五月第二週 休日
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたしますー!
ゴールデンウィーク明けの学校も終わり、週末。
ざ、ざ、と靴が土を蹴る音がリズミカルに耳を打つ。
土曜日になっても和也のやることは特に変わることもなく、いつものように朝早くから外に出て、いつものように西園の"杉"のトラックを駆けていた。
今日も、居るだろうか。
誰が、とは言わない。
期待することは間違っている。
彼女がもし居たとしても、自分の為ではないのだ。
体育祭の為、ひいてはクラスの為に奔走している彼女に対して、邪な感情を抱くことなどあってはならないのだから。
しかし、こうして周回を続けているうちに、自然に出口付近に視線が行くようになってしまったことくらいは、許してくれるだろうか。
ショートカットの黒髪と、つり目がちながらも本質は優しいあの瞳。
ヘアピンのかわいらしさがアクセントになった、和也などでは天秤に乗ることさえ認可されないであろう美しい少女。
そんな人が毎朝トラックの外で待っていてくれているとなれば、和也でなくともついつい確認してしまうだろう。
「ふっ……ふっ……」
ピッチをあげて駆けていく。
もうすぐ出口の見える位置に到達する。
今日は彼女は来ているだろうか。
休日だから、さすがに休んでいるだろうか。
ちらりと、視線を出口のほうに流す。
少女の姿を探して――
「ええっと、貴女は和也せんぱいの何なんですか?」
「そういうきみは確か、薬師寺くんの妹みたいな子だったよね」
「あはは、嫌ですねそんな冗談。あたし、せんぱいを待っているのでどこかに行ってくれるとうれしいです」
「私、毎日お世話してるんだ。急にそんなこと言われても困っちゃうよ」
「毎ッ……日ィ……!?」
勢いよく視線を前方修正。
なにもみなかった。
和也は何も見なかった。
何だろう、出口にいつの間にかユニークモンスターがポップしたようなこの状況は。
今日はもうちょっと走ろう。
和也は心の中で一つ決めて、スパート後の流しに入った。
ペースを落とし、軽やかに。
心がどんなに重かろうとも、軽やかに。
愛奈が居たことはうれしい。素直に、それは歓迎できる。
そしてしおりが居たことも、喜ばしいことであった。
一緒に走りましょう! なんて言ってくれた日には心が踊るかもしれない。そんな日は永久に訪れることがない妄想だと分かっていても、つい思い描いてしまうほどには。
だが、何だろう。
間違いでなければ、二人とも見たことの無い表情で向き合っていなかっただろうか。
愛奈は笑みを崩さなかったが、あれほど攻撃的な笑顔というのを和也は一度しか見たことがない。それがぶち切れた母親ともなれば、恐怖は倍増だ。
しおりに至っては最後顔面崩壊するほどに凶悪な表情をしていなかっただろうか。まさに阿修羅すら凌駕する存在になり果てていなかったか。
背後に風神雷神が見えそうなほどの威圧感を放つあの中に入りたいなどと、誰が思えるだろう。
気づけば、そういえば先ほどからトラックに新規参加する人間も居なければ、へろへろでもう休むべきだろうに一向に出口に向かわない人も。
というか誰も出ていかないし、入ってこない。
和也はバカではない。故に、原因は分かっている。
間違いなく出口に聳える阿吽の像だ。
「ふっ……ふっ……」
走りながら和也は思考する。
思考の海に沈んでいると、徐々にペースがあがっていく。
どうするべきかを悩みながら、走ること数周。
背後に土煙が舞い上がるほどのスピードを出してなお、答えは出ない。
そもそもあそこの二人は何故あそこまで仲が悪かったのだろう。
自分の名前が聞こえたような気がしたが、ラノベの主人公のように自分を奪い合っているなどとは和也は考えない。
自惚れは万死に値する。
所詮自分はキモオタで、彼女たちは温情で仲良くしてくれているだけなのだ。
それなのに、例え思考の隅であろうとそんなくだらないことを考えてしまう自分が許せなかった。
「ふっふっふっふっ……」
駆け回りながら、和也はどうするべきか考える。
「じゃあこれからはあたしが来るんで、貴女は大丈夫です。陸上に興味がある訳ではないんですよね?」
「体育祭で、薬師寺くんに走ってもらわなきゃ困るの。だから私がやるよ。子供が御寝坊しちゃったら、彼がかわいそうだし」
「だ・れ・が子供ですか! あたし140はありますから!」
「身長も残念だけど、私が言ったのは年齢。おませな年頃なのはわかったから、ね?」
「こんのッ……!」
やはり自分の話をしているように思ってしまう。
どれだけ自意識過剰なのだと己を戒めつつ、和也はやはり出口には向かわずもう一セット走ることにした。
無理だ。あの空間に突貫することなど。
と、そこで和也は気づいた。
妙に、走っている人数が減っていることに。
いったいどこから、ときょろきょろ周りを見渡してみると、あった。
まるで獣道のような、林に紛れた一本の道が。
そこから一人、また一人とふらふらになったランナーが消えていく。
ちょっと考えて、ちらりとカオスな出口に目をやって。
和也は黙って、その獣道のほうに向かっていった。
あの空間は、自分如きに御せるものなどでは、ないのだから。
自宅に戻ってきた和也は、まずさっとシャワーを浴びた。
母親であるリュウは、今日も会談の予定があるらしく朝から出かけて行ってしまった。場所は霞ヶ関だと聞いていたが、何の話をしているのかは知らない。
朝のアレを夢だと思いたい気持ちがそこそこ以上にあったが、残念ながら現実だ。
ため息混じりに軽い朝食を作って、ちょうど席についた時だった。
弾むようなチャイムの音。
訪問販売やどこぞの放送局であったとしても、目をあわせて会話をすることすら怖いと思っている和也だ。普段なら居留守を決め込もうと考える。
だが、どうしてか今日に限ってはすんなりとスイッチに触れてしまった。というのも、インターホンのディスプレイに映し出されていた人影が、見知った人間のものであったからだった。
「……はぃ?」
「お、薬師寺か。入れてくれたりしねぇ?」
「その言い方は迷惑だろう。……薬師寺、少し打ち合わせがしたいんだが、時間あるか?」
「え、ええ。うちで……良ければ」
インターホン下のスイッチを押すと、自動で扉のロックが外れる。
「……どうぞ、あがって、ください」
「おお、ハイテク! 薬師寺邸すげーな!」
「落ち着け蓮」
「はいはいっとー」
訪ねてきたのは、男二人。
クラスの中心である二宮蓮と、陸上部エースの伊丹翔であった。
玄関にまで出迎えて、二人をリビングにまで案内する。
彼らはきょろきょろと廊下を物色していたが、そのあたりは自由にしてくれてかまわなかった。
というよりも、誰かが自分の家を訪ねてくることなどいつ振りだろうか。
「……どう、しました?」
先ほどまで朝食を取ろうとしていた席に着き、二人に正面の二席を勧める。
ダイニングキッチンのテーブルは広くはないが、三人で囲む程度なら全くと言っていいほど問題はなかった。
「いや、住所は先生に聞いたんだ。この三人で話しておきたいことがあってな」
「……体育祭に向けて、な。そんなに警戒するな」
「すみません……」
相変わらず明るく振る舞う蓮と、それを押さえながらやんわりと話を進める翔。このコンビは相変わらずで、いつの間にか和也も慣れて、自然に会話ができるくらいにはなっていた。
もちろん、基本は聞いているだけだが。
「翔が勝ちたい理由はすでに聞いてるだろうけど、俺の理由も話しておこうと思ってさ」
蓮の表情が真剣なものになる。
せっかくなのでテーブルに置いてあったコーヒーメーカーを点けて、余っていたコーヒーを温め始めてから和也は蓮のほうを見て首を傾げた。
「翔はレギュラーを勝ち取る大きな利点として活用したいってのが理由だった。俺の方は、もう少し単純でさ。負けたくないんだよ、B組に」
「蓮の知り合いがB組に居て、まあそいつに負けたくないんだと。中学の頃からずっと何かにつけて勝ち負けで争ってるそうだ」
「なる、ほど……」
よくわからないが、蓮も蓮で体育祭は本気らしい。
それで何故自分に話を持ってきたのか、それは未だわからないままであったが。
「で、まあこの三人で集まった理由だが。単純にクラス委員の俺と、陸上部の翔。最後に、アンカーを任せたい和也。そんな感じだ」
「……えっ」
「なんだ? 嫌か?」
「いや、その……僕は、遅い……ですから」
「はっは何だこの野郎嫌味か、嫌味なのか?」
「え? いや、そんなつもりは」
笑いながら和也の肩をぐらぐらと揺らす翔。
しかしその瞳は笑っておらず、不気味の一言。
だが、和也は翔の目を見て何かを察した。
翔は確か、陸上部のレギュラーになる為に体育祭に全力なのだ。
ひょっとしたら和也をアンカーにすることで、もし負けても「あの伊丹って奴だけは速かったな」という結果をもぎ取ろうとしているのかもしれない。
前回、きっと測定時に失望させてしまったのだろう。
だから自ら襷を取ることはせず、中盤の厚みに徹するのかもしれない。
一人和也が納得してうなづいていると、翔は頭の上にはてなを浮かべつつも引き下がった。代わりに蓮が、淹れたコーヒーを啜りつつ口を開く。
「とりあえず、リレーの順序を決めたくてな。どうすれば戦略的に勝利を得ることができるのか。それを相談したい。拓斗の奴やその周囲の連中は、運動音痴でどうしようもないからな」
「あまり友人をおとすな、蓮」
「からかってるだけさ、あいつらを」
肩を竦めて笑う蓮の表情に悪意はない。
床に置いていた鞄からノートとペンを取り出した蓮は、罫線に沿って番号を振っていく。
その数字が十を超えたあたりで、和也も察した。
「全員、リレー」
「そういうことだ。男女混合、全員でバトンを繋ぐ全員リレー。それが体育祭の大きな花形だから、これを落とす訳にはいかないのさ」
「だからリレーに慣れている俺も一緒に考えることになった、ってことだ」
一年A組、総勢三十五名。その全員の特徴を大まかに把握している蓮と、全員の計測タイムを暗記しているという翔を併せて、どんどんと話は進んでいく。
一番最後の35という数字の横に置かれた"和也"という名前を、しばらくの間ぼうっと見つめていた。
自分が、アンカーかと。
これだけしっかり組んで、蓮と翔は真剣に議論を交わしていて。
それで、本当に自分がアンカーでいいのかと。
翔はともかく、蓮は間違いなく勝ちたいだろうに。
そう、悩んでいた。
「しかし、こうなるとB組の秋田陸を止められる奴がいなくなるぞ」
「というか、秋田の奴がどこで入ってくるのかがわからない。最悪最後の33、34、35を陸上部の渡瀬、錦戸、秋田で固めてくる可能性すらある」
「じゃあ俺が34に居ようか?」
「いやだめだ、そうすると中盤が薄くなり過ぎる。翔は中盤から動かせないから、後半はできるだけ速い奴を置くしかない。それでも、やはりどうなるかは分からないが……」
和也をさしおいて、蓮と翔の二人は相談を続けていた。
だが、問題はやはりアンカー付近。B組の陸上部四人のうち、三人が終盤でバトンリレーを繋いでくる可能性はどうしたって高いのだ。
そうすると、アンカーの負担はきつすぎる。
翔は腕組みをして、正面の和也を見て言った。
「薬師寺の負担が大きすぎるだろう。相手は陸上部三人だ。どうあがいたってバトンタッチはB組より遅いはず。どれだけの差をつけられても負けない自信があるなら、話は別だが」
ちらり。
翔だけでなく、蓮も和也を見る。
どこか思考に沈んでいた雰囲気の和也は、二人の視線に気付いて顔をあげた。
その瞳に一瞬窓からの光が差し込んで、まるで彼の意志を讃えているようで。
「それで、僕がアンカーやって、いいんですか?」
一瞬、静まり返る室内。
「……ははっ!」
「心配する必要、なかったな……」
思わず、蓮は笑った。
つられて翔も、口元を緩める。
何の心配も要らなかったのだ。
この男が居るのだから、問題などどこにもない。
こんな状況で、よく「やっていいのか?」などと不敵な発言ができるものだ。
けらけらと笑う蓮に続き、翔も相好を崩したのを見て、きょとんとしていた和也も思わず笑みを浮かべた。
その笑みが二人にはどうしようもなく不敵なものに見え、頼もしさを倍増させたのはまた別の話である。
さらに、予定より早くかえってきたリュウに対し、年上好きの翔が熱をあげるのもまた、さらに別の話だ。




