02.「どうぞご武運を!」
『世界で最も偉大な魔法使い』
そのあまりにも仰々しく、詰まらない冗談みたいな称号を持つのが、私の夫となるジギスヴァルト・レーベン、その人らしい。
かつて当時の王子殿下と共にこの国を救った英雄だとか。戦争、天災などから、この国を、この世界を何度も救ったという話を聞いた。その一方で、怒りに触れれば一国など容易く滅んでしまうだろう、という恐ろしい情報まで得てしまった。
それは最早、ジギスヴァルト・レーベン自体が天災なのでは? と思った言葉はなんとか飲み込んだのである。
そして、これが結婚する身としては割と重要な情報だったのだが、なんと御年三百を超えるらしい。六十年も生きれば随分長生きだと思うのに、その五倍。一体どんなおじいちゃんなのやら。
身近に魔法使いがいないのでいまいちピンとこないが、寿命まで人間離れしているらしい。未知の領域過ぎて、羨ましいとも何とも思えなかった。
正直随分気が引けたが、この婚礼は国からの命令だった。何でも、その偉大な魔法使いたるジギスヴァルト・レーベンが私を指名し、強く結婚を望んだらしい。
逆らえるはずがない。きっと両親が生きていても、この婚礼から逃れることはできなかっただろう。私の嫁ぎ先を探し、その度に失敗していた叔父は当然喜んで私を送り出した。
『こんなのひどすぎます』
ジギスヴァルト・レーベンの恐ろしい噂を聞いたアマーリエだけは、ロッシュ家を立つそのときまで、泣きながら私を惜しんでくれた。
国からの命令に逆らえば、優しい彼女にもしわ寄せがいくだろう。そうさせないためにも、私は覚悟を決めて嫁ぐことができた。御年三百のおじいちゃんのお相手くらい、立派に果たしてみせますとも。
そうして、世間で面白おかしく噂される死神としての力が発揮されるよりも早く、今度こそ嫁ぐことが叶ったのだ。四度目の正直である。
「『結婚証明書』と『通行証』はこちらにございますので、ご持参ください。それでは、どうぞご武運を!」
おおよそ嫁ぎに行く女性に向けるとは思えない言葉を残し、私をおろした馬車はすたこらさっさ、と来た道を戻って行った。
「い、いやいやいや。せめてもうちょっと、もうちょっと何とか……」
思わず頼りない声が漏れる。先方の要望により、侍女の一人も持参金も持たず、わずかな衣類と身の回りのものだけを持って一人馬車に揺られてきた私は、森の中であっさりと馬車から降ろされた。
結婚証明書はともかくとして、『通行証』とはなんだろうか。門番でもいるのかもしれない。
目の前には細い一本道が続いている。この道を真っ直ぐ行くとジギスヴァルト・レーベンの自宅があるらしい。馬車に対し、せめて家のすぐそばまで一緒に行ってほしい、と思うのは私の我儘なのだろうか。いや、そうは思いたくない。
「すごい、劇的に不安になってきた……」
顔を青ざめさせていた御者と、逃げるように去っていった馬車の後姿が気にかかる。
腰が引けても、こんなところで立ち尽くしているわけにはいかない。この場にいて、動物にでも襲われる方が恐ろしいはず。たぶん。そういうことにして。
二度、三度深呼吸をし、覚悟を決めて息を呑む。よし、と一つ頷いてから恐る恐る歩き始めた。
足元は歩きやすいようすっきりした意匠とはいえ、着慣れないドレスを身に付けていることに後悔しかない。仕方ないではないか。一応これでも花嫁なのだ。森の中で荷物を抱え、一人寂しく歩いていたとしても。
貴族の娘としては、あり得ない婚礼だろう。本来花嫁とは教会で式を上げ、侍女や家財を伴い、夫となる人の家の前まで馬車で向かうのだ。それがどうした私。見送りも出迎えもない。
嘆いていても仕方がない、と思って何とか振り返らずに進む。一歩進めば進むだけ、より一層の不安に駆られた。
道が比較的舗装されているのが不幸中の幸いか。そう己を慰めながら歩いていると、ようやく家らしき陰が見えてほっと安堵した。
木造の、少々頼りない印象の家だった。門はなく、とてもじゃないが門番などが立っている様子もない。
ロッシュ家の邸宅に比べると随分こじんまりしていた。確かにこの家ならば、侍女と共に嫁いでくることは難しかったかもしれない。そんなに人を収容できるようには見えなかった。
平屋で開けた場所に建てられているが、部屋数は如何ほどだろう。まるで想像がつかない。家の隣にある、レンガ造りの小さな小屋からは煙突が伸びていた。
民家である。城下町でも見かけないようなそれは、古ぼけ、些か強度が心配だが、きっと民家なのだろう。もう荷物を抱えて歩きたくなくて、私はここがジギスヴァルト・レーベンの自宅であると確信することに決めた。
大きな木が陽の光を遮る森は、薄暗く、空気がひんやりとして、空恐ろしく感じてしまう。とにかく人間に会いたい。それが、恐ろしいと噂される魔法使いであっても。
何となく周囲をきょろきょろと見回し、深呼吸をして覚悟を決めてから、目の前の玄関と思しき扉を叩く。
「ごめんください」
そのまましばらく待つが、何の返事も得られない。まさかとは思いたいけれど、本当に空き家ではあるまいな。
しかしこれ以上進むための道は見当たらず。森の中をかき分けて進むことになれば、いい加減泣いても許される気がする。
「あの、ごっ」
もう一度声を掛けて扉を叩こうとすれば、それよりも早く、勢いよく扉が開いた。外開きの扉を慌てて後ずさって避ける。あと一瞬遅ければ、顔面で扉を受け止める羽目になっていたことだろう。
「どちらさまですかー!」
声に引き寄せられるように視線を下へ向ければ、そこには十にも満たないような年齢の男の子が、両手で扉を押さえて立っていた。身体が小さいので、扉に抱き着くようになってしまっている。
亜麻色の髪はまっすぐで、前髪がさらりと流れる。滑らかな頬にはほんのり赤みが差し、幼げな曲線を描いていた。
可愛い。思わずだらしなく微笑んでしまいそうなほど。
男の子は零れそうなくらい目を丸くして私を見つめると、それから大きく口を開いた。
「わあ!」
紫色の目を輝かせ、男の子は元気の良すぎる歓声を上げる。
「ぼく、女の子ってはじめてみました! ディッくんの持ってたお人形さんみたい!」
小さな男の子らしい甲高い声が響く。大きな目をぐるぐると動かし、私の姿を観察しているのが分かった。居心地は悪いが、少なくとも悪意があるようには感じられない。
「あ、あの……」
戸惑いがちに声をかければ、男の子は『あっ』と何かに気付いたように目を見開き、それからきりっと表情を引き締めた。小さな子どもなので、引き締めても可愛いままだった。
「ちゃんとおはなし聞いてました! ぼく、ジトくん呼んでこられます!」
そう言って、止める間もなく男の子は私に背を向け、家の中へ入って行った。玄関からすぐの部屋は居間のような造りらしく、食事などに使われているだろう机が真ん中にあり、部屋の奥には暖炉が見えた。木造の家だが、暖炉の部分だけは煉瓦になっている。
「ジトくん、ジトくん! お嫁さんですよー! 女の子ー!」
小さな男の子が、飛び跳ねそうなくらい元気よく扉を叩く音がする。廊下がない間取りのようで、居間から直接別の部屋に繋がっているらしい。
お嫁さん、と私を呼んでいたことで『ジトくん』とはジギスヴァルト・レーベンのことであると推測される。
「うるさいぞ、ノイ」
扉が開くような音と共に、とても機嫌が良好とは思えない男性の声が聞こえた。少々掠れてはいるものの、年老いた印象は受けない。どちらかというと寝起きのような声だと思った。
どうやらノイくんというらしい男の子にローブの裾を引かれて現れたのは、老人らしい白髪の――しかし、どうにも老人らしからぬ人物だった。
その面立ちに、重ねた年輪を思わせるような皺がない。髪の色こそ一点の曇りもない白髪だが、若々しく、見た目だけならば青年にしか見えなかった。二十代前半といったところだろうか。
すっきりとした目鼻立ちは非常に整っており『美』や『麗』の形容詞を使って然るべきだと思われる。どこに消えた齢三百。まさか誤った情報だったのか。
ノイくんとよく似た紫色の目が不機嫌そうに細められ、ジトりと私を見据える。もしやジト目だから『ジトくん』なのか。
「おまえがロッシュ家の娘か」
「え……ええ、そうです」
思わずじっと見つめてしまっていたが、慌てて返事をする。そこで気付いた。よくよく考えてみれば、彼がジギスヴァルト・レーベンではない、という可能性もあるだろう。
式は挙げず、教会から結婚証明書を発行してもらっただけの結婚である。それすらも私の持参という形だ。
おおよそ一般的とは呼べない結婚なので、これまで夫となる人の顔を見たことがなかった。
「僕がジギスヴァルトだ」
と思った矢先に、その可能性は潰えた。どうやら彼が嘘を吐いているというオチでもない限り、目の前の青年がジギスヴァルト・レーベンらしい。
真っ黒なローブに身を包んだ彼は、腕を組んで私を見下ろす。彼がどうしてもと言って私を妻に望んだ、と聞いていたのだが、どこからどう見ても歓迎されているようには見えない。
「初めに言っておく。僕はおまえに何も望んでいない。妻としての役目も、振る舞いも、何もする必要はない。僕が望むのはただ一つ」
あくまでも、どこまでも不機嫌そうに、彼は口にする。
「僕の妻として、ここにいること」
それだけだ、と告げると彼はすぐに身を翻そうとする。話は終わりだ、と言わんばかりの態度に、私は大いに慌てた。両手に抱えていた荷物をいったん床に放り置き、翻されたローブをわし掴む。
とりあえず、態度が冷たいとか、あなたが望んだ結婚じゃないのかとか、ただここにいることとはどういうことなのだ、とかそういったことは一旦横に置いて。
「あ、あの!」
振り返った彼の、鬱陶しそうな視線にも負けず、私は問い掛ける。
「ご、ご子息がいらっしゃるのですか……?」
紫の目が、わずかに見開かれる。その視線は私のものと併せて、一人の存在へ向けられた。
「どうしました?」
つぶらな瞳のノイくんが、可愛らしく小首を傾げていた。