14.「ありがとう」
寝台に身体を横たえて、一体どれだけの時間が経っただろう。途方もなく長い時間のようにも、短い時間のようにも感じられた。
眠れない夜は感覚が鋭敏になって、家の外から聴こえてくる鳥の鳴き声や木々のさざめきさえ、やけに大きく聞こえてしまう。目が冴えてしまい、これ以上転んでいても眠れる気がしなかった。
しばらく悩んだ末、部屋を出ることにする。居間に行けば、明かりを絞った魔法石のランプが置いてある。そのそばでは、ノイくんが魔力を蓄えていることだろう。眠気が訪れるまで、その顔を眺めていようか。
もうノイくんに夜の間、ジギスヴァルトの様子を見て、とは頼んではいなかった。彼が自殺をしなくなったのも理由の一つだけれど、死にたがる彼を止められない、と思ったからだ。
彼の生きた三百年を想像してしまったら、責任とって生きて、なんて言えなかった。そのくせ自分に都合よく、死にたがることを控えた彼に、私のことは気にしないで好きなようにして、とは言わない。
卑怯だな、と思うと自己嫌悪に陥った。
手探りでストールを肩にかけ、足音を立てないよう、慎重に居間へ踏み出す。食卓の上に置かれたランプの光さえ、真っ暗な部屋から出てきた私には、眩しいように感じられた。
ぬいぐるみの姿で食卓の椅子に座っているノイくんのそばに行く。魔力を蓄えるというのは、人で言う睡眠に当たるらしい。大きな異変があれば気付くらしいが、息をひそめてこうして近付けば何の反応もない。
ぬいぐるみなので瞼はなく、紫の目がそこにあるまま、口は笑みを象っている。普段は愛くるしいばかりのノイくんだが、こうして夜中にぬいぐるみの姿でランプに照らされていると、正直言って少々不気味だった。
実際のノイくんの愛らしさを理解しているだけに、ごめんね、と思いながらも何だか可笑しい。自然と笑みが零れた。
顔を上げて、ジギスヴァルトの部屋の扉が薄く開き、明かりが漏れていることに気付いた。まだ起きているのだろうか。
明かりに誘われるように、ふわふわと彼の部屋へ向かう。薄っすらと開いた隙間から室内を覗き込むと、寝台にもたれかかったまま、ジギスヴァルトが目を瞑っていた。
どうやら眠っているらしい。そのそばにはランプと本が置かれている。本を読んでいる内に眠ってしまったのだろうか、と推測した。
入っていいかな、としばし悩んだものの、いつも起こすという名目で勝手に入っているので、まあいいか、と侵入を果たすことにした。
起こさないよう、足音に気を付ける。摺り足で近付いて、ジギスヴァルトの目の前でしゃがみ込んだ。
橙色のぼんやりとした光の中で、まじまじとその姿を観察する。起こさないように、息をひそめてできることと言えば、それくらいだった。
伏せられた瞼の先から、細くて長い睫毛が伸びている。鼻筋は通っていて、唇は薄い。白い髪と肌は、橙色に染まっていた。
改めて眺めてみても綺麗な顔をしているが、その分あまり生気を感じられない。人形じみた美しさだと思った。
そう考えると、途端に不安になる。彼がちゃんと生きていると理解したくて、私は右手をそっと彼の口元へ寄せる。
微かな寝息が指先に触れるのを感じて、ようやくほっと安堵した。
「よかった……」
同時に、やはりそういう風にしか感じられないのだな、と分かっていたこととはいえ、少々呆れてしまいそうになる。俯いて溜息を吐き、さっさと退室することにした。いつまでもここにいれば、いずれ起こしてしまうかもしれないし。
その前に毛布だけ掛けておこう。夜は暖炉の火も小さくしている。このままでは身体を冷やしてしまうかもしれない。
よし、と心の中で呟いて、
「ひっ!」
思わず引きつった悲鳴が漏れた。顔を上げた瞬間、いつの間にか目を開いていたジギスヴァルトと目が合ったのだ。
「何だ、その反応は」
随分不服そうに言われるけれど、深夜で油断しきっている中、突然目が合うことの驚きと焦りとそれに伴う恐怖を察していただきたい。嫌な跳ね方をした胸が、ドクドクと音を立てている。冷や汗を流したかと思うと、今度は変に体温が上がった。
「ね、寝てると思っていたから、驚いて……」
「あれだけ視線を感じたら、さすがに起きる」
そう言われると何も反論できない。確かにまじまじと眺めた自覚はあった。しかし、それならばもう少し早く目も覚めていたのではないだろうか。
くぁ、とジギスヴァルトがあくびを漏らす。居たたまれない気分になって、さっさと部屋に戻ろう、と決意した。
「じゃああの、私は……」
「何をしてたんだ」
部屋に戻るね、と続けようとした言葉は遮られた。明かりが小さいと黒く見える瞳が、じっと私を見据える。黒いと普段以上にジト目に見えた。
「あ……ええと、床で寝て、風邪引かないかな、って考えてて」
咄嗟に見ていたことに対する言いわけを口にしたけれど、言い淀んでしまったので説得力はなくなった気がする。
「口に手を当てていたのは?」
「……分かってるんじゃない」
意地が悪い。わざわざ聞かなくてもいいだろう、と思ってしまう。それに気づいていたなら、そのあとの私の『よかった』という呟きももちろん聞いていただろう。そうなれば、私が何を確かめたかったのかも察しているはずだ。
ジギスヴァルトは寝台にもたれたまま、私はしゃがみ込んだまま俯く。嫌な沈黙だけが流れている気がした。私の中にある罪悪感のせいかもしれない。
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
言葉に詰まった。
彼が私の行動をどう感じているのか、分からない。声に怒りが籠っているようには感じないけれど、意図を察したならば、不快にさせたのではないかと思う。
「……あなたが生きているか、不安になったの」
少しの沈黙が流れる。
「そう簡単に死ねたら、苦労しない」
溜息まじりのようにも聞こえる、どこか重苦しい声だった。声だけで、何度も、何度も、諦めてきたのだと伝わってくるような。
「……私、妹がいるの。本当は従妹なんだけど、両親が亡くなって叔父に引き取られたから」
何かに急き立てられるように口を開いた。早口になってしまって、聞き取りづらいだろうに、ジギスヴァルトがそれを咎めることはなかった。
「優しい、いい子で。幸せになってほしくて。その姿を見たかったんだけど、私、あの、『こんな』だから」
声が震える。情けなくて、申し訳なくて、何だか無性に心細くて堪らなかった。
「婚約者が三人亡くなって、そんなわけないんだけど、私、死神なんて大それたものにはなれないんだけど、も、もしかして、お、父様とお母様も、わ、私のせいじゃ、って思うとき、あって」
三人目の婚約者が亡くなったと聞いたとき、その可能性に気付いてしまった。そんなわけがない、ただの偶然だと頭では分かっていても、けして笑い飛ばせるようなものではなかった。
「だから、妹のそばにいるのが怖くて、早く家を出たくて。見ず知らずの夫になるかもしれない人より、アマーリエが大事で」
優先順位を付けた。死神のはずがないと理解していても、それでもアマーリエのそばにいると不安でたまらなくて、私は見ず知らずの夫となる人より、アマーリエを選んだのだ。
「どんな人でもいいから、早く結婚したかった。あの子から危険を、少しでも遠ざけたくて」
けれど、みっともない言いわけでしかないけれど、夫となる人の不幸を願っているわけでも、死んでもいいと思っているわけではなくて。死神ではないと信じて、信じたくて。
どうせ結婚するなら仲良くしたいという思いにも、嘘偽りはない。
だから、ジギスヴァルトとの結婚は、他の誰よりも望ましいものだった。
「ごめんなさい」
うつむいて、顔を上げられない。しゃがみこんだ自分の、足先に目を向けた。
「ジギスヴァルトが、その命に苦しんでいるのは分かっているの。それでも、それでも私は。……あなたといると、とても安心する」
私が殺してしまうかも、死神かもしれないと、心配する必要がない。あるとき突然死んでしまうかもと、不安になることもなかった。だって彼は、どれだけ願っても、どれだけ死のうとしても、けして死ぬことができないから。
私にとって、誰よりも理想の夫だと思う。そう考える自分の勝手さが、恥ずかしくて申し訳なかった。
「……僕は死ぬぞ」
「うん」
「このままは嫌だ」
「うん」
名目上妻であっても、それを止める資格はないだろう、と思う。彼がどんなにそれを望んでいるか、私にももう分かっていた。
「死なないでほしいと思ってしまって、ごめんなさい」
この家での生活が楽しかった。ジギスヴァルトが人生から解放されたがっているのに、そんな自分の感情だけで、生きていてほしいと願ってしまう。死ねない彼に安心して、死神ではないと思わせてほしい。あまりに利己的な願望だった。
「僕はもう、生きていたくない」
「うん。……うん。分かってる」
これは懺悔なのだ。自分が可愛い私の、我儘な自己弁護。懺悔しなければ、自分が苦しいから口に出しているだけなのだ。
「だから、死なないでいい、という選択肢はない」
情けなくなって、ますます俯けば、背中にかかっていた髪が流れて床につく。汚れるな、とどこか頭の冷静な部分で思ったけれど、それだけだった。
「でも、あの……いや、あー……」
ジギスヴァルトが言いよどむ。どこか気まずそうな言い方を不思議に思って顔を上げようとすれば、それよりも早く髪を引かれる感覚がした。
それに逆らわずに顔を上げれば、いつの間にか寝台にもたれていたはずのジギスヴァルトが身体を起こし、床に垂れていた私の髪を左手で掴んでいる。彼の右手が、毛先の方を掬い上げた。
「その……死なないでほしいと思われることは別に、不快では、ない」
髪が、引っ張れる感覚がする。髪から辿って目を向けて、私の髪を握るジギスヴァルトの手に力が加わっていることを感じた。橙色のランプの光は頼りなくて、目の前だってよく見えないのに、彼の瞳がすっと逸らされるのが分かる。
けれどそれは、拒絶するようなものではなくて。
「だから、クシェルが謝ることじゃない」
それは随分甘ったるい言葉だった。私に甘くて、優しい言葉。素直に受け取るには、あまりに自分に都合がよくて、躊躇ってしまうような。
「でも、私は」
「でもじゃない。謝られているのは僕なのに、どうしておまえが否定するんだ。僕の言葉を否定するならそれは謝罪ではなくて、ただの自己満足だ。謝罪する自分に酔って悦に浸っているだけだ」
正論だった。厳しいくらい正しい。まったくもってその通りで、けれどやっぱり甘ったるい言葉だと思った。
彼の伝えたいことは結局、謝らなくていい、ということなのだから。
ちらりと、ジギスヴァルトがこちらへ目を向ける。素っ気ないのに様子を窺われていることが分かる。ありがたいなあ、嬉しいなあ、幸せ者だなあ、と思うと何だか泣けてきた。
落ち込んでいても、きっと責められても、耐えられる。けれど、優しくされると何だかもう、だめだった。簡単に涙腺が弱くなってしまう。
けれどきっと、私が泣けばジギスヴァルトは驚いてしまうから。
「ありがとう」
堪えて笑った。できるだけ自然に見えるように。許してもらえるって、こんなにほっとすることなのか、と実感する。
私の言葉に応えるように、髪を掴むジギスヴァルトの手に力が加わる。痛いよ、と笑えば、彼は慌ててその手を離した。




