五月第一週 平日
進藤改太という少年と、その実の姉である愛奈は、初めから仲が良かった訳ではない。
むしろ改太が小学校の最高学年であった頃などは、非常に険悪な仲であったと言えるだろう。
その原因としてあげられるのは改太の交友関係で、悪い言い方をすれば女子を弄ぶような彼のプレイボーイっぷりに愛奈は烈火の如く怒鳴り散らした。
相手の気持ちを踏みにじるような、そんなことがどうして出来るんだ。
人の恋をあざ笑って楽しいのか。
思い人に裏切られることの痛みが、苦しみが、お前には分からないのか。
まるで一度そんな経験をしたかのような彼女の怒髪天を突くほどの叱責はしかし、改太に届くことはなかった。
相手だって同じ気持ちで遊んでいるだろう。
よく居る軽そうな女をひっかけているだけだ。
恋人ごっこが楽しい年頃なんだよ。
ひどく冷静に淡々と、改太は自分の周囲の状況と合わせて言い返した。
それが、どうやらとても不味かったらしい。
『お前を弟だなんて思いたくない!!』
『好きにしろよ、スイーツ脳』
『っ……!! 知らない!!』
リビングでの喧嘩は苛烈を極め、姉が二階にある自室に逃げるように駆け込んでいったことを、改太はよく覚えている。
去り際に、滅多に泣くことのない彼女が、涙を浮かべていたことも。
それからしばらくの間、顔も合わせない日々が続いた。
わざわざ登校時間をずらし、食事も全て別々。母親がなにを言おうとも、姉弟揃って取り合うことをしなかった。
そんな生活が続き、数ヶ月経ったある日のこと。
きっかけは、改太の方にあった。
『お前、可愛いな。今度どっかで遊ばない?』
『え? 無理。あたし練習あるからじゃーね』
『えっ』
スポーツ万能成績優秀、おまけにルックスもジュニアモデルに負けないほどの容貌を持つ改太の誘いを、即答で断った少女が現れた。
『あ、居た居た。練習のない日でいいからさ、どうかな?』
『しつこい男は嫌われるよ~?』
『そう言うなって、な?』
『ん~、じゃあさ』
別の日の放課後に校庭でその少女を見つけて、声をかけて。
彼女は夕日に照らされた可憐な笑みを浮かべながら、言った。
『あたしに追いつけたら、考えてあげる』
簡単な、短い徒競走だった。
だが、改太は負けた。ただただ走るだけのことで、スポーツ万能の改太は負けたのだ。
その日、改太は初めて、同年代の女の子に明確に勝負で敗北した。
それからしばらく改太は彼女とどうやったら話せるだろうかとか、どうしたら連絡先を手に入れられるかとか、今度はいつ会えるだろうかとか、不自然に会うのはプライドが許さないとかあれこれ考えて。
少ししてからその感情の呼称を知る。
自分は生まれて初めて、恋をしているのだと。
そして、恋というワードで思い出したのは別の女性だった。
数ヶ月前に泣き顔を見て以来、同じ屋根の下に居ながら会ってすらいない同居人。
もし自分が今あの少女に戯れで付き合いを許されて、それが遊びでしたと明かされれば、自分はどうなってしまうだろうか。
そう考えたら、痛かった。
心が、胸が、頭が、全てが。
そう考えたその日の夜、気づけば改太は姉の部屋の前に立っていた。
誰とは明かさずノックすると、久々に聞く姉の声は相変わらず柔らかくて、とても怒りを露わにしていたあの日の彼女とは結びつかない。
ゆっくりとノブを開き、顔をあげれば。振り返った彼女の顔が曇った。
当然だろう、あれだけのことをして、今まで音沙汰など一度もなかったのだから。
けれど、ここから逃げるほど改太は弱くなかった。
何も言わない姉に、扉の近くから動かないまま改太は深々と頭を下げた。
『オレが、悪かった』
『今更何のつもりか知らないけど、あんたなんかに理解出来ることじゃないからやめて。謝ればいいとか、そんな問題じゃないの』
突き放すような姉の言葉に、改太はゆっくりと顔を上げた。別に今ので許して貰おうなどと、元々から思っていなかったのだ。それに、今回の謝罪自体、そもそも許しを乞うようなものではない。ただただ自分が間違っていたと、伝えに来ただけなのだから。
『好きな人が、出来ました』
『っ……』
『姉貴の気持ちが分かったから、謝罪に来た。オレが間違ってた。だから、ごめん。……それだけだ』
言いたいことは、伝えた。
居心地は悪いし、さっさと自分の部屋に戻ろうと踵を返したその時だった。
『待って……それは、本当なの?』
『……あぁ。色々考えたんだけど、多分これが初めての恋愛感情だ』
『……そこ座って待ってて』
何を言い出すのかと振り返れば、部屋の真ん中においてあるローテーブルを指さして彼女は言った。何のつもりかは分からなかったが、今は逆らう理由もない。
カーペットの上にあぐらをかいて待っていると、部屋を出ていった愛奈がマグカップを二つ持って帰ってきた。
温かいココアが入っていた。
『……信じて、いいの?』
『割りと、あいつに遊びで付き合われたりとかしたら、死にたくなると思う』
『……そっか』
正面に正座した愛奈に差し出されたココアを一口。甘い。
『私のことじゃ、ないんだけどね』
『ん?』
ぽつり、ぽつりと。
しばらくは迷っていたようだが、愛奈は一つの話をした。
高校生になって初めて共学の学校に来た女の子の話だった。
そんなに見た目もよくは無かったけど、そこそこに元気はあって、クラスの中心近辺にいつも居る、割りと目立つ方の少女だったらしい。
そんな彼女は、遊んでいるとか何とかよく噂されたけれどそんなことはなく、むしろたった一人同じグループに居る人のことが好きだったとか。
思い募って告白したのは、一年生の時の文化祭。晴れて付き合うことになった二人。しばらくは、幸せだった。
遊びが発覚したのは、ある日のこと。
彼が風邪を引いたというので看病にいけば、そこに居たのは知らない女二人。
ぎゃーぎゃーと喧嘩しているところを見た時は、脳裏に浮かんだ嫌な想像を嘘だと跳ね退けることしか出来なかった。
だが、彼女らに絡まれて、発覚する。
その男が、三股をかけていたことが。
騒ぎを聞きつけて現れた彼は三人とも遊びだったと言い放つとそのまま家から閉め出して、取り残された三人ともが、何も出来なかった。
『どうせ遊びだったんだろおまえ等も』
と押しつけにも似た言葉をぶつけられて。
ショックで数日寝込んで、その次の週から登校してみれば。
『お前、三股かけてたんだって?』
『○○くんショックだったらしいよー』
『おいおい、サイテーだなあいつ』
なんだ、その噂は。
その男は既に別の女と付き合っており、傷心を慰めてくれた優しい人だと吹聴して回っているらしい。
三股かけられた女のうち、男と同じ学校なのは自分だけ。
クズ女となじられて、精神的ショックからも立ち直れていない状態に罵詈雑言をぶつけられて、彼女は、折れた。
学校を辞めて。
行く宛も気力もなくて。
引きこもって。
ただ"生きているだけ"だった彼女は。
親にも理解されず、どこからか三股女という噂をききつけてか怒鳴られて。
どうしようもなくなって。
真夜中に一人、静かに――
『……それ、誰』
『私の知り合いだったお姉さんの話。好きとまではいかないけど、嫌いじゃなかったんだ、その人のこと』
天井を、いやそのさらに向こうを見つめるような遠い瞳。愛奈のその目に、改太は昔の自分の言動を思い出して、言った。
『本当に、悪かったよ』
『いいよ。分かってくれたなら、それでいい。……本当に遊んでる人が居るのも、知ってるし。けど、その中に本気の子が紛れてるかもしれないって……ちゃんと見極めて』
『辞めろとは言わないんだな、姉貴』
意外だと思って顔を上げると、愛奈は立ち上がって自分の机の中から数冊の雑誌を取り出した。
ローテーブルに置かれたそれは、最近のティーンズ誌。愛奈はあまり読まなさそうなものまであるその共通点は、今の小中学生の恋愛事情について色々と書かれていることだった。
『こういうのに憧れて、恋に恋して楽しむ人たちも居るって……書いてあったから』
『姉貴、わざわざ調べた訳?』
『私には、歩み寄るようなことは出来なかったけどね。……それに男嫌いだし』
悩んでいたのは自分だけではなかったようだ。
どこか胸のつかえが取れたような気がして、改太は安堵のため息を漏らした。
『私が男を許せてないのに……というか復讐も兼ねて逆に弄んでやろうと思ってるのに、改太に当たるのもちょっと感情的すぎる気がしたし』
『そっか』
確かに愛奈は男嫌いだ。その根本はきっと、その知り合いのお姉さんとやらにあるのだろうことは分かる。
だが。
改太は飲み終えたココアを置いて、正面の姉を見た。
あんな風に、人の心に敏感な、自分の姉貴。
人の為にあれだけ苛烈に怒ることの出来る、自分の姉貴。
『姉貴には、無理だよ』
『え? なにが?』
『姉貴には、逆に男を弄ぶ、なんてこと絶対に出来ない』
『……なに、魅力がないとか?』
『そうじゃない。そういうものじゃない。……けど、絶対に無理だ。オレには、分かる』
『なにそれ』
そんなことをするには、少し優しすぎる。
改太には、一番近くに居る弟には、それが分かっていた。
ゴールデンウィークの初日。
改太は部活も無く、友人との用事も無く、何をしようかと色々考えていてそういえば今日が陸上部の公式試合の日だと思いだし、暇潰しついでにたまたまを装って、思い人の観戦に行こうと考えた。
電車に乗って二十分、会場へはそこから十分程度。
河川敷に作られたフィールドは、非常時にはため池にもなるように作られているのだとか。
川縁の道を散歩するのはなかなか飽きず、気づけば会場へと到着していた。
見知った顔も、応援席の方にちらほら。
大きな大会ではないからか、こうした公共の施設を間借りして即席のコースを作っているらしい。とはいえ様々な学校の選手が来ているらしく、河川敷へと降りる階段を、多くの人が埋めていた。
「……ダチにはバレたくねぇな」
あわよくば試合後の彼女とばったり。客席に居る姿など見られたくはない。
だが流石に客席に居て誰にもばれないというのは難しいだろう。せっかく交通費を払って来たのだから、彼女の姿くらい見ないと割に合わない。
とすれば、知り合いと来た設定にすればいい。
他の知り合いと一緒に来たのなら、わざわざ彼女を見に来たのではないと言い訳も出来る。
……とはいえ。
陸上部以外の知り合いに出会える確率は低そうだった。
ゴールデンウィークの初日から、無関係の部活の応援に来るなど余り居ない部類だろう。それはまあ仕方がないとして諦めて、家族連れ以外に居ないだろうか、近くに居ても何も言われなさそうな……そうだ、こういうのはどうだろう。
こういう場所である以上、スカウトの人間や、他の場所から見物に来た猛者っぽい人間が居るはずだ。
そういう人と並んでいれば、いかにもかっこよく見えるのではないだろうか。
『おい、あれ○○中の○○だぜ』
『じゃあ隣に居るのだ誰だ……?』
『分からねえが、きっとすげえ奴に違いねえ』
とまあこんな感じにかっこよく写ればベスト。
小さな大会にスカウトが居るとは思えないし、猛者っぽい人の影もあまり見られないから、探すだけでも一苦労そうだが。
ときょろきょろと改太は河川敷の上から客席を見渡して。
「居た。とびっきり猛者っぽいのが」
たった一人で腰掛けて、じっとグラウンドを見つめている少年。姉と同年代くらいだろうか。もしかしたら弟妹が出ているのかもしれないし、来年の有望株を見に来ているのかもしれない。
しかしそんなことはどうでも良い。
見るからに速そうな雰囲気。どこのジャージかは分からないが、足も長い。
あれで陸上と無関係など嘘だ、と思えるような……しかもイケメンだ。
自分と並んでいても遜色ないだろう。
もしかしたら本当に有名選手かもしれない。
そろりと降りて、彼の隣にさりげなく腰掛ける。
そしてあたかも急いできたような雰囲気を醸しだしつつ。
「す、すみません今プログラムどんな感じですかっ!?」
「……? 今、女子の部の短距離が始まるところ、です」
「間に合ってよかった……!」
よし、会話の芽は出来た。
しかし見るからに年下の自分に対して敬語調とは。少し驚きながらも、会話しやすいに越したことはない。
「有望そうな人、居ます?」
「知り合いに見て欲しいと言われただけなので、詳しくはないのですが……すみません」
「……なるほど」
彼は見た目からして選手だ。もしかしたら、中学時代のコーチから頼まれて、中学生たちのフォームを見てもらえるか頼んだのかもしれない。
それか、高校のコーチから"目"を任されるような逸物なのやも。
「おっ……!」
と、その時ちょうど、改太の思い人の番が来た。きょろきょろと観客席を見渡しているところを見ると、家族か誰かが来ているのかもしれない。
しかし、自分が居ることがバレてはならない。上手く隣の青年の影に隠れ、やり過ごそうとして。
少女がこちらに向けて笑顔で手を振った。
「ばっ……! ……ってなんだあの可愛い顔……!」
バレた、かと思いきや、それ以上に彼女があんな満面の笑みを浮かべているところを見たことがなかった。ぶんぶんと手を振られ、しかし改太は恥ずかしくて返すことが出来なかった。
まさかこの距離でバレるとは。
と、同時に彼女はスタートの位置取りに着く。
ピストルの音と同時かぎりぎりのタイミングで弾かれたように飛び出すと、曲線に向けてぶっちぎりの出だしを決める。
「……やっぱ速いな……」
「あ、あの四レーンですか?」
「え、あ、はい。見ろと言われていたので」
「……あいつ、注目選手なのか。すっげーなー……」
高校か何かのスカウティングだろうか。
そんな会話をしている間に、コーナーリングへと入る。それでより他との差が着いたのか、ダントツでゴールインした。
「……これほどとは」
「や、やっぱ凄いんすかねあいつ。ぶっちぎりですもんね」
「伊丹くんの賞賛も頷けるな……あ、ええ。凄いですね」
「伊丹……? ってひょっとしてつつじヶ丘高校の伊丹さんですか?」
「え、ええ」
伊丹翔の名は、今タオルを貰って汗を拭いている少女から何度か聞いていた。
この地区で知らない人は居ないほどの陸上選手。
確か姉と同じクラスだったか。
しかし今の呟きから察するに、この目の前の青年に彼女を"見ろ"と言ったのは間違いなく伊丹翔その人なのだろう。
有名選手があの少女を賞賛し、彼と同等の男にまで彼女の名を広めているとしたら。
やはり、彼女は相当に凄いのだ。
「あいつ、つつじヶ丘からスカウトでもかかってるんですか?」
「……? さて、どうでしょうね」
「言えない、か……なるほどな。オレもつつじヶ丘、受けようかな」
思わず問いかけた言葉は、さらっとかわされた。
だがそれでも構わない。もし彼女が特待生でつつじヶ丘を受けるというのなら、自分も行こう。
「オレ今中学二年なんですけど、今から陸上って間に合うと思います?」
なんだか、触発されてしまった気がする。
スポーツはやればだいたい出来た自分だけれど、結局走ることだけは彼女に負け越したままだ。
追いついたら、考えてくれると言うのなら。そして彼女がここまで、人の注目を浴びる逸材だと言うのなら。
少し自分もやってみようかと、そう思う。
「詳しくはないですが……自分が走り始めたのは中学二年の六月頃でした」
「……! なら、オレもがんばってみます!! ありがとうございました!!」
頭を下げて、改太は席を立った。
ただの観戦に来たつもりだったが、もっと多くのものを得られた気がする。彼女と並ぶには、少しスペックが足りなかったらしい。
だから、自分もがんばろう。
さっき居た人のような、かっこいい人になるためにも。
あの時見た彼女の笑みは、しばらく胸の中の大切なものフォルダにしまっておこう。