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五月第二週 平日


 和也はほっと息をなで下ろしていた。


 というのも、特に何事もなくバーベキューというイベントをこなすことが出来たからだった。

 相変わらず友達は出来ないが、それでも知り合いと呼べる程度の人間が出来て、何だか知らないがアウトドアにまで引っ張って行かれたのだ。


 それでも姦しい雰囲気が苦手で、ああいうきらきらした女子も苦手で、ちょうど貸し出していた釣り場に逃げてしまってはいたけれど。それでも、一歩前進だった。


 あとは、いつパシリが始まるのかとびくびくしているだけだ。

 何の陰謀で彼らは自分を連れ回しているのか、その意図が掴めないことだけが和也にとっての問題だった。


 今日も今日とて、朝のランニングは欠かさない。


 いつものメニューをこなし、こうして続けることだけが和也にとっての精神安定剤であった。

 何故なら、彼女を感じ、そして彼女を忘れることが出来るから。

 矛盾しているように見えて、調和しているこの感覚。


 それがたった一つの和也の逃げ道だった。


「ふ……ふ……」


 一定のリズムを刻んで駆ける。


 だんだんと日がのぼるのが早くなってきたおかげか、明るくなるのも早くなってきて、今日も快晴のようで背を温める日差しが心地いい。


 そういえば、今日も来ているのだろうか。


 ふと思い立って、トラックの出口にちらりと目をやった。


 和也が探しているのは、何故かは全く分からないがよくスポーツドリンクを持ってきてくれる優しい少女。

 ただ、その動機が全く不明なので怖いことには代わりがないし、もし期待して”実は誰かにあげる予定が、たまたま目的の人物がいないからおこぼれに与っている”とかそういうことだった場合に悲惨な末路が待っているので自意識過剰には絶対になってはならなかった。


 彼女が居たとしても、その可能性があるからには自分から話しかけるようなことはしない。何期待してんの、うざ。とか言われた日にはもう登校拒否になってしまいそうだ。


「……ふっ……!」


 ラストスパート。

 駆ける、駆ける、駆ける。

 トップスピードにまで持っていって、そして自らの定めたゴールを切ってからようやくスピードを落とす。


 軽く流すようにして出口に戻ってくると、聞き覚えのある声がかけられた。


「薬師寺くん」

「あ、はい」


 今日もいた。

 そのことにどうしてか小さく嬉しさがこみ上げてくるが、自分が笑ったところで変な顔にしかならないし、そのせいで気持ち悪いなどと思われたくないので自粛する。


「お疲れさま。見てたよ。速いね」

「いえ……そんなことは……」

「バーベキューの時に伊丹くんも言ってたよ。薬師寺くんが全力ならやれるって。体育祭、楽しみだね」

「そう、ですね」


 包み込まれてしまいそうなほど優しいこの笑みは、きっとクラスメートだから享受出来るだけのものだろう。

 間違っても、自分に気があるのではないかなどと思うなかれ。それはただの自殺行為に他ならない。


「リレーって、好きなんだよね。私も頑張らないと!」


 受け取ったスポーツドリンクは、絶妙な調節がされていて冷たく美味しい。

 それにしても体育祭。

 自らに気合いを入れるように両拳を握りしめる彼女は、ひょっとしたら体育祭というものに強い思い入れがあるのかもしれない。


 ということは、もしかしたら彼女が自分を待っていた理由は待ち人がこない為ではなく僅かな戦力にも声をかけようとしている為?


 もしそうだとするならば。

 和也は思う。

 目の前の彼女は、なんと献身的な人なのだろうと。


 邪で下心だらけの思考をしてしまっている自分とは違い、彼女は成し遂げたいことに向けてただただひたすらに懸命だったのだ。


 大した戦力にもならない自分にまでこうして声をかけてくれている。

 ひょっとしたら、毎朝走っているということでコンタクトが取りやすかったのかもしれない。


「わかりました。自分も、死力を尽くします」

「え、ちょ」


 深々と頭を下げる和也。


 彼としては敬意を表したつもりだったのだが、愛奈は少々たじろいだ。


 理由は当然まさかそんな反応をされるとは思っていなかったからで、気圧されながらも頷く。


「う、うん。よろしくね」

「はい」


 和也の真剣な眼差しに、少し恥ずかしくなって視線を逸らしつつ。

 ある快晴の朝、一つの小さな約束が為されたのだった。


 それは予想以上の膨らみをみせ、体育祭へと影響を及ぼしていくことになることを、愛奈は知らない。

















 初夏の日差しが照りつける昼下がり。昼食を終えてから最初の授業は、喧騒と太陽のもとで行われることになっていた。


 体育。


 スポーツに力を入れているだけあって広い校庭は、100mトラックが四つ作ることが出来、二つのクラスが合同で授業を行うことになっている。


 男子と女子は当然分かたれており、普段は体育館競技と校庭競技を交互に行うのだが、今日のような日は例外の一つであった。


「……」

「薬師寺、期待してるぜ?」

「……? は、はい」


 ぽん、と肩を叩かれて和也が振り返れば、自らと同じジャージに身を包んだ伊丹翔の姿があった。彼の短髪とほどよく日焼けした肌にジャージはとても似合っており、普段の和也の寝間着同然のジャージとは比べるべくもないことが嫌というほどよく分かる。


 それにしても、期待とはいったい何だろうか。


 首を傾げつつ周囲をぐるりと見渡すと、隣のB組と合同の授業であるからか名前も顔も知らない相手が多かった。


 そんな中で今日、何をやるのか。


「次、A組伊丹! B組江藤!」

「はい」

「はいっす!」


 体育教師の大きな声に呼ばれた翔が、和也に軽く挨拶だけして背を向ける。

 彼が向かう場所は、白線の終着点にして始点。

 B組の江藤という少年と並んで、二人でクラウチングの構えを取る。


 そう、今日はタイム測定の日であった。


 心地の良い快音とともに、弾かれたように二人の選手が飛び出す。

 一直線の距離は短く、50mしか無い。

 その短距離のタイムを計ることこそが、今日の体育の趣旨であった。


 体育祭に向けて、誰が速く誰が遅いのかを見定める為であろう。


 翔は江藤という少年を圧倒的な差をつけてゴールインした。

 その瞬間、別のトラックで計測をしているはずの女子たちから黄色い声が飛ぶ。江藤という少年はとてもやりにくいだろうが、他人事ではない。

 和也もきっと、対戦相手と比較されて何らかの反応を受けることは分かっている。

 惨めなことにはなりたくない。

 だから、せめて負けないようにしないといけなかった。

 そして、勝ちすぎて反感を買うのもよくなかった。


 とはいえ、勝つことは難しいだろうが。


「伊丹5.79! 江藤7.42!」


 タイム計測の結果が叫ばれると同時に、ひときわ声があがる。

 やはり翔も人気者なのであろう。

 悔しくもありうらやましくもあり、なんだか劣等感のようなものを抱いてしまうのは仕方がないことだ。なぜ自分なんかに優しくしてくれるのか、その答えは未だにでていないまま。


「……」


 そんな中、和也は人知れず自分の足下に目を落とす。

 勝つのが難しいのは、自分の相手が速いからではない。

 そもそも和也は相手が誰なのかも知らないし、そこに問題はなかった。

 ただただ、問題は自分の足下にあった。


「間違えて履いてきちゃった……」


 ぽつりと呟いた、哀愁漂うその台詞を聞いた者はいない。

 和也の視線の先には、自らのローファーがあった。


 そう、ローファーである。

 今日が体育であることは分かっていて、大事にしているランニングシューズを持ってきていたのだ。

 翔や愛奈の期待にせめて報いることが出来れば。ちょっとでも、足を引っ張らないようにしなければ。


 そう思って持ってきていたというのに、体育前に襲われた腹痛のせいで慌てて出てきてしまい、ローファーで体育をやる羽目になっていたのだった。


「……どうしよう」


 そう考えている間にも、順番はどんどんと迫ってくる。

 薬師寺、という名前のおかげで一番最後ではあるが、それはそれでプレッシャーだ。


 そして、もし己が失態を演じてしまったら。

 優しくしてくれている翔や、わざわざ朝にも来てくれた愛奈の顔に泥を塗ることになる。

 それは許されなかった。


 どうか、自分の相手がイケメンではありませんように。


 イケメンとぶつかって、B組の女子から……いや、A組の女子からも総スカンを食らってしまっては叶わないのだ。


「やあ翔、相変わらず速ぇな」

「あん? ああ渡瀬。お前最後だろ、残念だったな」

「何がだよ」

「いや、別に」

「はあ?」


 最後、という言葉にぴくりと反応して顔をあげれば、近くで翔が一人の少年と会話を楽しんでいた。

 視線はレーンに向けられ、次から次へと走っていく生徒たちを視線で追いながら。

 仲がいいのだろうかとも思ったが、ちらりと渡瀬という少年を見て絶句した。


 スタイルもよく、サッカー部のような雰囲気の好青年だった。

 はねっけのある髪、端正に整った顔。


 確か、B組の人気者ではなかったか。


「最後! A組薬師寺! B組渡瀬!」


 つくづく、嫌な予想ばかり当たるものだ。


 内心でため息を吐きながら、とぼとぼと和也はレーンに向かった。

 隣には、先ほど翔と話していた少年。

 お互い知り合いでもないのだ、無言でクラウチングの姿勢を取る。


 こちらはローファーの上に、相手はバリバリの体育会系。しかもイケメンと来たもんだ。

 周囲には女子や走り終えた少年たちの目がたくさん。

 ここまでのアウェーもなかなか無い。


 ふう、と息を吐いて前を向いた。

 一直線の先にあるテープ。あれを切ることはおそらくかなわないだろう。ならばせめて、隣の彼に差をつけられないように必死に食らいつくだけ。


「……難易度高いな」

「えっ?」


 隣の少年が何か反応したが、知ったことではない。いつピストルが鳴るか分からないのだ。


 切迫した状況に、終止符。



 快音。


 飛び出すタイミングはほぼ同じだが、ローファーのせいで滑り一歩が確実に遅れてしまう。

 ぐん、と左隣に影。

 これ以上離される訳にはいかない。


 思いの外、速く追いついた。


 ふと気づく。


 もしかしたらこの少年、そんなに足は速くないのでは?


 それならば勝てる、とそこまで考えて、脳内で素早くその考えをかき消した。


 もし自分のような人間が勝ってしまって、周囲からの視線に耐えきれる自信はまるでない。


 だから、徹底してこの少年と互角の戦いを演じる。


 また、影が和也を半歩抜き去る。


 そして、そのまま抜き去ろうとした。


 スロースターターか!


 徐々に速度はお互いあがっているとはいえ、その幅が尋常ではない。


 出だしで手を抜いたのが祟った。


 ローファーが滑る。


 ここからは全力でいかなければ大差で負ける。


 そう思えばこそ、和也は足の回転を早めた。


 ぐんぐん近づくテープ。


 そのまま、ゴール、抜き返すか。


「渡瀬6.01! 薬師寺6.08!」


 テープには、触れなかった。


 失速と同時に、ほっとする。

 僅差で敗北。相手が速かったとは思えないが、惨めな結果にはならず。そして何より、周囲のヒーローを見る目は渡瀬に向いていた。


「……」

「……?」


 その渡瀬が、ゴールを切った後意味ありげな視線を送ってきたが、それにガンを返すような度胸は和也には無い。


 そのまま踵を返した彼にほっとしつつ、和也は振り返って、息を止めた。


 微妙な顔をした翔が居たからだった。


「どうしたんだ、薬師寺」

「え……あ……いや……」


 翔の呟いた言葉。

 その意図を、和也は察してしまった。

 先ほどまで翔は、渡瀬という少年と仲良く話していたではないか。

 つまり渡瀬の足が遅いことも、翔は知っていておかしくない。


 それなのに、そんな彼に敗北を喫してしまった自分。


 せっかくバーベキューの日に発破をかけてくれた翔に、申し訳ない気持ちでいっぱいで何を言っていいか一瞬脳内が空っぽになってしまう。


「……あの」

「ん?」


 しかし、ここで何も言わずに引き下がってはだめだ。


 まずは、謝る。誠心誠意を込めることこそ大事だと、和也は分かっていた。


「ごめんなさい。悪目立ち、したくなかったんです」

「ん? ……あ! そういうこと、か!」


 頭を下げると、翔の声のトーンが変わる。

 何か自分は間違ったことを言っただろうか。


 不安になりつつ顔をあげると、翔は何故か納得のいったような楽しそうな笑みを浮かべていた。


「伊丹、くん……?」

「いや……俺が悪かった。ありがとう」

「えっ」

「なるほどなるほど。はは、お前ほんっと、最高だよ。バーベキューの時の言葉、覚えていてくれたんだな。体育祭では絶対に勝つ。その為にはこの計測すら布石。俺が悪かった。ほんっと、頼もしいよ」

「えっと」

「ありがとな、薬師寺」


 ぽん、と肩を叩いた翔はそのまま群衆の中に消えていく。


 取り残された和也は、しばらく呆けてその背中を見送っていた。










 その翔を、背後から呼び止める影があった。


 振り返れば、釈然としない表情の渡瀬の姿。

 中学時代からの友人で、同じ陸上部で研鑽を積む仲間のその表情に、翔は思わず笑ってしまった。


「……お前、計測の前に「残念だったな」っつったよな」

「ああ、言ったな」

「あれって要は俺の対戦相手の話か?」

「ま、そうだな……勝ててよかったじゃねえか」


 にやにやと笑う翔。そんな顔をすること自体、珍しいのだ。

 ならば、渡瀬の中にくすぶる疑心は、真実味を帯びる。


「……あの薬師寺って野郎、俺との競走前になんて言ったと思う?」

「ん?」


 声が疑問調に変わる。

 本当に何も知らなさそうな翔に向かって、渡瀬はため息混じりに言った。


「"難易度高いな"だとよ。俺にギリギリで負けるのも折り込み済みだったとしたら……お前、体育祭ガチかよ」

「俺の発案じゃねえよ。薬師寺がやってくれたんだ。それにお前こそ気づいてたか?」

「何がだよ」

「いや、気づいてないならいいや」

「あ、おい!!」


 集合がかかったことを良いことに、翔は渡瀬に背を向けて、誰にも聞こえないように小声で呟く。



「あいつ今日、ローファーで走ってたぜ?」



 ローファーで、手を抜いて調整して、6.08。おまけに"ごめんなさい"と来た。


 どれだけの化け物なのだろうと、翔は一人口元に弧を描いた。

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