった手足をばたつかせている。
「だ、大丈夫だったの?」
駆け寄れば、ジギスヴァルト・レーベンはつんとそっぽを向いて物干し場へ向かう。ぬいぐるみであるノイくんからは表情の変化などは読み取れないが、それでもどこかしょんぼりした空気を纏っていることが伝わった。
『クルちゃん、びっくりさせてごめんなさい』
「何ともないならいいんだけど……どうしてぬいぐるみのままなの?」
ノイくんは普段、基本的に子どもの姿を取っている。夜は人間が体力を回復するように、ぬいぐるみの姿に戻って休むことで魔力を回復する必要があるらしいが、それ以外のときはほとんどぬいぐるみの姿に戻ることはなかった。
「ノイに掛けている魔法は、家の敷地外へ出てしまうと解ける。だから、外へは行くなと言っているのに」
答えたのはノイくんではなく、ジギスヴァルト・レーベンだった。彼は意に沿わぬことに対する不服を隠さず表情に出して、そのまま片手に持ったノイくんと目を合わせる。
「僕との約束を破ったんだから、覚悟はできているんだろうな」
『はい……』
『覚悟』という言葉の物々しさに、私は途端に心配になる。一体彼は、ノイくんをどうするつもりなのか。
「待って……っ」
無表情に淡々と行動するジギスヴァルト・レーベンに、私がノイくんを守らなければ、という使命感が芽生える。思わず止めようとする私よりも、彼の方が早かった。
心配した私の思いなど露知らず――彼の与える罰というものは、あまりにも平和なものだった。
『うっうっ、ふかふかになっちゃうです』
悲しそうに口にするノイくんは、吊るされていた。そうだけ聞くと悲壮な光景を想像してしまいそうだが、どう見ても天日干しされているだけのぬいぐるみだった。沢山太陽の光を浴びるのよ、とむしろ微笑ましい気持ちで眺めてしまう。
正直言って、青空の下で他の洗濯物たちと共に干されるぬいぐるみを見て抱く感情と言えば、
「可愛い……」
それ一択だった。
身動きが取れないからか、嫌がるノイくんには悪いけれど、助けなくてもまあいいかなあ、という気持ちになってしまっていた。