10.「言っておくが、物覚えは悪くないぞ」
一体全体どうしてそういう結論に至ったのか、私は寝入るまでジギスヴァルト・レーベンに見張られることとなった。勝手に泣かないように、ということらしい。意味が分からなくて解せぬ、としか思えない。
彼は文机の椅子を寝台のそばに寄せ、そこに座ると私を寝台に押し込めた。そうやって見張っているつもりらしく、さっさと寝ろ、と言われたのだが。
「………………」
眠れるわけがない。視線も気配も気になって仕方がない。こんなにジト、と見つめられたままでぐっすり寝入れるほど、私の神経は太くないのだ。
いくら涙目の原因は落ちてきた本が原因だと訴えても、聞き入れてくれる様子はない。そうなれば、少しでも早くこの状況から脱するために、眠れなくても寝たふりでもしてみようか。
私は寝具に身体を埋めて、ひたすら目を瞑る。ランプの灯は消され、代わりにジギスヴァルト・レーベンの魔法によって火の玉が浮かんでいた。ぼんやり自分の手元が見える程度の明かりで、環境としてはとても入眠しやすそうである。
それなのに、寝台のそばで圧倒的存在感を示す彼自身が、その全てを打ち消していた。
「……さっき」
すると、ともすれば聞き違いかと思ってしまうような小さな声で、ぽつりとジギスヴァルト・レーベンが呟く。
「乱暴にして、悪かった」
告げられた言葉に、思わず目を開いた。するとすぐに彼と目が合う。紫色をしているはずの目の色は、ぼんやりとした明かりの中ではよく分からない。白い髪は、すっかり部屋と同じ色に染まっていた。
目をみはったジギスヴァルト・レーベンは、まるでお化けでも見たように肩を揺らして、椅子がガタガタと音を立てている。よもや、すでに私が就寝していると思っていたのか。
「私こそ、ごめんなさい。無神経なことを言いました」
彼は驚いた様子のまま、一頻りあちらこちらへと視線を巡らせ、それからじっと私を見つめ、目を逸らす。部屋が暗いとは言っても、色合いはともかく表情などは雰囲気で分かった。
「違う。あれは、僕が悪い」
「そんなことは……」
「僕が、悪い。おまえじゃない」
否定しようとした私の言葉を遮って、ジギスヴァルト・レーベンは再度そう断言した。更にそれを否定してしまえば、また言い合いになってしまいそうで、私は口を噤む。
だからと言って、彼の主張を受け入れられるわけではない。彼の挙動の原因は、私の無神経な発言なのだ。
寝台に寝転んだまま、心の中でうーんうーん、と唸り始める。眠れる気がまるでしなかった。この状況をどうしようかと考え込んで、ふと世間話じみた会話の糸口を見出す。
「……名前」
「え?」
「私の名前、知ってる?」
ノイくんのことは何度か呼んでいたけれど、私を呼ぶときはいつも『おまえ』だった。
婚約者が次々と亡くなった『死神』という噂だけで結婚したらしいので、名前をそもそも憶えていない可能性がある。
「……クシェルだろう」
「知ってたんだ」
思わず感心したような声が出てしまった。すると、ジギスヴァルト・レーベンは怪訝そうに眉を寄せる。
「言っておくが、物覚えは悪くないぞ」
そいうことではないんだなあ、と思ったけれど言わないでおいた。
「呼ばれないから、どうなのかなって」
「どうも何も……おまえだって呼ばないだろう」
「そう? 呼んでいたと思うけど」
普段から、頭の中でも呼んでいる。けれどそう言えば、口に出すことはあまりなかったのかもしれない。
「前に、ジギスヴァルト・レーベンとは呼ばれたけど」
「そうよね? ……え、あなたの名前、ジギスヴァルト・レーベンよね?」
まさか私、自身の夫の名前を間違って覚えていたのか? だから今そう指摘されているのか? その可能性に気付き、途端に冷や汗が流れ始める。もしもそうだとしたら、あまりにも失礼すぎる。
「……おまえもレーベンだろう」
素っ気ない言葉から、その意図を読み取るのは少々困難だった。しばらく、暗い橙に染まる部屋をぼんやりと眺め、それからようやく、一つの可能性に思い至る。しかし、外していたらとんでもなく恥ずかしい気がする。
毛布に頭の先まで隠れてしまいたいような気持ちになりながら、恐る恐る問い掛ける。
「あの……ええと、ジギスヴァルト…様?」
すると、不正解だったのか、こちらへ目を向けた彼の表情はいかにも不機嫌そうなものだった。恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「敬称なんか付けるな。王宮にいた頃を思い出す。私利私欲のことしか考えない奴ほど、そうやって媚びへつらうんだ」
気分が悪い、と吐き捨てるように口にする。どうやら、その表情の理由は私が見当違いなことを言ったからではないらしい。
「ええと、じゃあ、その……ジギスヴァルト……と、呼んでも?」
「……好きにすればいい」
そう言う割に結構、呼び方を限定してきた気がするな? と思いつつも口には出さなかった。私にもそのくらいの分別はある。
ジギスヴァルト、ジギスヴァルト、ジギスヴァルト……。
ずっとジギスヴァルト・レーベンと呼んでいたいので、慣れるまではちょっと間違いそうだ。気を付けなければ。
「ジギスヴァルトは、以前は王宮仕えをしていたの?」
再び部屋に落ちる沈黙を厭い、呼び慣れるための練習も兼ねてそう問いかけてみる。彼に対し、森に籠りきりのイメージしかなかったので、いまいち想像できず、興味が湧いた。
「……まだ普通の人間だった頃に、当時の国王陛下にお仕えしていた」
そのとき、表情の変化を如実に感じた。橙色の夜の中、目の前だってぼんやりしているのに、彼の表情が和らいだと分かる。
「臣民を愛する、素晴らしい方だった。陛下のために魔法を研鑽し、そのお役に立てることが誇りだった」
ジギスヴァルトが自分のことを話してくれるのはこれが初めてだった。
思えば、私たちは結婚したというのに、正面から顔を突き合わせることもなく、話をすることもなかった。
「陛下が王子であった頃からお仕えして、その子息も、ご令孫も、みんな見送った。陛下のお血筋を見守るのが、長い命を得た僕の使命だと思っていた。――けれど、それももう、とうに終わった。百年ほど前に陛下の直系は絶え、今の王家はその傍系に当たる」
だんだんと空気が固くなる。彼は長い命を受け入れるための『理由』すら、失ってしまったのだ。悲しみと寂寥と、その先にあるのが虚しさであると簡単に想像がついた。
だって私も、そのやるせなさを知っている。
「僕にも昔はあった。使命も、展望も。仕えるべき主がいて、信頼できる仲間がいた。尊敬できる師も、気の置けない友もいた。……全部過去の話だ」
齢三百の魔法使い。一体どれだけの出会いがあっただろう。どれだけの喜びが、希望があったことだろう。けれどきっと、それ以上の別れが、悲しみが、絶望があったのだ。
時は残酷に流れる。彼だけを置き去りにして。
それはきっと、生きる喜びを見失ってしまうには十分すぎるもので。
「僕はもう疲れた。もううんざりだ。 おまえの言うことは分かる。生きることは素晴らしいと、それがただの人間であったなら、僕だってそう思う。だけど僕の死を惜しんでくれる人は、もうみんな先にいってしまった。だからもう、いいだろう」
ああ死にたいな、と彼は呟く。まるで息でもするかのような、平坦な声で。だからこそ、何よりもの切望が込められていると感じられる。
彼の安息はもう、死の先にしか見いだせないのだ。
「ごめんなさい……」
たまらず漏れたのは謝罪の言葉だった。
なんてひどいことを言ったのだろう。私からすれば永遠にも近い時間を生き、それに苦しんでいるこの人に、なんてことを言ってしまったのだろう。生きているだけで素晴らしい、なんて。
その生こそが、彼の苦しみだったのだ。
私だって、知っているのに。置いていかれることが、どんなに苦しいか。失うことが、どんなに悲しいか。一人生きることが、どんなに恐ろしいか。
お父様、お母様、と泣き叫んだあの日を、けして忘れられないくせに。
「ごめんなさい」
申し訳なさと、彼の孤独への想像と、あの絶望の日を思って、泣いてしまいそうだった。けれどけして泣いてはならない、と唇を噛み締める。ひく、と喉がなりそうなのを必死に堪えた。
傷つけたのは私なのだ。そのくせ、彼の悲しみを奪い取って、まるで被害者のように、あるいは恩着せがましく、泣くわけにはいかなかった。
「でも、でもね」
それでも伝えたいことがあって、私は熱くなる目頭を意識しないように、震える喉を抑えながら口を開く。余計なことで、迷惑でしかないのかもしれない。けれど、伝えなければならない、と思った。
「私は、ジギスヴァルトが死んだら、悲しいよ」
間違いない私の本心を、分かって欲しかった。出会って間もなく、目的のためだけに始まった歪な夫婦でも。同じ家でこうして共に暮らしていることに、意味はあるのだ。
手料理を食べて美味しいと言ってくれた顔を、絵本を読むときの落ち着いた声を、忘れることなんてできないから。
ジギスヴァルトはしばらく何も言わなかった。私の言葉を否定することも無視をすることもなく、椅子に座ったままこちらを見下ろした。
それから、私の顔にかかる髪を指先だけで払うように、するりと額をなぞる。彼は口を開こうとしてやめ、けれどまた小さく口を開いたのが分かった。
「そうか」
紡ぎ出されたのは短い、たったそれだけの言葉。それきりジギスヴァルトは口をつぐむ。私もそれ以上、何も口にしなかった。
室内はすっかり沈黙に包まれてしまっていたけれど、不思議と居心地が悪いと思うことはなかった。




