荒れ果てた都【Ⅱ】
翌日の昼過ぎ、ハーバートは昨日と同じく、ランベスの市場を歩いていた。そしてこれも昨日と同じく、ものになりそうな人間を探してブラリブラリと歩きながら、周囲に気を配っていた。しかしどうにも、その日は何の収獲も得られないまま、家路につくことになりそうであった。
ランベスの住人の懐などは、元々雀の涙ほどしかない。そんな人間たちからせしめた金で今までやってきたこと自体、奇跡に近いのだ。イーストエンドの基準からみて、まともと呼べる店を持っている人間でさえ、その日暮らしの生活というのに何ら変わりなかった。
自宅を出て三十分ほど歩いてきたハーバートは、市場での捜索を諦め、ブロード街に向かうことにした。道幅は広く、通行人はそう多くないが、もしかしたらいいカモがいるかもしれない。そう考え、ハーバートは入り組んでいる小路に入り、ブロード街までの近道を行くことにした。道の端では、浮浪者とも行商人ともつかない男たちがパイプをくゆらせ、呂律の回らない舌で話し込んでいた。
「おうい!ハーバートじゃないか!」
途中、小道に出入口が面している居酒屋の前を通り過ぎたとき、背後からすっとんきょうな声が名を呼んだので、ハーバートはポケットに両手を入れた格好のまま振り向いた。黄土色の髪をして、頬にそばかすのある青年が、ブンブンと手を振り回してハーバートに笑顔を向けている。
「ディック!おまえか!」
相手が顔見知りの、仲の良い人物だったので、ハーバートは表情をパッと明るいものにした。
ディックに誘われ、二人は揃って居酒屋に入ると、誰もいない奥のテーブルで話すことにした。日の光もない店内は暗かったが、卓上に置かれたランプがなんとか明るさを補ってくれている。
「よう、元気か?ここ最近会ってなかったからな」
ハーバートの向かい側にドッカと腰をおろし、ディックは訊いた。髪と同じ黄土色の瞳が、灯りに照らされて微かにきらめいた。
「元気...ああ、元気だよ。いろいろあるけど」
「そりゃあぜひとも聞かせてほしいね―――なあ、ソーセージを一皿と、ビールを二杯くれ」
注文を聞きにきた給仕を見上げ、ディックが愛想の良い声で答えたので、ハーバートはぎょっとした。
「二杯?待ってくれよ。俺はそんなつもりで入ったんじゃ...」
「いいって、気にするな。勘定は俺が払う。なあに、1ポンドあればビールの二杯くらい軽いってもんさ」
困惑気味のハーバートに、ディックはケラケラと笑いながら言った。こんなにも気前がいいからには、彼にとって幸福な収入を得ることができたに違いない。ディックはハーバートと同様に、盗人の部類で生計をたてている男なので、そんな彼からおごってもらうというのはいささか気が引けたが、ディックのあまりにも満面な笑みを見て、その好意に甘えることにした。
「悪いな。次は返すよ」
「そんな堅苦しいこと言うなよ。俺が勝手におごったんだから」
そう言って、ディックはまた笑い声をあげた。
ハーバートにとって、底抜けに明るく、常に前向きな彼の存在はありがたいものだった。貧困であることに変わりはないが気はいいし、一緒にいるときだけは心からお喋りを楽しむことができる。この街に、友人と呼べる人間が他にいないハーバートには、心の支えでもあった。
まもなくして注文のビール瓶が二本と、ソーセージが三本、皿に乗って現れた。二人は乾杯すると、まずは冷えたビールを流し込む。
「どうだい、景気は。バリーのくそ野郎は愛からわずか」
袖口で口を拭った後、ディックがやや神妙な顔つきで訊いた。ディックはこの街で唯一、ハーバートがバリーの元に通っていることを知っている人物だった。ハーバートは以前からこの親友に、バリーをはじめとする身の回りで起きた出来事の愚痴をこぼしているので、ディックは自分のことをよく知っているのである。
ハーバートは念のため、店内をぐるりと見回してから話し出した。
「あいつはくそ以下だ。俺が必死に集めた金も、しょせんあいつの懐行きさ。どうせ酒と女にしか使わねえくせに、ほとんど持ってっちまう。人間以下の生活をしてる奴にだ」
「持っていかなかったら?」
「そんなのできない。エミリーのための薬がもらえなくなる」
頬杖をついていたハーバートは、思いきりビール瓶を煽った。
「なあ、聞けよ。今日はおまえに会えて本当に良かったと思ってる」
ディックがハーバートの腕に手を添え、テーブルに身を乗り出してくる。その表情が薄暗さの中でもはっきりわかるくらい、生き生きとしているので、ハーバートは怪訝な顔つきをした。
ディックはそれまでの、はきはきとしたよく通る声をだいぶ潜めて、
「俺たちは今まで、散々下卑た場所であがいてきた。だがそんな生活も、じきに終わりがくる」
「...つまり?」
「いいか?あのバリーから、頂戴するんだ。有り金全部!」
ハーバートは目をぱちくりさせた。
口を半開きにしたまま、唖然と目の前の友人を凝視する。そのとんでもない思いつきを耳にした途端、周りでぺちゃくちゃ喋る人の声も、食器が触れ合う音も、床を踏み鳴らして歩く音も、全てがどこか遠くから聞こえてくるように思えた。
―――こいつは、自分の言っていることが理解できているのだろうか。
彼の表情はそう言いたげだ。
「...なんだって?」
口の中がカラカラになってきたとき、ハーバートはようやくそれだけ言った。
混乱している彼に構わず、ディックはソーセージにかぶりつく。ディックがそのソーセージを飲みこみ終わるまで、ハーバートは待った。
「よく聞けよ?この街には、おまえと同じようにバリーに弱みを握られて、嫌々奴のために稼いでる人間が十人はいる。そしてどいつも、バリーの野郎をぶっ殺したいと思うほど恨んでる。俺は奴と取引をしてるわけじゃねえが...そうだな。あいつがいなくなりゃあそれはそれで万々歳だね」
ディックは尚も声を潜め、ニヤッとした。
ハーバートは意味もなく、一回だけゆっくりと顎を引いて頷く。自分以外の人間とバリーが、金銭で繋がっていることは薄々わかっていたが、せいぜい二、三人だと思っていた。そして彼は、ディックがそこまで話してきた時点で、何を伝えたいのか大ざっぱには理解できた。
「じゃあ、つまり...バリーをこ、殺すっていうのか?その、十人かそこいらの人間で」
殺す、と口にする前にハーバートは素早く周囲を見たが、近場にいる客はいなかった。
「殺すのはほんの前菜みたいなもんだ。メインディッシュはそのあと、奴が所持している金を平等に分けるのさ」
「奴がそれだけの金を?」
「実際に目にした奴がいるんだよ。硬貨がジャラジャラ入った布袋を。そいつがバリーたちの元に金を届けに行ったとき、偶然居合わせたらしいんだ。かなりの量が入ったその袋を、床板の下に隠してたんだとさ」
ディックはどうしようもなく楽しいといった様子で、残ったソーセージの欠片を口に放り込んだ。
貴重な話を聞いたハーバートは、ドッと背後の背もたれに倒れ込む。思いもよらぬ情報だったし、自分の知らないところでそんな野望が持ち上がっていたなんて、と彼は大きく息を吐いた。そして今の話を聞いた限りでは、顔も知らない十人はそれを実行に移す気だろう。ハーバートは瓶に残ったビールを飲むのも忘れ、訴えるような目でディックを見た。
「待ってくれ。それは、もう決まったことなのか?本気で、バリーを殺しちまうのか?」
「いつ決行するとは聞いてねえが、奴らいずれはやるぜ。自由の身になれてまとまった金も手に入るとなりゃあ、あとはどうでもいいのさ」
「...おまえは、どうするんだ?」
つばを呑みこみ、ハーバートはかすれた声をあげた。ディックはビールを全て飲み干してから、思案するようにランプの灯りに視線を向けていたが、やがて肩をすくめていたずらっ子のようにペロッと舌を出す。
「そうだなあ。正直悪くないとは思ってる。参加すりゃあ、もしかしたら金が手に入るかもしれねえだろう?」
ハーバートがショックを受けたような表情になったので、ディックはヘラヘラした笑みを引っ込めた。
「ハーバート。もちろんおまえに誰かを殺すなんてことは強要しないさ。だが他の奴らは、もう覚悟を決めてる。それほどの屈辱をバリーに与えられてきたからだ。全員今まで、あいつに従順な振りをしてきたけど、いい加減限界なんだと思う。奴の束縛から解放されるんだったらなんでもするぜ?おまえだって、金が入ればエミリーをちゃんとした病院で診せることができる。彼女にとってもおまえにとっても、それが幸せなんじゃないのか?」
ディックは少しも目を逸らすことなく、真っ直ぐにハーバートの顔を見て話した。ハーバートはどう答えていいのかわからず、両手で顔を覆って、頭の中を整理しようとした。
「そりゃそうだけど...おい、よく考えろ。下手すれば絞首刑だ。ただでさえ、俺はそれだけのことをやってきた。エミリーにはどう説明すればいい?人を殺したなんて知られたら...俺は終わりだ」
ハーバーとはとてもできないとでも言うように呻き、火の灯りに照らされているディックを見返した。
「...そうか。うん、わかったよ」
ディックは細かく首を左右に振ると、仕方ないさと呟いて少し後ろに下がる。
「でもハーバート、これだけは言っておくぞ。おまえ、自分の一生をこの廃れた街で終えるつもりか?良いように利用されて、見下されて、奴らの懐になるだけの人生で満足できないだろう。俺はこの街で終わるくらいだったら、危険を冒してでも街から出ていくことを望むね」
緊張感のなかった笑みをすっかり消しながら、ディックは強く言い放った。
ハーバートは躊躇するような表情で、しばし押し黙った。彼はディックほどの大胆さと決断力を持ち合わせていなかったし、逆に自分たちが殺されてしまうかもしれないのだ。ハーバートはぶるりと身を震わせ、一層強く下唇を噛んだ。
「ディック、少し時間をくれないか。今はまだ決められないけど...俺の中で決断を出したいんだ」
「...ああ、そうだな。おまえ一人で考えた方がいい。でもあまり、時間はないかもしれない」
ハーバートはいつの間にか、自分の手の平がじっとりと汗で湿っていることに気がついた。その手を握りしめ、彼は瓶に残っていたビールを一気に飲み干す。ユラユラと揺らめく灯りを数秒目にした後、ディックが言った。
「よく考えてみろよ。自分の目的を果たすためには、相応の犠牲が不可欠ってもんさ」
――――――
ディックと別れたハーバートは、もやもやした気持ちのまま通りを歩いていた。ブロード街に行く気などすっかり失ってしまった彼は、大勢の人で賑わうランベスの市場へと戻ってきていた。いつもなら耳障りだと感じる周囲の騒音や雑音も、何一つ頭に入ってこない。まるで周りを行き交う人の群れが全く見えていないかのように、ハーバートは無気力さながら肩を落として歩いていた。
バリーが死ぬことを考えると気が滅入った。むろん、バリーが死んだからといって滅入るわけではなく(むしろ大歓迎だ)、エミリーのことを考えたからである。バリーが死ねば、あの薬は二度と手に入らないかもしれないと思うと、ハーバートは嫌でもため息をつかずにはいられなかった。
バリーを殺すことに協力すれば、それなりの金を持つことができるものの、それこそ立派な犯罪である。もし警察に捕まったら、縛り首にならない保障はない。問題はそれだけではなく、エミリーに自分がこれまで犯してきた窃盗の数々も、本当はその金を持って帰ってきていたことも、全てが公になってしまうのだ。それが現実になったらと思うと、とても言葉では言い表せないほどのショックだ。誰も頼りにできる人間など存在しないハーバートは、いっそのこと死んでしまいたいくらいだった。
そのとき、しっかり前を見ていなかったこともあり、前からせかせかと歩いてきた婦人とハーバートの肩がまともにぶつかった。
「っと。悪い」
そこでようやく我に返ったハーバートは謝ったが、一方の婦人はツンとすまして何事もなかったかのように行ってしまった。何とか言えよ、と心の中でひとりごち、おもわずその場に立ち止まったハーバートの肩に、今度は後ろから歩いてきた別の男が、ぶつかるとまではいかないが、一瞬擦れあった。
「失礼」
ぶつかりかけたその男は、手短にそれだけ言うと、立ち往生しているハーバートを追い越していく。ふとその男を目にして、ハーバートは目を丸くさせた。
―――なんだ、あれは。
その紳士はあまりにも、自分たちが今いる貧民街を歩くには、ふさわしくない出で立ちをしているのだった。羊の群れに紛れ込んだ狼と言っていいほど、男は違和感の塊だったのである。
紺色のフロックコートはまさに上等の仕立てで――それは全身の衣服に言えることなのだが――灰色をした細身のズボンをはいていた。キャラメル色の革靴は磨きあげられ、汚れ一つ付着していない。黒く艶やかなステッキとトップハットが、一層紳士の存在を際立たせている。
とにかく、頭の先からつま先までの何もかもが、ハーバートを唖然とさせる理由であった。未だかつて、彼はあんなにも立派で、高貴な格好の人間を目にしたことはなかった。しかし、それはハーバートに限ったことではない。その紳士とすれ違った、または視界に移した人間のほとんどが、己の目をまん丸にして彼を凝視している。
来るべき場所を間違えているのでは、と問いかけたくなるほどの服装だが、当の紳士は衆院の視線などはまるで見えていないかのように、スタスタと人混みの中を歩いていった。
遠ざかっていく紳士に、しばらく馬鹿みたいに口を開けたまま見入っていたハーバートは、無意識のうちに彼の足取りを追って着いていった。あれほど、この街に溶け込めていない格好の男だ。窃盗人の血が騒がないわけがない。ただでさえ、今日は1ペンスも手に入れていないのだから、ますますあの男を見逃すわけにはいかなかった。
ハーバートは、数十歩ほど前を行く紳士に歩調を合わせた。いつもはうっとうしいと思っている人の波も、尾行をするうえでは至って幸いだ。不規則な動きをする通行人の向こうに見える、紺色の背中を見失わないよう、ハーバートは首を伸ばして追った。
市場の品々に気を取られてくれるのが、盗人としては仕事をやりやすいことこのうえなかったが、それは叶わないようであった。紳士は、有り余るほど並んでいる食料品や雑貨にチラリとも目を向けることなく、ただ前だけを見て歩き続けている。どうやら、買い物目当てに歩いているわけではないらしい。ハーバートは少しがっかりしたが、それでも彼から目を離すことなく、それなりの距離を保って、いかにも通行人の一人となって追いかけた。
やがて男は市場通りを横切り、閑静な居住地へと進んでいった。男が先に進めば進むほど、ハーバートは不審を抱き、興味を惹かれていった。じめじめとした悲惨な貧民街に、あの紳士はいったいどういうつもりで足を踏み込んだのか、さっぱりわからなかった。まともな取立人だった、世間から忘れ去られているこの地区にまで足を伸ばさないはずだ。
むせ返るようなタバコの匂いが立ち込める路地裏へ来たとき、ハーバートの不審感はいよいよ頂点に達した。この先は、バリーたちが巣窟としているアッパー・フォア街である。ハーバートは自分に馴染み深い通りに出ることを知り、ますます好奇心をくすぐられた。
その一方で、あの紳士はとても賢いとは言えない男だと感じた。あからさまな宝石類を身につけているわけではないが、この付近の人間が羨むような暮らしをしている男だと一目でわかる。そんな彼がたった一人で、犯罪や非行の温床とも言える街をうろつくのは、感心できたものではない。
ある程度の幅の広さがある通りを歩いていたとき、それまで一切周囲に目もくれずに歩いていた紳士が急に立ち止まった。つられて足を止めたハーバートは、これはいかんと素早く狭い小路に身を滑らせて隠れた。
ススで黒く変色したレンガにぴたりと背中をつけ、そこにいることがばれないよう息を殺した。人っ子一人いない道端で目撃されれば、怪しまれるのは当然である。緊張のあまり、ドクドクと大きくなる鼓動を落ち着かせようと、ハーバートは止めていた呼吸を静かに吐いた。内心、尾行していることがばれたのではないかという不安と焦燥でいっぱいだった。
しかし耳を澄ませていると、しばらくしたのち、あの紳士の足音が聞こえ出し、それが遠ざかっていくのがわかった。再び歩き出したようだ。男の死角で、じっと体を強張らせていたハーバートが肩の力を抜き、様子を伺おうと少しだけ顔を覗かせたときだった。
「おい。止まれ」
何の前触れもなく、聞いたことのない野太い声が飛んできて、ハーバートは反射的に固まる。だがその声は、自分にかけられたものではなかった。
通りを歩いていた紳士の前に、三人の男が立ち塞がっていた。