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セント・ポールは夢の中  作者: よもぎ
碧眼の訪問者【Ⅰ】
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荒れ果てた都【Ⅰ】

 ロンドンのイーストエンドほど、人がいて不衛生で、生きにくい街はない。生まれてこの方、一度たりともこの地区から出たことのないハーバートでも、それくらいはわかる。なんだってこんな街に生まれてしまったのだろうと、人生の中で何百、何千と感じてきた悩みを浮かばせながら、ひょろりとした痩せ型の男は、ごみごみしたランベスの大通りを歩いていた。


 今日も今日とて、真上にはどんよりとした、見るからに重たげな曇天が被さっている。せめてあの雲が退いて光の筋が一、二本でも射してくれれば、この死んだような街も少しはましに見えてくれるかもしれないが...。薄茶色のキャスケットから覗く赤毛も、この曇り空の下で冴えない色に染まっていた。


 鼻から空気を吸い込めば、スモッグと石炭の匂いが体中に染み渡った。嫌な匂いだとは思わない。もうこの埃くさい街で暮らしてから、25年以上も経つのだから、むしろこの匂いこそが、ハーバートにとって生きるための酸素だったのだ。産業革命以降、ただでさえ狭苦しい土地だというのに、よそから工業労働者が移り住んできたおかげでますます窮屈な地になってしまった。


―――――何が産業革命だ。こっちは革命どころか、街の様子が前よりも退化しちまったみたいだ。


 頭の中で毒づきながら、ハーバートは多くの屋台が並ぶ市場へと入っていった。おせじにもみずみずしいとは言えない色の野菜や果物。無防備に並べられただけのパンやチーズ類を前に、婦人たちが口々に何かを話し、品定めしている。ハーバートも、そんな彼女たちの後ろから顔を覗かせるようにして売り物を眺め――――と思ったら、十秒としないうちにその場を離れていった。


 左手に握っていた何かを、隠すように上着の懐へ...。


 分厚い札入れであった。


 それをしまうと同時に、次は道端で夢中に話し込んでいる紳士のポケットから、ハンカチをかすめ取ってしまった。その紳士はハーバートのほうを見もしない。自分がスリをされたことなどつゆ知らず、相手と小難しい政治の話を続けている。


 そんな調子で溢れんばかりの人混みに紛れて移動するうちに、いつしか彼の懐はずっしりと表すにふさわしい重さになっていた。上着の裾を少し持ち上げてみてその増量差に満足したのか、ハーバートは一仕事終えたというふうに市場を抜け、路地裏へと足を進めた。


 薄暗く、日の当たらない路地に比べれば、大通りなどきれいなものである。小道は泥と汚物にまみれ、歩くたびにグチャ、グチャと不快な音をたてた。空気中にはススやタバコの煙が蔓延していて、ハーバートは首に巻いているスカーフで鼻を覆いながら歩いた。うんざりさせられるのは、足元をチョロチョロ動き回るねずみだけではない。ひっきりなしに四方から聞こえてくる罵り合いや怒鳴り声、それに子供が泣き叫ぶ声。汚い言葉を吐き捨て、喧嘩をする者たちがいきなり目の前に転がり出てくることも日常茶飯事なので、間違っても愚かな取っ組み合いに巻き込まれないよう、用心しなければならなかった。路地の隅にある低い階段に腰かけて、互いに話す女たちの目には生気がなく、腕に抱いている小さな赤ん坊はハーバートからしてみれば、いっそ死んでいるのかと思われるほどぐったりとしている。とにかく気持ちのいいものではない。


 ハーバートは小走りで、それでも浮浪者や酔っ払いと正面衝突しないよう、極めて慎重に路地を進んだ。そうしてテムズ川河岸に程近い、アッパー・フォア街に出ると、ポケットに両手を突っ込んだまま、大股に奥へと向かっていった。荷馬車がやっと一台通れるくらいの、狭い石畳に面した通りには、レンガ造り似たような住居や規模の小さい工場が立ち並んでいる。どの民家もレンガが剥がれ落ち、窓ガラスは汚れ放題だが、屋内には大勢の家族が暮らしているのだ。しかしとてもそうは思えないほど、表に出ている人間は一人もおらず、通りはシンと静まり返っていた。


 ハーバートはおもむろに一軒の住居に近づくと、周囲を少し見回してから扉を三度ノックした。


 「誰だ」


 すぐさましわがれた声が返ってくる。


 「俺だ。ハーバートだ」


 扉に顔を寄せてハーバートが言うと、入れと声が答えた。扉を引いて開ければ、駆逐しかけたドアはミシミシと音をたてる。大人一人分が通れるほどに開くと、ハーバートは身をよじるようにして中へと入り、すぐさま扉を閉めた。


 室内の薄暗さと陰気さは、屋外とそう大差ない。出入口から入ってあるのは、小さくもないがこれといって大きいわけでもない、殺風景なホールだった。置いてある家具といえば、ささくれだった木のテーブルと、これまたささくれだった木の椅子のみである。


 そして丸いテーブルを囲んで、五人の男たちが椅子に腰かけていた。片手には酒瓶、片手にはトランプ...ポーカーの途中らしかった。


 「よう、ハーバート!可愛い息子!帰ったか!」


 一番奥の席、ハーバートの真正面に座っていた男が、高らかに言って両腕を広げた。大柄で、がっしりとした体格の男だ。年齢は五十前後に見える。人相は、誰が見ても良いものとは言えない。落ちくぼんだ灰色の目と、同じ色をした髪の毛は伸び放題で、後ろで無造作に縛ってあった。手入れのされていないひげはモジャモジャにからまっていて、男が口をあけて笑うと、ひげの間から黄色い歯がむき出しになった。


 まさにむさ苦しいを絵に描いたような人物だが、それはこの男だけに限らず、共にポーカーに興じている他の四人も同様であった。いずれも熊のような体格をしていたが、中でもとりわけ巨体なのが、先ほどハーバートに声をかけた男である。息子と呼ばれたことにハーバートは密かに顔をしかめ、テーブルへと歩み寄った。


 「一儲けしてきたか」


 手持ちのカードから目を離すことなく、別の男がぶっきらぼうに訊いた。ハーバートは無言で懐に手を入れ、札入れを三つと、ハンカチを四枚引っ張り出すと、トランプが広がる卓上に放り投げる。途端に男たちの表情が様変わりした。カードや酒瓶を床に捨て、我先にと札入れを引ったくり、ハンカチを取り上げてしまった。ハーバートが冷めた目で見守る中、五人は盗品をじっくりと調べていく。


 「なんだ、これっぽっちか。情けねえ」


 札入れの中身を全て引っくり返し、金額を数えていた男が不満げに鼻を鳴らした。


 「たったの3シリングだ。酒の足しにもなりゃしねえ」


 男は苛立ちながらぶつぶつと呟き、空になった札入れをハーバートに投げてよこした。床上に転がった札入れを拾い上げたハーバートもまた、不満を露わにしたため息をつく。


 「そっちはどうだ。バリー」


 「4ポンドだ。そこそこだな」


 中央に座っていた男が答えた。念入りにハンカチの質を調べていた男が、じろりとハーバートに視線をやった。


 「まさかまだ懐に忍ばせてて、独り占めしようだなんて馬鹿なことは考えていないよな?」


 「そんなことしない!これで全部だ」


 怪しむような目に、ハーバートはつい声を荒げ、上着をめくって証明してみせた。本当は札入れを一つだけでも、この五人に知られずに持って帰りたくて仕方なかったが、バレればたちまち殴る蹴るの嵐だ。痛い目を見るなど御免だった。


 先ほどバリーと呼ばれた男は、太い指で小銭を数えるとハーバートを手招きした。


 「ご苦労だな。そら、おまえの取り分だ」


 チャリンと軽やかな音と共に手のひらに乗った小銭を見て、ハーバートは肩をすくめる。


 「冗談だろ?たったの12ペンスなんて...そんな...」


 眉をひそめてバリーに抗議しようとしたが、その声はだんだん気弱なものになった。残りの四人が一斉に、文句を言いかけたハーバートをすさまじい形相で睨んだからである。


 まさに蛇に睨まれた蛙――――ハーバートは身の危険を察知して、すぐさま開きかけた口を閉じた。奥歯を食いしばって恐ろしい視線に耐えていると、バリーが助け船を出した。


 「ああ、ハーバート。おまえの気持ちはよくわかる。だが俺たちだって、おまえと同じくらい辛いんだ。こんな豚小屋同然の場所で、こんな連中と暮らして、やることといえばポーカーと酒を飲むことしかねえ。こんな年になってまともな職につけねえことがどんなに苦しいか、おまえさんにわかるか?年寄りを労わってくれや」


 気味が悪いほどの猫なで声だ。


 彼なりの笑顔を向けられても、ハーバートはこの男の言葉を真正面から受け取ることはしなかった。やることなすことが汚く、下劣な人間であることはよくわかっている。むろん、ここではボスの座についているバリーだけではなく、この空間にいる全員が、とても紳士とは呼べないほど腐りきっていることもだ。会話をするだけ無駄、という常識で自分を納得させ、ハーバートは手にしていた小銭を上着のポケットに押し込んだ。


 「わかったよ。でも薬はいつも通りくれ。妹の命に関わることなんだ」


 「忘れちゃいないさ。おい」


 バリーが左側の男に呼びかけ、ハーバートを顎でしゃくった。それに頷き、男は上着のポケットをしばらく探り、白っぽい粉末がひとつまみ入った、小さな袋をつまみ上げた。くしゃくしゃになっているそれを受け取り、お金が入ったポケットとは反対側に入れると、ハーバートはキャスケットを被りなおす。


 「それじゃあ」


 「もう行くのか?たまには遊んでいったらどうだ」


 グビッと酒瓶を煽りながらバリーが言ったが、ハーバートにはその誘いに乗る理由など欠片もなかった。極力彼らと関わりを持たないよう心掛けていたし、かび臭い場所に長居をする気にはどうしたってなれなかった。返事をするのも馬鹿らしいが、ハーバートは微かに首を振って断ると、出入口へと向かう。


 「かわいい妹によろしくな」


 彼の姿が扉の向こうに消える前に、バリーがもう一度声をかける。仲間たちが、それに対して忍び笑いをたてた。嘲るような笑い声を聞いていたくなくて、ハーバートはやや乱暴に扉を閉めると、眉を吊り上げたままさっさと通りを歩き始めた。肩を揺らして歩くと、ポケットの中の小銭が控えめな音をたてる。


――――畜生、馬鹿にしやがって!


 一人になると、途端に苛立ちが膨れ上がってきて、彼は舌打ちをせずにはいられなかった。今頃、あの五人は自分のことを愚かだの哀れだのと散々口にしているに違いない。酒を煽ることしかしていない彼らを憎む一方で、そんな彼らに腰を折って従うだけの自分に腹が立つのも、また事実だった。


 怒りが収まらないまま歩くハーバートは、ひっそりとした通りの途中で右折して、ぎくりと足を止めた。


 一軒の戸口の階段に、幼い少女が座り込んでいた。誰と話すわけでもなければ、何かを見ているわけでもない。背後の扉に背を預け、虚ろな表情でただ腰かけている。ぼろきれのような、黒っぽいワンピースを着ていて、裸足だった。その格好のまま死んでしまっているのかと思われたが、少女は突然目の前に現れたハーバートのほうへ顔をあげた。頬は痩せこけ、大きな目は光を失っている。露出された手足はこの上なく細く、頼りなかった。


 そうして何も言えずに突っ立っているハーバートに向かって、震える細い腕を差し出し、物乞いをしたのだ。ついでに何かを言おうとしたが声が出ないのか、開きかけた唇から言葉が発せられることはなかった。その惨めな姿に、ハーバートは少なからず恐怖したが、すぐに気を取り直すと首を横に振った。


 「悪いけど、何も持ってないんだ」


 ハーバートは咄嗟に、ポケットの小銭が音をたてないよう強く握りしめる。


 たったの12ペンスしかない。自分の生活がかかっているのだ。自分だけではない。家では妹が待っている。


そう言い聞かせて自分を正当化すると、ハーバートは少女を追い越して足早にそこを立ち去ろうとした。だが、十歩ほど歩いたところで不意に立ち止まり、首だけを動かしてチラリと少女を見た。彼女は変わらず、戸にもたれかかって何もない空中を眺めている。あの状態では、例え食べ物を与えたところで助かるとは言い切れない。


 ハーバートは胸を締めつけられる思いでしばらく立っていたが、ポケットの中で拳にしていた手をようやく引き抜いた。そして、どうしても持って帰りたかった12ペンスから二枚だけ硬貨を掴むと、肩で大きく息をついて少女に近づいた。離れていったはずの男が再び目の前に来たので、少女は長い前髪の下から覗く目を問いかけるようなものにして彼を見上げる。今度は彼女が手を出すよりも早く、ハーバートはそっと片手を持ち上げると、その手に硬貨を握らせてやった。


 「これしかないけど...」


 たったの2ペンスで買えるのは、せいぜい市場に売っている3口程度のパンくらいだ。その前に、今にも折れてしまいそうなほどにまで弱りきった少女の足は、もうすでにここから動くだけの力もないかもしれない。


 手渡した2ペンスでさえ、何の効果もないように思われた。しかし、全くその通りであるとは断言できなかった。手の中の2ペンスをまじまじと見つめていた少女は、ハーバートを見上げるや否や、いかにも子供らしい、無邪気な笑顔で笑いかけたのだった。



 あれから数分後、ハーバートは市場から西に十二、三分ほど歩いた場所にある自宅に戻ってきた。アッパー・フォア街よりいくらか雰囲気はましだが、暗く荒れ果てていることには変わりない通りだった。みすぼらしい外階段を上って、すぐのところにある扉を、できる限り音をたてずに開ける。


 異様なまでに静かな住宅街に長いこと住んでいると、微かな物音にも敏感になる住民が多いからという理由で、昼夜問わず、なるべく余計な音をさせずに生活することが身に備わっていた。そしてもう一つは、妹のエミリーが寝ているかもしれないという理由であった。


 「ただいま」


 おそらく自分にしか聞こえない音量で、ハーバートは呟いた。キャスケットを取り、狭くて寒々しい廊下をゆっくりと歩いた。大人がなんとかすれ違えるほどの広さしかない通路をいくと、右手に一つの小部屋がある。扉が開いたままになっているので、ハーバートはひょいと中を覗き込んだ。古い布や毛布でこしらえただけの粗末なベッドは空っぽで、肝心の部屋の主の姿はなかった。


 「エミリー?」


 こぢんまりとした部屋から視線を外し、ハーバートは一番奥に位置するリビングへ行ってみた。


 テーブルと二人分の椅子、その向こうでは、暖炉の火が赤々と燃えている。部屋の天井は黒ずんでいたが、蜘蛛の巣がかかっているということはなく、床板は掃除が行き届いていた。窓ガラスも、最低限の汚れは拭き取ってあった。


 小さな流し台と向き合っている背中を見つけ、ハーバートはもう一度声をかけた。


 「エミリー」


 台にこびりついた汚れを掃除していたのか、背中を丸めてひたすら手を動かしていた女性は、はじかれたように振り返った。


 「お兄さん!おかえりなさい」


 女性はホッとしたようにハーバートを迎えた。


 妹のエミリーは、今年二十歳になったばかりだ。兄と同じ、燃えるような赤毛を丁寧に結い、瞳の色は金色がかった茶色をしていた。顔は細く、顎も街中を歩く婦人たちより尖っていたが、その頬はバラ色に染まっている。身につけている衣服が、くたびれてよれよれになった長上衣と黄ばみがかったエプロンでなければ、哀れな貧民街に住んでいる娘とはとても思えない、小ぎれいな女性だった。


 てっきりベッドに入っていたとばかり思っていた妹が立ち歩いて、その上掃除までしていたので、ハーバートはおもわず表情を渋くさせた。


 「起きていて大丈夫なのか?安静にしていたほうが...」


 「平気よ。今日はだいぶ調子がいいの。それに、ずっと寝ているのも、逆に体に悪いと思ったから」


 気遣うハーバートに笑いかけ、エミリーは額に浮かんだ汗を拭った。


 「そう。でも無理したらいけないよ。家のことは、俺ができるときにやっておく」


 エミリーの小さな肩に手を置いて、ハーバートは穏やかな声で釘を刺した。


 生まれつき心臓が弱く、栄養も十分にとれていないエミリーを、ハーバートは幼い頃から今まで、気にかけないことはなかった。


 たった一人の家族だ。両親の顔も名前も、二人には全く記憶として残っていなかったハーバートがまだ十前後のとき、それとなく肉親のことをバリーに尋ねてみたことはある。バリーはそのたびに、両親は自分たちを捨ててどこか遠くに旅立ったと繰り返した。それが真実であるかは定かではないが、ハーバートはその言葉をまるっきり信じていないわけではなかった。


 エミリーには未だにそのことを伝えていない。彼女だけには、バリーという男の存在を知られたくなかった。


 「また薬をもらってきたから、何かあったら飲んでくれ」


 手に入れてきた、粉末が入った袋を取り出し、エミリーに渡す。心臓の悪いエミリーの症状を、少しでも楽にするための貴重な薬だ。まともな医者に診せるお金もない彼らにとっては、なくてはならない“医療”だった。バリー本人からしか、この薬を手に入れることはできなかった。


 「ありがとう。助かるわ」


 この粉末を飲みさえすれば、息苦しさや心臓の痛みがたちまち治ってしまうのだ。


 「それとこれ。少ないんだけど、好きに使っていいよ」


 ハーバートは上着のポケットを探り、今日の“稼ぎ”をテーブルの上に置いた。その硬貨に触れてから、エミリーは困ったような笑いを浮かべて兄を見る。


 「好きに使ってなんて...お兄さんの給料じゃない。お兄さんが持っていてよ」


 「駄目だよ。俺が持ってたら、きっとくだらないことに使っちまう。なあ、頼む。そうしてほしいんだ」


 ハーバートが懇願すると、エミリーは数秒の間散らばった硬貨に目を落としたのち、ため息と共に頷いた。


 「わかった。でも、お兄さんも何か必要になった使ってね。じゃないと私、いたたまれないから」


 トン、と兄の胸元を小突き、


 「本当は、私も働けたらいいんだけど...お兄さん一人に働かせるのって、すごく辛いんですもの」


 やや俯き加減にエミリーが言ったので、ハーバートは一瞬息を止め、唇を強張らせた。


 ―――違う、働いてるんじゃない。本当は、仕事なんかしていない...


 「エミリー。俺は―――」


 「うん?」


ハーバートは首を小さく左右に振りながら、咄嗟に妹の両手を握ったが、まっすぐな彼女の瞳を見て下唇を噛んだ。やはり、本当のことは言えない。


 「俺がもっと頑張って働いて、今よりずっといい仕事を見つけるよ。それで金が入ったらこんな街出て、そうだな...田舎に行こう。空気がきれいで、緑が多くて、人の少ない田舎に引っ越すんだ。そうすれば、おまえの体だってきっと良くなるよ」


 平然と言ってのける言葉ではないことはわかっていたが、自分では止められなかった。仕事とは到底言えないことをしている上に、バリーたちのような汚い連中と関わっていることが知られたら、エミリーがどれほど絶望するかも承知している。ショックのあまり、ぶっ倒れてしまうかもしれない。ハーバートは恐くて仕方なかったが、もう歯止めが利かなかった。


 「そうなったら、すごく嬉しい。でもお願いだから、無理はしないで」


 ハーバートの手を少し強めに握り返し、エミリーはその澄んだ瞳で優しく微笑みかけた。


 「私は大丈夫。お兄さんが思ってるほど、か弱い女性じゃないのよ?だから、もっと自分のことを考えて。今私が何よりも望んでいるのは、そういうことなの」


 口元が上品に弧を描き、さらに温かい表情になった。ハーバートにとって、唯一自分に向けられる、思いやりが滲み出た表情だ。この土地で、これほどの笑顔を向けてくれる人間は、エミリーの他にいない。


 ハーバートも同じように微笑むと、エミリーは含み笑いをして、再び流し台の前へと戻った。彼女の顔が逸れると、ハーバートは浮かべていた笑顔を悲しいものに変化させる。


 エミリーが優しく接してくれるたびに、ハーバートの胸はズキリと痛みを覚え、そしてどうしようもなく、自分を貶めていくのだった。

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