06.「おはよう、あなた」
死にたがり魔法使いとの意見のすり合わせを諦めた私は、ジギスヴァルト・レーベンが万が一にも死んでしまわないよう、見張ることにした。
「おはよう、あなた」
ノックもせずに彼の私室の扉を開け放つ。ノックをしても返事がなく、ノイくんが勝手に開けても特別文句がなさそうだったので、私もそれに倣うことにした。ちなみに、妻らしく『あなた』と呼んだのはただの嫌味である。
ジギスヴァルト・レーベンの私室はなんというか、よくこの部屋で過ごせるな、と思わせるものだった。
とにかく本! 本! 紙束! 本! である。
部屋中にそれらが積み上げられ、足の踏み場もない。室内に机はなく、その理由はあっても本などが乗り切らなくて邪魔だから、らしい。床に座り込んで本を広げては、日々魔法について頭を捻っているそうだ。
本棚以外で唯一置いてある家具は寝台なのだが、その上さえ、積み上げられた本に浸食されている。その本の隙間を縫うように転がった布の塊の中身が、ジギスヴァルト・レーベンだった。
「もう昼になるわ。ほら、起きて」
結婚から五日経ち、毎日こうして起こしているが、これで彼があっさりと起床してくれた試しがない。
どうもこの男、寝汚い。
この家は彼の魔法で夜も日中のように明るく過ごせるため、夜更かししている日も多いようだ。しかし、それでなくとも寝起きが悪かった。
揺すっても呼びかけても布の塊から反応がない。この時点でおかしいな、と思った。これまでは揺すれば一応、随分不機嫌そうではあるものの、うるさいとか、やめろとか、それなりの反応が返ってきた。
「…………」
しばし考え込む。そして、反射的に無理矢理掛け布団を引っぺがした。
「何やってるの!?」
往々にして、嫌な予感とは当たるものだ。
掛け布団の中のジギスヴァルト・レーベンは、その顔を濡れた布巾で覆っていた。頭の後ろで括りつけていたそれを慌てて取り払えば、周到なことに口の中にまで布を突っ込んでいる。
「息をするように死のうとするのやめてくれる!?」
思わず矛盾した文句が飛び出す。口の中の布も取り去れば、急に大量の空気を吸い込んだジギスヴァルト・レーベンが大きく咽る。自業自得と、彼の行動に反発心を抱きつつも、苦しげな様子に心配になった。
「だ、大丈夫?」
うずくまったまま身を丸める彼が、できるだけ楽になるようにと思って背を撫でる。どうも老いることも死ぬこともない彼だが、痛みや苦しみは普通に感じるらしい。痛みの方はもう慣れたので気にならない、と言っていたが、乱れた呼吸を整えるには相応の時間が必要のようだ。
そうしてようやく落ち着いた彼は、物騒な感情を宿してそうな目を、ぎろりと私へ向ける。
「あと少しで死ねそうな気がしたのに」
恨みがましそうな紫の目に、一応苦しそうだと心配していた私はぴしりと固まった。
ああもう!
「だったらその前に離縁して!」
そうしたら今度こそ修道院に入る! そう心の中で決意した。
◇◆◇
暖炉に置いた鍋をかき混ぜながら、私は溜息を吐く。朝から言い合いをして疲れた。
ロッシュ家で生活していた頃の、アマーリエや使用人たちと和やかに過ごす、ある意味単調で平和な日々がすっかり懐かしい。
「クルちゃん、どうしたですか?」
ノイくんが、キラキラと輝く純粋な目で私を見上げる。興味深げに私が料理する様子を見ていたノイくんだが、思わず吐き出してしまった溜息を気にかけてくれたらしい。
優しい子である。よく似た色をしているのに、ノイくんと違ってどうにも淀んだ目をしているジギスヴァルト・レーベンにも見習ってほしい。
「大丈夫。何でもないわ」
私は笑って誤魔化そうとする。けれど、あまりにも真っ直ぐなノイくんの目を見ると、何だか本心を見透かされそうで、すっと鍋に視線を戻して誤魔化した。
この家では少々の薬草を育てているばかりで、畑で食料などは作っていないらしい。それでは、どうやって食材を得ているかというと、懇意にしている街の商人が定期的に運んできてくれるそうだ。
それを『世界で最も偉大な魔法使い』様お手製の瓶の中に入れる。常にひんやりとした瓶の中に食材を保存すれば、随分長く日持ちするようになるらしい。便利すぎて、ロッシュ家の厨房にも贈ってあげたくなった。
ノイくんは食事ができず、ジギスヴァルト・レーベンは気が向いたときでなければ食事を摂らないと聞いた。実際私が何度か誘っても気分じゃないと拒否されている。
ちなみに、絶食による自殺はすでに何度も失敗しているらしい。飢える苦しみだけが延々と続くそうで、想像だけで私はぞっとした。
森の中の空気は冷たいが、季節はまだ秋である。普通にしていると肌寒いが、こうして暖炉の上に置いた鍋でスープを煮込んでいると、火が近いためにどうしても汗が滲んでくる。それを手の甲で拭っていれば、ノイくんが私を見上げて小首を傾げた。
「ジトくんとは、仲良しできそうですか?」
その質問に、私は答えあぐねいた。
ノイくんは、どうも私たちに仲良くしてほしいようだった。ジギスヴァルト・レーベンを慕い、私に対しても友好的に接してくれている。好意を抱いている二人に仲良くしてほしい、と思うのは当然の心理だろう。
けれど、ノイくんの求める答えをあげようにも、それを口に出せば嘘になってしまう。
一応私は、結婚するからには仲良くしたいと思って嫁いできた。その気持ちは、今もなくなったわけではない。けれど、死にたがる彼を見過ごすことはできないし、そんな私を彼はさぞ鬱陶しく思っていることだろう。
「仲良くしたいな、と思っているよ」
仕方なく、自分の気持ちだけを伝える。すると、ノイくんはパッと顔を輝かせた。
「きっとジトくんもそう思ってます!」
それはないだろう、と思いつつも笑って誤魔化すことにした。
出来上がったスープをお皿に移していると、私室からジギスヴァルト・レーベンが現れた。死に方を考え直す、と部屋中の本をひっくり返していたのでしばらくは目を離しても大丈夫か、と食事に取り掛かったのだが、それも終わったのだろうか。
そろそろ私も色んな自殺行為を見せつけられ、本当に何をしても死なないのだな、という実感が湧いてきたので目を離してもいいような気はする。その方がお互い心の平穏も保たれるだろう。
ただ、心配と、少なからず『期待』と呼べる思いもあって、肝を冷やしながらも彼から目を離せなかった。
「何を作っている?」
珍しいことに、こちらに近寄ってきたジギスヴァルト・レーベンは、私の手元の鍋を覗き込んで、そう問いかける。
「根菜と芋と干し肉のスープだけど」
この家には、日持ちする芋や根菜類が多かった。それを干し肉と煮込んだだけの簡単なスープである。味付けも単純だが、野菜の味をしっかり感じられるので気に入っている。固めのパンが保存されていたので、それを浸して食べても美味しいだろうなあ、と考えていた。
鍋の中をじっと覗き込むジギスヴァルト・レーベンは、どうにも物珍しげだった。それから私の顔と、手の中の皿に目を向ける。
「…………あの、一緒に食べる?」
問えば、少々悩む様子を見せたものの、やがてこくりと頷いた。
子どものように素直な挙動に驚いて、おお……と思わず歓声じみた声を上げそうになる。しかし、彼の顔は相変わらずのしかめっ面だった。
座って待ってて、と言えば大人しく従う。あとは皿によそうだけだったので、ノイくんにもう一つ食器を用意してもらってすぐによそった。これまで、食事をするとしたら彼一人だったので仕方ないのだろうが、スープ用の皿は一つしかないらしく、私の分は少々底の深めの平皿に入れることにした。
ノイくんに手伝ってもらい、スープをよそった皿を運ぶ。鍋の隣で温めていたパンも用意し、二人分には少ないと思うので、食事している内に追加のパンを温めることにした。
パンを持って居間の食卓へ向かい、ジギスヴァルト・レーベンの向かいに腰掛ける。ノイくんもご飯は食べられないが、いつも一緒に食卓についてくれる。
「食べないの?」
皿に盛られた食事を、まるで警戒するように眺めていた彼へ問い掛ける。な、なんだその目は。別に変なものは入っていない。私が味見した限りでは、無難で不味いということもなかった。た、たぶん、大丈夫なはず。
「おいしそうですよー!」
ノイくんは、自身は食べられないのに、目を輝かせてそう言ってくれた。心が慰められる。
「……食べる」
木製の匙を手に取って、彼は小さく呟いた。
思えば、アマーリエ以外の人間にこうして料理を振る舞うのは初めてのことだった。そう気付くと途端に緊張し始めてしまう。それならもっと他にも色々とできたのではないか、と後悔が募る。夫に初めて振る舞う料理として、けして最適とは思えなかった。
思わず弁明したくなってしまう。自分一人で食べるつもりだったのだ、と。最初から言ってくれていれば、もう少し工夫のし甲斐もあっただろうに。
匙で掬い上げたスープを、ジギスヴァルト・レーベンはゆっくり口に運ぶ。熱さを警戒するような慎重さで、匙の中身は彼の薄い唇の中に消えて行った。
「美味い」
ぽろりと零れるような声だった。それ以上語ることはなく、二口目、三口目と次々に口の中へ放り込んでいく。急いで食べたからだろう。四口目を食べようとしたら熱すぎたらしく、あちっと呟いて慌てて唇から離した。
「い、急いで食べるから」
美味い、と言ってくれたことに驚いて呆然と眺めていた私は、そこでようやく我に返って立ち上がる。向かいの席から乗り出して、彼の口元へ水で濡れた布巾を持っていく。そうしてから気付く。どんな傷もたちどころに治る彼は、唇を火傷しても冷やす必要はなかっただろう、と。
しかし、ジギスヴァルト・レーベンはじっと一瞬布巾を見つめると、それを邪険にすることなく受け取り、自身の唇に押し当てた。傷は治っても、感じた温度は残っているのかもしれない。それならば、冷たい布巾は心地いいことだろう。
「急いで食べたいくらい、おいしかったんですね」
にこにこと嬉しそうにノイくんがそう語る。
そう聞いた瞬間、その言葉が事実であればいいという期待が湧き上がり、無性に気恥ずかしくなった。
こんな簡単なものでそうまで美味しいと感じてくれるなんて、普段一体どんなものを食べているんだ、などと考えて照れくさい感情を誤魔化す。
「ノイ、うるさいぞ」
ジギスヴァルト・レーベンは不機嫌そうにノイくんを咎める。けれどその手はあまりに正直に、再び匙を口に運んだ。
◇◆◇
それ以来、食事の支度を始めると、ジギスヴァルト・レーベンがソワソワと周囲をうろつき、待機するようになった。
最早照れくささや、美味しいと思ってくれたことへの喜びよりも、あの簡単な料理でそうも顕著な反応を見せるなんて、と戸惑いを覚えるようになる。
本気で彼のこれまでの食生活が心配になってしまった。