四月第四週 休日
休日であろうと、薬師寺リュウの朝は早い。出張が多いせいで息子にろくに構ってやれない部分もあり、だからこそ放任的に好きなことをさせていた。
その結果傾倒したのがアニメというのは、現代の少年にとっては仕方のないことかもしれない。だがそれでも勉強はきちんとそれなりにやって、するしないは別として家事もこなすことも出来る息子に、文句を言うつもりはなかった。
やることさえやって、最低限将来自立が出来そうなら、他のことには目を瞑ってやろう。
それがリュウの教育方針であった。
仕事が忙しく、親子のコミュニケーションもなかなか取れないのなら、せめて枷にはならないようにと息子を案じた結果だった。
ところが数年前からぱったりと自室にこもることが無くなり、一人で毎朝、雨の日だろうと風の日だろうと外に出るようになった。
どういう心境の変化かはわからないが、不健康でいるよりは好ましいので詮索はせず。そして徐々に徐々に痩せてきて、太る前よりも母親に似た美形になってきていた。
部屋に目覚ましの音が鳴り響き、リュウはそれを殴りつけるようにして止めるとベッドから飛び起きる。こうすることで眠気を飛ばし、長く伸びた髪をさっと纏めてシャワールームへ。その間五秒。
「やあ、おはよう我が息子」
「おはよう。朝食は、簡単でいい?」
「美味ければ何でも構わない」
「了解」
もうランニングを終えて帰ってきていたらしい息子とダイニングで短く言葉を交わしてから、シャワーを浴びて髪を乾かす。メイクなど、簡単にめりはりをつけるだけで十分だ。
今日のスケジュールを脳内に呼び起こしながらテーブルにかけると、すでに和也が朝食を並べた後だった。
スクランブルエッグにトマトとレタスを添えているところを見ると、今日は卵に味はついてなさそうだ。置いてあるケチャップに手を伸ばして、焼きあがったトーストがトースターから飛び出すのを視界に入れる。
「よいしょっと。今日は通常?」
「ああ。だが、ゴールデンウィークの間は出張がある。その間家を頼んだ」
息子が席につくと、二人で手をあわせてから食事が始まる。相変わらず"そこそこ"の料理上手だが、本人に向上心が無い以上は料理の腕があがることはないだろう。
ゴールデンウィーク中はまるまるアメリカに出かける予定があったので、その間どうせ自宅待機であろう息子にそれを伝えて――ふと返事が無いことに気づいた。
「どうした?」
「いや、なんか……バーベキューに、行く……らしい?」
「ほう、お前がか」
「……たぶん」
「はっはっは、なんだそりゃ。しかし、唐突に随分とアウトドアだな。どんな心境の変化があったのかは聞かないが……まあ和也が健康であるなら何も言うまいよ」
「何を用意すればいいのか分からなくて。母さん、行ったことある?」
「おうともさ。一番印象に残っているのは……あれか。友人が猟友会に入っていたので、取ったばかりの猪を焼いたものだが、まあ学生にそういうことはなかろう。無難に、共に行く友人に聞けばいい。場所によっては器材を貸してくれたり、持ち込みに制限があったり様々だからな」
「あ、ありがとう」
礼を言い、バターを塗ったトーストにかぶりつく息子を見ながらリュウは思う。
和也にも友人が出来たらしい、と。本人は距離感がつかめないようだが、それも経験のうち。良い母では居られないが、理解者でありたいと思うからこそのリュウの助言だった。
本当なら自分の知り合いにバーベキュー場を貸し切りにしてもらっても良いのだが、それはきっと和也が望むことではないのだから。
「なあ、母さん」
「ん、どうした我が息子」
おそるおそると言った風に口を開いた和也に、問いかける。彼の歯切れの悪い時はたいていが何かを聞いたり頼んだりする時だ。
どんな大それた頼みだろうと聞くことは出来るのだが、それを実行に移すかはリュウ次第。とはいえ、あまり大した頼みをしてくることもないのだが。
別荘がほしいと言われても、検討に回すくらいの財力がこの女にはあった。
「……そういえば和也、今日は珍しくなかなかかっこいい服を着ているじゃないか。そんなセンスがあったとはな」
「え? ああこれは違うよ。神戸さ……しおりちゃんが選んでくれたんだ」
「ほう、隅におけんな。……あの子の快活さはお前には無いものだ。伴侶となるなら、止めはせんよ」
「そういう話じゃないんだってば」
「はっはっは、分かっている。で、話はおそらくその格好にあるのだろう?」
「いや、うん。母さんはさ……カラオケ……って、知ってる?」
「行ったことは数回だけだが……今の若者には一般常識ではないのか?」
「ああ、うん……たぶん、そうなんだよね」
「なるほど、和也は初めてなのか。それでどうすればいいか分からない、と」
「まあ、そんな感じ」
情けなさそうに頭を掻く息子を見て、リュウは思う。
他人にとっての当たり前を知らないこと、それを恥だと思うのは良くない傾向だ。だからといって自分の価値観を押しつけるのも好ましくはないのだが、その辺じれったい部分ではある。
しかし、カラオケが初めてか。現在の15歳の中で何割がカラオケ経験があるのか分からないが。
「そうだな、どのくらいカラオケという場所を知っている?」
「個室に入って、歌を歌うこと……くらいかな」
「ふむ。間違っていない。私の行ったことのある場所では、長いテーブルが置いてあってな。手元のコントローラで好きな曲を入力すると、大きなスクリーンに映像と歌詞が示されて、それをダイナミックマイクで歌っていく、というものだ。ルームサービスもあって、コース料理がでてきたな。歌を歌いながらものを食べるのは好ましくないが、人の演奏を聞きながらの食事は悪くなかったよ」
「結構高そうだね」
「確かに学生の行ける場所ではないな。もしかすると、簡易版かもしれない。歌を歌うところは変わらないだろうから、しばらく様子をみて、行けそうだったら「次、いいかな」って感じで入れてみるといい」
「なるほど、見て覚えればいいのか」
「うむ、気負うな我が息子」
「ありがとう」
どこか安堵したように礼を言う和也を見て、リュウも満足して頷いた。久々にされた相談がまさかカラオケとは思わなかったが、親子のコミュニケーションというのは悪くないものだと実感する。
「ところで、何人で行くんだ?」
「えっと……聞いてなかったな……」
「女と二人だったら気をつけろ。一服盛られてお持ち帰りされるかもしれん」
「あはは、俺に限ってそれはないよ。それに誘ってくれたのは男だから、大丈夫」
「……男と二人でも気をつけろ。一服盛られてお持ち帰りされるかもしれん」
「………………いや、うん、気をつける」
「うむ」
二人きりはだめ、二人きりはだめ、とぶつぶつ呟きながらかちゃかちゃと皿を下げ始める和也。そのまま台所に引っ込んで洗いものを始めた彼を、リュウはしばらくの間ぼうっと眺めていた。
西田拓斗という少年は、根っからのオタクである。
本人はそれを恥と思うこともないし、わりとオープンにしていた。
とはいえやはり、そんな彼でも自らをさらけ出すことをはばかられるシーンというのは往々にしてあった。そのうちの一つが、今回のようなケースである。
誰とでも仲良くしている、クラスの中心人物二宮蓮。
拓斗もその例に漏れず、若干の劣等感を覚えながらも友人としてつきあっていこうとしていた。
その甲斐あってクラスの中でも蓮と拓斗が会話をするシーンはよく見られ、たまに二人で遊びに行くこともあるまでになった。
そう、あのイケメンでスポーツ万能、クラスの中心で軽音部の彼は、結構アニメも好きで詳しかったのだ。
そんな彼から昨日連絡が来て、カラオケに行かないかと誘われた時は「アニソンメドレーでも歌おうかな」と自身の知るアニメの幅広さを披露するつもり満々だったのだが、一緒に行くメンバーを聞いて血の気が失せた。
まず、進藤愛奈。
確かに蓮ともよく会話を交わす少女ではあったが、あれはやばい。何がやばいかと言えば、ぶっちゃけ拓斗は愛奈のことが好きなのである。魅力的な異性として、中学の頃から好意を持っていた。
とはいえ告白などという大それたことは出来ない。彼女は結構な男嫌いで、どんな奴からコクられようともその全てをばっさばっさと切り捨てていたのだから。
次に、砂場千春。
大人しそうな小動物と見せかけて、元気はつらつな隣のクラスの少女。拓斗も数回会話をしたことがあり、険悪というわけではないが、中学時代に話したことのある知り合い程度。
何より彼女が面食いなのは有名な話で、必要以上に近寄るのも少し怖いものがあった。
そして、薬師寺和也。
よくカラオケに誘えたな!? と思わず蓮にツッコんだほど、無口で物憂げな少年だった。噂では、あの伊丹翔が一目置くほどに脚力に長け、勉学も優秀という話。
誰も近寄らないようなオーラの中で、話しかけるとすれば蓮か、愛奈か、翔の三人くらいと言えるほどの人間だった。
「まさか、伊丹翔の代役にオレを連れてくるとは思わないってぇ……」
「ん? 俺がカラオケに行く友達って男だと、拓斗と翔と和樹くらいのもんだからさ」
「そういう問題じゃないってば……いや、何でもない」
おそらくこの隣の茶髪の男は何も考えていないのだろう。
自分がどの程度の存在なのかとか、スクールカーストが云々とか。
待ち合わせ場所には、駅前の銅像を使った。よく待ち合わせに使われることで有名な、地元マスコットキャラのそれ。
集合時間より15分早めに来た蓮と拓斗は、しばらく会話をして時間をつぶしていた。
主に拓斗の嘆きが主だったが。
「あ、居た居た蓮くーん!!」
「こんにちは。えっと、二宮くんと西田くん」
ぴょーんと飛ぶように人混みの中から現れた、二人の少女。
どちらもとんでもなく可愛いとくれば、普通は羨ましがられるものだろう。だが残念ながら、主役は完全に蓮だ。だからこそこの気まずさが半端ではない。
唯一喜ばしいことがあったとすれば、進藤愛奈が自分の名前を知っていたことだろうか。
「えっと、薬師寺くんは?」
「ん? まだみたいだが」
「そっか、連絡先知らないんだよね、私」
「俺もこの前したばっかだな。ま、すぐくるだろ」
そして、最後にくる男というのも味方ではない。無口が認められるのはイケメンだけというその言葉通りに、イケメンまっしぐらな長身の少年。
「お待たせ……しました」
「よぅ、お前がラストだぜ」
「……何か、奢りましょうか?」
「いやそういうのじゃねえって嘘嘘、ごめんねぃ!」
あんな無口で近寄りがたい男に開幕早々冗談をぶちかます友人が眩しく見える。
「あ、薬師寺くんおはよ」
「おはよう、ございます……」
「ね、ねえねえ! 薬師寺くんだよね!? あたし砂場千春っていいます! よろしくね!」
「あ、はい……薬師寺、です」
そして千春の食いつきになんだかやるせないものを覚える拓斗だった。
「じゃ、行くか」
という蓮の一声に従って、ぞろぞろと歩き出す。
千春はまっさきに蓮のところへと向かい、どうせ愛奈は和也と話すのだろうなと思っていた、その時だった。
「そういえば、中学同じだったよね?」
「あ、う、うん。そうだね。覚えててくれたんだ」
「人を忘れるのって失礼だと思う。……なんて、暗いこと言ってもしょうがないよね。今日は楽しもうね!」
天使だ、と思った。
初めての会話だったけれど、こんなに気さくに自分に接してくれるとは。
あれ、薬師寺のところじゃなくて自分のところに来たってことは、もしかしてワンチャンあるんじゃね?
そう思い、会話を続けるべく顔を上げた時だった。
「薬師寺くん、この前はごめんね」
「ああいえ、気にしないでください。……進藤さんは悪くありませんから」
「……そ、っか」
……あれ?
なんだろう、この青春真っ盛りな空気を醸し出す会話は。
なに、喧嘩? いや喧嘩ならばもうちょっと明るく謝り合う場面ではなかろうか。
この、まるで恋人同士のような、何かちょっとしたすれ違いがあったその後のような。
「おおい、入るぜー!」
蓮の声が聞こえて、ようやく我に返るまで、拓斗の胸にその光景が焼き付いていた。
蓮が手続きを終えて、三階の個室へと案内されて。
ボックスの中は暗く、明るくする派がいるかを聞いて、結局暗いままにすることに。
さて何を歌おうかと、拓斗は無難にPOP曲を選んでいた。
蓮はあれで多くのジャンルの曲を歌うことができる。今日の企画者ということで初っ端に入れた曲は、有名日本バンドの曲だった。中高生に人気な、男五人のかっこいい系ポップス。
ノリノリで手を叩く千春と、押しつけられたタンバリンを控えめに振る愛奈。
和也はどうしているかと思いきや、やたらと目を凝らしてそれぞれの動作を観察していた。
ひょっとして。
ふと気がついたことがあった拓斗は、そそっと和也の元へ近寄る。
「あの、やり方知ってますか?」
「……すみません、とりあえず来てしばらく人のを見ていれば分かるかと思ったのですが……」
「えっと、これがデンモクでですね」
やはりというべきか、カラオケ初心者であったようだ。
蓮の押しに負けて来たのだとすれば、どこか申し訳ない。
「……俺はしばらく見ていますから、どうぞ」
「あ、は、はい」
まさかの同級生でお互い敬語という事態。だがきっと彼は自分と違って敬語がデフォルトとかそういう部類なのだろう。
ため息混じりにぴこぴこデンモクと戦って、数年前のJPOPを引っ張りだしてきて入力。アニソン界隈にどっぷりだと、最近の曲などめっきり知らないのだから仕方がない。
「じゃ、あたしいきまーす!」
千春が歌うのは最近のアイドル曲。拓斗は覚えていなかったが、確か九人くらいのユニットだったはずだ。可愛らしい恋の曲。だが現実味にかける。スイーツ。
「じゃあ、えっと、いきます。笑わないでね」
どこに笑えというのか。女性歌手のはきはきとしたポップスを歌い上げる愛奈は、おそらくこの中では一番上手いと言えた。
「うわ、進藤さんのあとだと歌いづらいなあ」
「なんかごめんね」
「ああいえいえ」
拓斗はその無難な曲を入れていく。全員が知っているもので、手拍子もあわさり盛り上がった。
「えー、薬師寺くん歌わないのー?」
「いえ……しばらく様子見を」
「むぅ、後で絶対歌ってねー!」
和也がマイクを断ると、むくれた千春がそう言った。なんだかんだで彼女も打ち解けるのが早く、実にうらやましいと言える。
さて、そんな感じでしばらく歌い、時間が迫ってきた時のことだった。
室内電話が鳴って、あと15分だと言われて。
ちょうどその時拓斗はネタが切れだして、JPOP歌手のアニソンを歌いバレないように凌いでいる最中だった。蓮のバリエーションの豊富さが憎い。
ちょうど千春の番が終わったところだったので、彼女がマイクを持って言い放つ。
「さ、薬師寺くん、ラスト入れてね!」
「え……」
おおとりに初心者を持ってくるとは容赦ないなと思いつつ、拓斗は自分の番に立ち上がった。
入れた曲は、女声曲。仕方がない、JPOP歌手のアニソンというものでもネタが少なくなってきていたのだから。
それは、あるアニメのエンディング曲だった。
拓斗もそこそこに好きな、アニメ。
泣きあり笑いありの、少女たちの物語。
「~~~~!!」
ふぅ、と歌い終えたその時だった。
視界に入ったのは、一筋の涙を流す男の姿。
「え、ちょ」
「ラスト、でしたよね。……やります」
「あ、ああ、うん」
ひったくるでもなく、さらりと拓斗の手から、マイクを回収した和也は。
さらっと一つの曲を入力した。
「あ、その人知ってるー」
「薬師寺くん、女の人の歌うんだー」
「……へぇ」
三者三様の反応をする中、きっと蓮だけが何かに気づいたことだろう。
そして、拓斗も確信した。
彼が入れたのは、ただの女性歌手JPOPではないことを。
もちろん有名歌手の曲ではあるのだが、それだけではないことを。
あれが、先ほど拓斗が入れた曲と対を為す、
"魔法少女☆ラジカルなのちゃん"の、最も熱かった時代のオープニングであることを。
立ち上がる和也。
流れ出す伴奏。
その瞬間、拓斗は驚愕した。
今まで座っていた和也が立っていることは、まだ良い。
歌う時に立つ人も結構な数居ることは知っていたし、愛奈もそうだった。
だが、違う。
そうではない。
俯き、マイクを前に、そして左手を背後に伸ばしたそのポージングは。
その歌手が歌い始める時のそれと全く同じ。
まさか。
「すぅっ……!」
ブレス。
そして歌い出し。
ボックスが反響で弾けるかと思うほどの声量、そして戦慄するほどに合致した音程。
心地よく跳ね返るビブラート、コブシの効いた発声。
思わず熱が入るほどのテンションの上がり具合は、ライブ会場そのもの。
どれだけこの歌を歌えばここまで上手くなれるだろう。
どれだけこの歌を想えばここまで熱くなれるだろう。
サビに入ると同時に歓声をあげたくなるほどの破壊力がこの狭い部屋をステージに変える。
思わずギャラリーはタンバリンを手に取り、合わせてもいないのにぴったりとかみ合ったリズムを作り出す。
そして、エンド。
「~~~~!!」
歌い切りまで、はちきれるような高揚感。
歌の終わりと同時に切れる曲との相性は抜群で。
一瞬、呆けた三人から、わっと声があがった。
「すっごーーい! 滅茶苦茶上手いんだね薬師寺くん!!」
「びっくり、しちゃった。うん、すごいね」
「ひゃっほおおい! いや連れてきて良かったよ、また一緒に来ようぜ!」
口々に誉める言葉が飛び交う中、拓斗は一人否定する。
違う、そうじゃない。
彼は、
神そのものだ。
和也に、変な崇拝者がついた日だった。