19.「自覚が足りない」
「クシェルには自覚が足りない」
向けられる文句を適当に受け流す。忌々しげなジギスヴァルトの主張はこうである。『おまえは僕の妻のくせに』。街の広場へ向かいながら、彼は不機嫌と言うよりも拗ねている様子だった。
買い物を済ませると、ディルクさんが家まで送ってくれる予定だったのだが、彼に用事ができてしまったらしい。そう時間はかからないようで、終わってから馬車を回すからそれまで散歩でもしてきなよ、と勧められた。
そのため、いまいち乗り気ではない様子のジギスヴァルトと共に、ノイくんを連れて街の中心部へ向かっていた。中心部には鐘塔があり、その周辺は広場となっている。ちょっとした観光気分である。
「はい、気を付けます」
「適当に返事したな……」
「そんことないけど」
まさしくその通りであったが、しらばっくれる。私が真面目に取り合う気がないことに気付いたのか、ジギスヴァルトも諦めたように口を噤んだ。
そうして訪れた広場には、沢山の路面商店があった。手品などの見世物をしている人もいる。格好や服装なども様々で、旅人の立ち寄りも多い、と聞いていたのを実感する。
「私、こんな風に街を歩くのって初めて」
実家にいた頃、街はいつも馬車で通り過ぎるだけだった。こうして自分の足で歩くだけで、心がわくわくと沸き立つ。
「ジギスヴァルトは? ここじゃなくても、街を歩いたりすることってあったの?」
難しい顔で宙を見据える、彼の横顔を眺める。どうも記憶を探り、考え込んでいる様子だった。
「……王都では、よく。陛下が好きで、よくお忍びに付き合わされた」
その様子を想像してみようと思ったけれど、いまいち上手くいかなかった。私の知っているジギスヴァルトはあの森の家に住む彼で、国王陛下の忠実な臣下である姿はまるで想像できなかった。
「どんな風だったの? その頃のジギスヴァルトは」
考えるよりも先に口をついて出た。いつもは、昔のことを聞いていいか分からなくて、結局何も言わないようにしていたのに。
「そうだな……よく頭が固いと言われた。陛下が中々に自由な人で、怒ってばかりいた気がする」
「想像付かないなぁ……」
「しなくていい」
案外あっさりと答えてくれて、ほっと安堵する。もしかしたら、私が気を使いすぎていたのかもしれない。
興味と、緊張を悟られないように、努めて前を見つめる。視線を上げれば、自然と鐘塔が目に入る。これから昼の鐘を鳴らす時間なのか、鐘のそばに人影が見えた。
「あの……答えたくなかったらいいんだけど」
この街に来たとき抱いて呑み込んだ疑問が、また私の中で膨れ上がる。音にするぎりぎりまで悩んで、躊躇って、それでも彼のことを知りたいと思って、口に出す。
「…………あなたは、どうして呪われたの?」
怒らせるかな、と思った。怒るならまだいいけれど、悲しませるかな、というのが心配でならなかった。けれど彼は、感情の揺らぎを感じさせない、凪いだ調子で口を開いた。
「……陛下のお命が危ぶまれたときがあった。僕はそのとき、大昔に禁じられた魔法を使って、その命を長らえさせた。代償は魔法使用者の時間で、僕は実際に使用するまで、それを死ぬことだとずっと思っていた」
本当の代償を、もう私もよく分かっていた。彼は私の懸念に反し、淡々とした調子で言葉を紡ぐ。
「実際は、死を含めたその後の時間を失い、肉体が老いることすらできなくなって停止した。自分の力を過信した愚か者の末路だ。そうしなければ陛下をお救いできなかったのに、僕はそれでも後悔するときがある」
そのとき、大きな鐘の音がした。街中に響き渡るだろう、大きな音が周囲の音を消し去る。周りを歩く、旅人と思しき姿の人たちは、足を止めて鐘塔を見上げていた。
そんな音の中で、私は必死にジギスヴァルトの声に耳を澄ませる。不思議と、彼の声を取りこぼすことはなかった。
「陛下のために、死ぬ覚悟はできていた。けれど、生き続ける覚悟はなかった。とんだ不忠義者だ」
「そんなことは……っ」
否定しようとして、言葉にはならなかった。きっとそれを否定できるのは、或いは肯定できるのは彼自身か、彼が心から仕えていた当時の国王陛下しかいないのだろう。
だから私は、ジギスヴァルトの腕を掴んで、自分が口にしてもいいと思う言葉を、聞こえるようにとだけ気を付けて口にする。
「……あの、聞かせてくれて、ありがとう」
遠い過去を思い返すように、視線を宙に投げていたジギスヴァルトが、その紫の瞳でじっと私を見下ろす。私も彼を見つめ返した。掴んだ手が、振り払われることはない。
「ああ」
ささやかな相槌には、どれだけの感情を込められていることだろう。やっぱり聞かなければよかったかもしれない。彼を不快にして、傷つけたかもしれない、という不安がある。
それでも、私の個人的な感情としては、彼のことを知れてよかった、と思った。
そうしている内に、大きく響いていた鐘は徐々に鳴りやんでいった。まるでその代わりとでもいうように、突然空気を切り裂くような悲鳴が上がる。
「何だ!?」
「あれ、上!」
周囲の人の声を拾って、私も上へ目を向ける。
「ひっ」
思わず声を上げて口元を抑えた。視線の先、塔の鐘があるところの柵が壊れ、そこから落ちそうになっている人が必死に捕まっている姿が見えた。
街の外からでも、その姿が見えるほど背の高い鐘塔である。あんな高さから落ちれば、人間などひとたまりもない。
男性だが、いくら力の強い人でも、自分の全体重を腕だけで支えた状態で、いつまでも堪えられるはずがない。彼が落ちてしまうのは時間の問題だった。
「ど、どうしよう……!」
何人かの男性が鐘塔の中に入っていくのが見えたけれど、間に合うのだろうか。間に合ったとして、引き上げることはできるのか。時間が惜しく、早く何とかしてあげなければと思うのに、自分にできることが分からない。
混乱しきっていた私の隣で、ジギスヴァルトがすっと右腕を上げた。私は、そんな彼の動作に見覚えがあった。彼が、魔法を使うときだ。
「きゃああ!」
再度。鋭い悲鳴が上がる。私がジギスヴァルトに一瞬気を取られた内に手が滑ったのか、男性がとうとう掴まっていたとこから落ちていく姿が見えた。 そのときだった。
「え」
すぐ隣から、大きな風が起こる。唸り声を上げるかのような風が、勢いよく吹いたのが分かった。
その直後、誰もがその命の危険を覚悟した男性は、ふわり、ふわり、と宙に浮いていた。不自然にゆっくりと、まるで導かれるように男性は安全にお尻から地面に着地した。
しん、と時が止まったかのような沈黙が満ち、その場にいた人が一斉にこちらを振り返る。おそらく他の人々も風を感じていたのだろう。その目は私の隣、ジギスヴァルトへ向けられていた。
「すごい!」
「一体何が!?」
「魔法だよ! 魔法使いだ!」
「魔法にしたってあんなでかい男を浮かすなんてできるのか?」
「できるから生きてるんだろ!」
わっと歓声が上がり、人混みが一気にジギスヴァルトへ詰めかける。隣からひっ! という短い悲鳴が聞こえた気がしたが、私がどうにか反応するよりも早く、彼は多くの人に囲まれてしまった。
ほっとして、へたり込みそうになりながら、安堵からぎゅう、と腕の中のノイくんを抱きしめる。そのまま人の輪から外れたところで、ジギスヴァルの姿を目で追った。人垣ができていて近付けそうにない。遠目に見た彼は、青ざめているように見えるのだが、大丈夫だろうか。街を歩くだけで挙動不審だったジギスヴァルトである。
どう考えても、大丈夫じゃない気がする。
「まあ、でも、よかった……」
彼に向けられる視線は感謝と羨望だ。悪意がある訳でもないのだから、私は見守ることにしよう。
そう考え、完全に気が抜けて油断していた。周囲を警戒するような意識は初めからなく、さぞ間抜けを晒していたことだろう。
「きゃっ」
最初に感じたのは衝撃だった。気付けば私はその場で転び、尻もちをついていて、人にぶつかられた、と気付いたのはそのあと。尻もちをついたまま、走り去る背を見てからだった。
「ノイくん!」
先程まで抱っこしていたノイくんがいない。走り去る人間の陰から、ぶらぶらと揺れるノイくんの足が見える。わざとぶつかられて、ノイくんが誘拐されたのだ。
私は大慌てで立ち上がり、何を考えるよりも早く、反射的にその背を追った。




