日常
やれやれだ。
僕は9時50分発のバスに滑り込んだ。
イッツ遅刻だ。
バスの振動に揺られ、少しだけ眠ろうと目をつぶる。
(まて)
誰の声でもない。
僕の心が警鐘を鳴らす。
待て待て!寝てる場合じゃないぞ!
昨夜は「狐憑き」という話で終わっていた。
だが。
狐憑きに意識を制されていた神坂雅の意識はどうなる?
意識というか記憶だ。
覚えていましたでは話にならない。
ああ。でもいいのか?一方的に襲われていたのは僕だけなんだし。
とにかく、今日は神坂雅に会わずに過ごそう。
それがお互いの為であろう。
学校が一緒だったとはいえ、意識して見たのは昨日が初めてだったし、
あおいに聞くまでは顔も知らない相手だった。
ファーストコンタクトも口臭ををかがれただけだし。
僕は手を口に当て息を出す。
通学時間も通勤時間も過ぎ、貸し切りと化したバスの中で僕はにやりと笑う。
よし。今日の息はミントの香りだぜ。
大丈夫だ。
僕はバスを降り、校門をくぐる。
もう遅刻は確定なのだから慌てる必要はない。
死して屍、拾うものなしだ。
悲しいいいいい。
屍くらいは拾ってほしいものだ。
校門をくぐり下駄箱を目指す僕。
今日は平和な一日でありますように。
とりあえず僕は今から教師に怒られるわけだが、それでもそれ以外は平和に過ごしたいものだ。
「先輩!おはようございます!!!」
背後から声をかけられた。
3年近く通いながら、先輩おはようございますなんて聞いたこともない台詞だった。
僕にとって先輩おはようございますなんて台詞、実は都市伝説なんじゃないかと思っていた程だ。
いやいや。勘違いするな。
僕に言った台詞じゃないだろう。
むしろ今の時間帯はこんにちはに近い。
幻聴、幻聴。
気にしないのだ。
「あー!ツンですかあ。あんまり後輩に恥をかかせないでください・・・・・・よっと!」
抱きつかれた。
そう。
僕の後ろ姿は同級生、サッカー部の三隅に少しだけ似ていると2人に言われた事がある。
三隅はいつも女子を引き連れて歩くいけすかないヤツだ。
でもあえて言おう。
三隅。ありがとうと。
勘違いであろうが、背中に双丘を感じられた事は光栄に思う。
しかも、僕からは何もしていない。
声を大にして言おう。
いや。言ってはいけない。
でも。
ごちそうさま。
「雲母先輩!無視しないでくださいよぉ」
「はぁ?」
雲母と呼ばれ慌てて振り向く。
そこには神坂雅の姿があった。
「あ!あああああああ。おおおおおははっようう」
「なんですか?先輩。噛みすぎですよ。」
ふふっと口を押さえて笑う雅の腕には他者を拒否するように巻かれていた包帯の姿はすで無かった。
「ええー。先輩あんまりじろじろ見ないでくださいようぅ」
「ああ。ごめん」
神坂雅は顔を赤らめ恥ずかしそうに腕に刻まれた古傷をさする。
雅は背筋を正し息をすぅっと吸い込みぺこりと頭を下げた。
「雲母先輩!昨日は私を家に送り届けてくださりありがとうございまぁす!」
僕は雅の肩の動きに会わせるように流れる髪に見とれてしまう。
「お。おおおう。気をつけろよ」
噛みまくってしまったが、神坂雅の記憶は曖昧のようだ。
昨夜の異世界バトルの記憶は残っていないようだし、何よりだと思う。
「それと!ワンピースありがとうございました!!大切にします!」
「お。おおおおううう?うおおおおお?うん????」
大丈夫か?僕は今から死ぬんじゃないか?
ワンピース脱がしたのがばれているのか?
そうだ。僕の罪があった。
神坂雅を着替えさせたじゃないか。
見てはいないけど。
そうか!背中の双丘を感じた温もりは最後の晩餐だったんだ!
昼だけど晩餐だったのか?
僕は慌てて話をはぐらかす。
「神坂!お前、そう格好だと、今から登校かよ。」
そう。神坂雅は、通学用の鞄を、まだ手に持っていたのだ。
「え?ああ。ええ?そう。寝坊しちゃって」
「そうかあ。じゃあ。僕と同じだな」
寝坊?学校から家の距離なんて無いに等しいのに?
相良崎高校の登校時間。神坂商店のおばちゃんは、いつも箒を片手に、おはようと
生徒を見送っているのに。
「まあ。いいや。急ごう」
僕は校舎に向けて走り出す。
神坂雅も一緒に駈けだした。
そして僕の耳に色を帯びた風が届く。
「先輩。またキスしてくださいね」
僕を追い越した神坂雅の通学用鞄には銀色に光る狐のチャームが光っていた。