四月第三週 休日
休日というものは当然高校生だろうと中学生だろうとほぼ平等に訪れる。特に週末の休みに至っては、なかなか授業日にされることはないのではないだろうか。
四月の第二週も終わったその日、元気はつらつな中学生神戸しおりはいつものように部活を終えて、帰りにふらりと西園の"杉"に寄っていた。その理由と言えば答えは簡単で、大好きな先輩が居るかどうかの確認だ。彼は暇さえあれば走っているイメージがあり、どうやら学校の部活にも入っている様子は無さそうなのだった。
「あ、居た!」
いるかな、いるかなと、そのツインテールをぴょこぴょことさせながら眼前のトラックに目を向けていた彼女。その先に、野暮ったい黒髪を靡かせて、圧倒的な速度で走る一人の姿を発見した。
どうやら彼は今ラストダッシュを終えたようで、トラックの出入り口を軽くジョグで流しながら出てきたところだった。
「和也せんぱーい!」
いつものように、エナメルバッグをがっさがっさと揺らしながらしおりは駆け寄る。何を隠そうこの先輩、名前を呼ばないと気づきすらしないこともあるのだ。何でも、自分なんかを呼ぶ人間はあまり居ないから、とのことだが。下手をすれば無視をされていると勘違いする人もでるのではないだろうか。
「……あ、かん……しおりちゃん」
間違って「神戸さん」と言おうとしたな? とジト目を向けたくもなったが、それよりも名前で呼んでもらえたことが嬉しくてついにやけてしまう。
走り終えたばかりの和也はタオルで顔を拭いながら、近くのベンチに腰掛けた。周囲にはトラックに入る準備運動をする人間も多いからじゃまをしてはいけない。
しおりもその場にずっと立っている訳にはいかないから、和也の隣にぴったりとくっついて座ると、足を投げ出してぷらぷらさせながら和也に話しかける。
ちらりと足下に目をやれば、お揃いのシューズ。ちゃんと履いてくれているのだと、口元のにやけが止まらなかった。
「えへへ、せんぱい今日もランニングですか!」
「あ、うん……俺は、これしか、ないから……」
どこか寂しげな笑みの裏に、何を思っているのかなどしおりは知らない。けれどその不思議な雰囲気も和也の魅力の一つのようにしおりは思っていた。
「でもせんぱい、部活には入っていないんですよね?」
「俺のは……趣味でしか、ないから」
「そう、ですか。あ、でもでも体育祭は見に行きますよ! 先輩の勇姿が見られるのは、きっと体育祭しかないでしょうし!」
「え……い、いいよ。俺は……大して何もできないし」
「つつじヶ丘高は六月の第一週でしたよね! あたししっかり予定立てておきます!」
「そ、そう……」
視線を背けられたのは、どこか恥ずかしかったのかなと首を傾げるしおり。
ただ彼が相手の場合、会話を続けるにはこちらから話しかけるしかないので、しおりは和也のジャージの裾を引っ張りながら笑いかけた。
「せんぱい、靴、履いてくれてるんですね!」
「えぁ、あ、ああ。うん、走りやすくて、助かるよ。ありがとう」
「えーへーへー!」
ずっとこんな時間が続けばいいのに。
部活帰りだということも忘れて、しおりのテンションは有頂天だった。ところが、その二人が座るベンチに、影。
「あれ? 薬師寺じゃねーか」
「あ、ああ。伊丹くん」
「よっ! ランニング、は……もう終わったみたいだな」
伊丹翔。県内でも名の通った短距離選手の登場に、しおりは一瞬目を丸くする。白いジャージの上下には、つつじヶ丘の文字が刻まれている。陸上部の専用ジャージであった。
「お知り合いなんですか?」
「あ、ああ。クラスでね」
「俺が一方的に、短距離で勝負したいだけなんだがな。こいつの速さがあればきっと、全国でも戦える」
「さすが和也せんぱい!」
「い、いや……か、買いかぶりだよ……」
「……ところでお前、三中の神戸だよな?」
「あれ? 有名選手、ましてや男子に知られるようなことしましたっけあたし」
和也が相変わらず謙遜節でにっちもさっちもいかないので、一度切れた会話。そこで伊丹がちらりとしおりを見て、その中学指定ジャージを見て、何かに気づいたようにそう言った。
首を傾げる彼女に、重く頷く。
「いやお前が俺らの同級生ボコボコにしてたのがいやに記憶に残っていてな。とんだダークホースだったよ。県大会出場おめでとう」
「あはは、県大ではすぐに負けちゃいましたけどね~」
「しおりちゃん、凄いんだね」
「えへへへへへへ!! ありがとうございます! 和也せんぱい!」
無邪気な、満面の笑み。
翔は一瞬あっけに取られたが、ふむ、と腕組みしてから和也に向き直った。
「おい、薬師寺」
「なに、かな?」
「付き合うにしても、中学生はどーよ」
ぴしり。
誰とは言わないが、体が固まる。
「い、いや、そんな。しおりちゃんは俺なんかにはもったいないですから」
「そういうことを言ってるんじゃなくてな。中学生はさすがに……と俺は思うわけよ」
「そ、そう、かな?」
「おう、もっとこう大人のお姉さんをだな!」
熱弁を振るい始めた翔に対して、和也は、どこか納得したような顔で居る。
そんな状況下で、少女は一人。
伊丹翔……ゼッタイニユルサナイ。
呪詛のこもった怨念を、翔に送り続けていた。
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最近姉の様子がおかしいことを、弟たる改太が知らないはずもなかった。
適当にクラスの女子からきたメールを返しつつ、隣にある姉の部屋を一瞥する。開けっ放しの扉の向こうで、今彼女が何をしているのかは分からないが……最近は結構改太に対しての隠し事が多くなってきていた。
「姉貴、ひょっとしてやっと恋にでも目覚めたか?」
ふむ、と腕組みしながら考える。学習デスクの椅子に背中を預け、彼は最近の姉の様子を思い出していた。
まあ見た目は悪くない。弟である自分が姉貴として紹介するのが恥ずかしくないほどには容姿にも気を使っている。中学時代の彼女は、十人中七人くらいを振り向かせるくらいに可愛いと言えた。
ところが、高校に入ってから化けた。何か薬でも使っているのではないかというほどに、とたんに可愛くなったのだ。改太が"ナチュラルメイク"という言葉を知っていれば、その疑問はすぐに解けたのであろうが、彼はまだ中学二年生。仕方がないこととも言える。
問題は、その可愛くなった姉が常に何かに悩んでいることだった。
高校入学直前まであれやこれやとテンションを高めていたにも関わらず、母親を含めた三人で食事を摂る時も何かに思案するような表情。
つり目がちだった彼女が眉尻を下げて考え込む姿は、はっきり言ってらしくなかった。
「……なるほど、とうとうあの鈍感姉貴にも恋の季節か。ふっ……オレが直々に恋愛のなんたるかを伝授してやるのも悪くないな……!」
ジーンズのポケットからとりだした己のスマートフォン。電話やSNSの会話履歴は、七、八人の女子で埋まっている。クラスメイトだったり幼なじみだったり友人の友人であったり様々だが、SNSの会話履歴を開けば
『改太くん、って呼んでもいいかな?』
『好きにしろよ』
『あ、ありがと! 今度二人で遊びにいこ!』
『他の奴は呼ばねーの?』
『えっと、二人じゃ……だめ、かな?』
などとあからさまなアプローチを食らっているのが複数だった。
中学二年にしてこの少年、生粋のプレイボーイである。
結論が出た改太は、上機嫌で椅子から飛び上がるように腰をあげると部屋を出た。正面の部屋に居るであろう姉と、楽しい楽しい会話をするためにだ。
「姉貴~、居るか~!」
「いるけど、いきなりどうしたの?」
デスクに座っていた彼女は椅子ごとくるりと振り向いた。左手にシャーペンが握られているところをみると、彼女は勉強か何かの最中だったらしい。
「いやさ、ほら最近テンション低いというか、なんかいろいろあるんだろう? 悩みがあるならこの弟に打ち明ければいい」
「……う~ん。それもちょっと考えたんだけど、やっぱりいいかなって」
「あれ!? 予想外に頼りねえのオレ!?」
この姉弟は、妙に仲がいい。というよりも改太は結構、つり目がちながらも明るく優しい姉に懐いていた。
それとはまた別に、姉も弟を何かと頼ってくれるので、よい姉弟関係を築いていたと言ってもいい。
だからこそ、悩みがあることを教えておきながら口にするのを断られるというのは初めての事態であった。
「お、オレには分かるぞ! 姉貴はきっと恋の悩みをしてるのだと!」
「……いや当たらずとも遠からずなんだけど、だって改太……」
「な、なんだよ。オレはかなりモテてるのは知ってるだろ!? ほら、ノウハウを教えてやろうって姉貴が中学の頃から言ってるじゃないか!」
「……だって改太、肝心の思い人にだけは振り向いてもらえないじゃない」
「ぐふっ!?」
胸を押さえてよろける改太に、くすりと笑う姉――愛奈。
「私のは恋ってわけじゃないんだけど……う~ん、どうしようかなーって」
「なんだよそれ」
「ううん。よく分からないから気になってるだけ。大丈夫よ」
「ま、まあ、いざという時はくっつける手伝いくらいはしてやろう!」
「なんでそんなえらそーなんだか」
肩を竦めて、愛奈は笑う。
改太は煮えきらないこの姉をどうやってその気になる相手とやらとくっつけてやるか、思案にくれるのだった。