23.「そばにいて」
下手に動くと余計に迷って危ないかもしれない、と私は木陰に身を寄せ、膝を抱えて座り込んでいた。
つい先日も、誘拐されたノイくんを追いかけて怒られたばかりである。それなのに、またも考えなしに行動してこの有り様。後悔と反省が恐ろしい勢いで押し寄せていた。
しかも、前回は他人の悪意が根本的な要因だったが、今回に関しては私の過失以外の何ものでもない。余計に愚かしいのは語るまでもないことだろう。
「何、やってるんだろう……」
呆れてものが言えない。助けを求めるしかできなくて、迷惑ばかりかけている自分が情けなくて仕方がなかった。
薄暗い森の中で膝を抱えていると、聞き慣れているはずの鳥の鳴き声も不気味に思えてくる。風に揺れている木々のさざめきも、不安を煽るのに一役買っていた。
……今、遠くの方で不自然に草木が揺れた気がしたけれど、まさか狂暴な動物ではあるまいな。怯える私には息を潜めることしかできない。
ついでに言えば、寒い。とても寒い。家の中で片づけをしていたので、ショールも上着も羽織っていなかった。外に出るには、薄着過ぎる。ぶるぶる震えて、このままでは風邪を引きそうだった。
「馬鹿だなあ……」
自分の行いに後悔しかない。自業自得でも、早くここから抜け出したい。ノイくんが気付いてくれたら、ジギスヴァルトを呼んでくれるだろうか。助けてほしいのに、彼の手を煩わせることが嫌だと思う。
思わず手を強く握りしめ、結婚証明書に皺がつく。心細くて、不安で、だんだん思考がよくない方に傾いていることには気付いていたが、簡単に止められそうにない。
色んなことが浮かんでは消え、最終的に頭の中を締めたのは何度も繰り返し思い返している、先日のノイくんの言葉だった。
『ありますよ?』
かつて使った魔法の代償により、不老不死の呪いを掛けられたジギスヴァルトの、その呪いを解く方法が存在するという。
そのことを考えると、胸が痛くて仕方なかった。死ねないとあんなに言っていたのに、死んでしまうかもしれない。呆れるくらいあっさりと、悲しいくらいあっけなく。
そう考えると、頭を抱えてうずくまりたいような心地になった。森の中で一人凍えていることよりも、それの方が余程恐ろしくなって、簡単に思考が支配される。
死なないでほしかった。ただただ、いつものようにそこにいてほしかった。私の作ったご飯を食べてもらって、ノイくんに読み聞かせをする声に耳を傾け、何でもない言葉を交わしたい。
死ねないジギスヴァルトのそばは安心で、けれどその安心とはまったく別のところで、そばにいてほしいと思っていた。
彼が嫌がっても、苦しんでも、それでもずっと、私のそばで。
そんなことばかり考えてしまう。ジギスヴァルトの気持ちを想像して、確かにその長すぎる人生は恐ろしくて苦しいと思うのに、私は自分の中の残酷な願望を消せないでいた。
こんなことを考えて、ジギスヴァルトの望む『死神』としての役にも立たない私は、彼のそばにいない方がいいのではないだろうか、とも思う。結婚証明書なんて、こんな紙切れ、いっそこの場でびりびりに引き裂いてしまえばいいのだ。
彼の死を恐れ、嫌がる私がいなければ、きっとジギスヴァルトは今も気兼ねなく、死ぬ方法を模索できたはずだ。
そう、思うのに。彼の願いを叶えるために、自ら離れようとは思えない。
彼から目を離して、いつか私の知らない内に死んでしまったら。そう考えるとまた恐ろしくて仕方がないからだ。
うずくまり、自分の膝の上に目元を押し付ける。息苦しくて、何だかこのまま消えてしまいたいような心地だった。
「おい」
声が掛かって初めて、すぐそばにある気配に気付いた。思考に浸りすぎていたらしい。それは待ち侘びた声で、けれどどうしようもなく、胸が締め付けられるものだった。
ジギスヴァルトがそこにいた。いつものローブを着ていない。着の身着のまま飛び出したといった様子で、私がいないと気付いてすぐに探しにきてくれたのだと分かった。
自分に向けられる優しさが嬉しかった。そう理解すると堪らない気持ちになって、立ち上がる。そのまま彼が何かを言うよりも早くしがみ付いた。
「死なないで」
口から出たのは、以前にも告げたことのあるような言葉だった。けれど懺悔だった前回とは違い、ただただ子どもの癇癪のように彼へぶつける。
「お願いだから死なないで。どこにもいかないで。そばにいて」
言葉にしながら、心の中で何度も繰り返す。死なないで、死なないで、死なないで。
不器用で、子どもみたいで、不愛想で、けれど優しくて誠実で正直な人だ。彼のそばにいたかった。もっとずっと長く、一緒にいたい。当たり前だと信じていた温もりを失うのは、もう嫌だった。
目の前に彼が死ねる方法が転がっていたとしても、今のように縋り付く自分の姿が容易に頭に浮かぶ。
「死なない」
私のひどい我儘に、彼はこちらが戸惑うほどはっきりと言い切った。しがみつく私の肩に両手を置いて、ジギスヴァルトは殊更ゆっくりと口を開く。
「僕は、死なない。もう決めた」
噛みしめるような、自分に言い聞かせるような声だと思った。
「うそ……だって、ノイくんに聞いたのよ。呪いを解く方法はあるって」
声が自然と震える。望んでいるからこそ、その言葉を咄嗟に信じることはできなかった。条件を見つければ、彼はすぐにそれに縋るだろう。そう容易に想像できるくらい、ジギスヴァルトはいつも死に焦がれていた。
それをどうしても許容できなくて、勝手なことに責めるような調子になってしまう。
「……確かにそれは……けれど魔法の発動に必要なものがある」
「必要なもの?」
「呪いを解く魔法には、愛する人の命が必要だ」
ジギスヴァルトは自嘲するように、浅く笑った。
「御伽噺みたいだろう? 御伽噺とは違って、夢はないが」
御伽噺と同じように愛する人が必要で、けれど御伽噺とは違って愛する人は救いではなく犠牲となる。残酷で、嫌になるくらい現実味があった。
「きっと僕は、遠からずその条件を満たすだろう。いや、たぶん、もう」
ジギスヴァルトはそこで言葉を切る。それは、つまり。彼が『そうした人』を得るということで。
「だけど、僕には……クシェルを殺すことはできないから」
ぽつり、零れ落ちるような声。私は、呆然と彼を見上げる。もしもその言葉を、そのまま受け取ってもいいとしたら。それは他の何よりも雄弁な『愛の言葉』だった。
「だから、もういい。部屋で考えて、諦めた。僕は選んだ。僕はもう……死ねなくても、いい。おまえが生きている内は、ちゃんと生きる」
それは私にとって喜ばしいことだった。確かに望んでいたことだった。けれど、それならどうするのだろう。
私が生きている間は、ってじゃあ、死んだあとは? また、途方もない時間を生きるの? 死にたいって嘆きながら?
私はぎゅう、と彼の腕を掴む手に力を籠める。堪らない気持ちで、涙が溢れ返っていた。この数日間、部屋に籠って何をしているのだろう、と思っていた。
諦めていたのだ。
ずっとずっと、私を生かすために、目の前の呪いを解く可能性から目を逸らすために、ずっとずっと諦めていたのだ。永遠に続く絶望を受け入れた。ただ私を生かす、そのために。
三百年続く呪いよりも、彼は私の命を選んだ。
「約束して」
震える唇で、無理矢理言葉を紡いだ。腕を掴んでいた手で、彼の胸倉を掴む。
「死なないで、ずっとそばにいて。私がおばあちゃんになっても、同じように想い続けて。ううん、もっともっと、今よりずっと、特別に想って」
死にたくてどうしようもなくて、それでも私を殺せないと言ってくれる彼に、私が返せるものがほしい。ほしくてほしくて、胸を掻き毟りたくなる。
「そして、そうしてね、ジギスヴァルト。私が死ぬ直前に――あなたが私を殺すのよ」
ジギスヴァルトが向けてくれる愛情に応えられる方法を、必死に模索した。それは懇願であり、私が示せる何よりもの愛だと思った。
「私があなたを殺してあげる。だから、あなたが私を殺して」
言葉の意味が、正確に伝わったのだろう。彼は目を見開いたまま、私を見下ろす。
私が彼のためにしてあげられること。それは、そばにいて、大切にして、そうしてきちんとその命を終わらせてあげること。
ごめんなさい、と弱気な心で呟く。あなたのためなら死んでもいいよ、とは言えなかった。だって私、ジギスヴァルトともっとずっと一緒にいたいから。私の命を惜しんでくれるジギスヴァルトの心を言い訳に、そんな風に思う。
「なにを……」
彼は呆然と呟き、信じられないものを見るような目で私をじっと見つめる。紫の瞳は、いつものジト目より少しだけ感情的で、何だか堪らない気持ちになった。
固まっていたジギスヴァルトはやがてゆっくりと動き出し、恐る恐る私の頬に触れる。
「……ふ、ははっ。は、あっはははは!」
その、次の瞬間、彼は声を上げて笑い出した。彼が笑っているのを見るのは初めてで、そのあまりに景気のいい笑いっぷりに、私は唖然としたまま見上げることしかできない。いっそ心配になるほどだった。
一頻り笑い終わったジギスヴァルトは、見たことのない清々しい微笑みで私の名前を呼ぶ。
「クシェル。ああ、おまえ……なんて」
噛み殺せない笑いが、今も漏れてきている。
「なんて、我儘なやつだ」
真面目な話をしていたはずなのに、初めて見た彼の笑顔に私の目は奪われていた。あんまりジギスヴァルトが景気よく笑うものだから、つられるように私も可笑しくなって、結局一緒に笑ってしまってしまった。
何だかほっとして、またちょっとだけ泣けてくる。けれどきっと、私が泣けば彼はまた心配してしまうだろう。だから代わりに、ジギスヴァルトの身体を力いっぱい抱きしめることにした。




