第93話 日野愛梨ことアイリーン・ウッドエルフ
「とりあえず木の上に登っていなよ。安全だから」
「な、なんであなたの命令を聞かなくちゃいけないんですかっ」
目の前で地面にめり込んで暴れる巨大猪。それよりも手前、胸元に抱き寄せた日野愛梨もポカポカと俺を殴って暴れている。やめろって、今はじゃれ合っている場合じゃないだろ。大人しく言うこと聞いてほしいんだけどなぁ。なぜ日野愛梨がここにいるのか、聞きたいことは多々あるが現状そんな暇はなく、切羽詰っている。猪が再び暴れ狂う危険もある。なるべく遠くへ逃がしたいのだが反抗的態度でいつもの如く毒を吐く日野。本当にやめておくれ、あなたに構っている余裕はないんだよ。はぁ、仕方ない。
「跳ぶから口閉じてな、舌噛むぞ」
「え、ちょ、待って」
胸元で暴れる日野を抱きかかえるように引き寄せて足に力を加える。背中走る痛みを堪えながら真上の木へと乗り移る。日野を木の幹へ乗せて俺自身は再び地上へ。
「そこで大人しくしてろよ。すぐ終わらせるから」
着地と同時に舞い上がる木の葉は木々の間を抜けていく微風に乗って少しだけ浮遊、ゆらゆらと落ちていく。蠢く猪、まるで馬が声高く嘶くように大気を劈く悲鳴が肌を突き破ってくる。まだまだ元気なようだ、タフだなおい。そうでなくちゃこちらとしてもやる気が出ない。いや、殺る気が出ない。腰につけた矢入れに素早く手を突っ込む。指先をくすぐるように矢羽が絡んでスッと滑らかに矢を一本取り出す。その間に既に反対の手に持った弓で狙いを定めて矢を添え、放つ。
「だからなんでそんな早撃ちで当たるのよ!」
上から日野の野次が飛ぶ。それよりも先に宙を飛んだ矢は猪の右目を射抜いた。よりさらに大きな悲鳴が空間を埋め尽くし、力の入らない前足で地団駄を踏む。猪突猛進をするには足がボロボロだ。ごめんな、でもこれが弱肉強食の世界だ。弓を放り捨て、猪に目がけて走る。三メートル程手前で腰を落とし、足先から滑るようにして接近。木の葉が広がるように舞ってトンネルができた。足先が猪の喉元へついた瞬間に腰から一気に力を込めて足裏で顎を蹴り上げる。痛みが走る背筋、けど関係ない。酷使して力を加える。さすがに巨躯な図体だけあってさほど宙には浮いていない。丸めた体を僅かな隙間へ入れて猪を下から持ち、上げ……ぐおっ、背中が……! 歯を食いしばれ俺、頑張れ。背中にのしかかる猪の全体重、重みで足腰の骨にヒビが入りそうだ。ぐおおぉと唸る鳴き声と生温くて湿った息が後頭部に当たる。悪いな猪、弱い者は強い者に屈する自然の摂理に従ってもらう。こっちだって命がけで狩りしているんだ。足腰を落として重くのしかかる負荷を背中から腰へと下げる。右手を上へと伸ばし、顎や剛毛を触り、牙へと届き、しっかりと掴む。堅固な牙は先端が土まみれだった。牙を掴んだ右手を下へ引っ張る。腰をテコにして猪の巨体を宙へと持ち上げ、
「うおらぁ!」
片膝が崩れ落ちて地へ着きながらも片方の足で踏ん張って巨体を支える。残りの左手で猪の鼻柱を持ち、猪の体を真っ直ぐ頭から地面へと落とす。地と猪の頭部がぶつかって大地が揺れた。轟音に大気と樹木は震え、重さから解放された全身が毛穴から熱気を出すのが分かった。メキメキと骨の軋む音と地面が割れてめり込んでいく。猪は頭頂部から真っ直ぐ地面へ落ち、そのまま前へと盛大な音を立てて崩れ倒れた。……さすがにこれで仕留めただろ。あー、背中と足が痛い。
「ふー、疲れた」
地面へと倒れた猪は動くことなく、死に絶えた。自身の体重が頭にのしかかって潰れたらさすがに耐えられなかったみたい。この巨体を持ち上げて投げるのは骨が折れたよ。まあ実際には折れてないけど。でも体中が痛い、久しぶりの狩りで体がビックリしたみたいだ。鍛錬不足が目に見えてる。はぁ、しんど。
「……な、何よアンタ!」
「え? ぶべぇ!?」
頭上がぎゃあぎゃあうるさいので見上げれば日野が飛び降りていた、俺目がけて。うおおおっ!? 日野のお尻が鼻へと着陸、整ったナイスな鼻だけで勢いを吸収出来るわけもなく顔がめり込んでいく。ぐおおおお首が飛ぶ首が飛ぶ! グギッて嫌な音が耳の内部から聞こえたぞおい! 首ごと全身も持っていかれて地面へと倒れる。い、息が出来ん……。見事なまでに顔面を覆い尽くす日野のヒップ。
「あ、ごめん」
「いいから早くどけよ」
ぷぱぁ、森の空気が美味い。痛む箇所が二つ程増えてしまった。背中と足と鼻と首が痛い。目を開ければ日野がこちらの顔を覗き込むようにしてじっと見つめていた。やっぱり日野愛梨だ。人間界で出会った猛毒を吐く女子。黒髪が風に揺れて川の水が流れるようにサラサラと宙を踊る。なんで人間界在住である人間の日野がここにいるんだよ。……はぁ、忘却魔法を使うか。こんなところで使いたくないんだけどな。世話のかかる馬鹿だなホント。
「で、日野。人間のお前がどうしてここにいるんだ。記憶消す前に聞いといてやる」
「……アンタ、まだ分かってないの?」
は? 何がだよ。上体を起こして日野を見れば心底呆れたように半目がこちらを睨んでいた。相変わらず不機嫌そうだなお前。
「私もエルフよ。アイリーン・ウッドエルフ、私の本名よ」
「……」
「……何か言ったら?」
「うえ!?」
は? は!? え、エルフ? 誰が、あなたが、僕が!? え、何を言っているんだこの子は。目の前には黒髪でジト目の少女、エルフの特徴である茶髪が該当しないぞ。茶眼は人間にしては珍しいなーと思っていたけど。え、マジで?
「でもその髪……」
「これ染めてるの。人間の国だと目立つから黒に染めたのよ。地毛は茶色」
「だ、だってお前茶髪は嫌いって言ってたじゃん」
「それは本来黒髪の人間が茶色に染めてエルフの真似をしているみたいで嫌だったの! 茶髪の人間が嫌いなだけ、あとアンタも!」
「おい顔面蹴るなよ」
逆ギレだ、こいつ逆ギレしやがった。座り込んでいるこちらの顔面へミドルキックを放ってきた日野愛梨ことアイリーン・ウッドエルフ。清水程の勢いと鋭さはないので軽くガードして防ぐ。手加減したのか? 清水だったら遠慮なく全力の蹴りを放ってくるぜおい。ガード貫通して首に抉り込むキック、恐ろしい。
……にしても日野がエルフだとはなー。信じられない。でも実際に本人がエルフ宣言している以上それが事実なのだろう。今思えば山で会った時に気づくべきだった。俺と同じように自然を満喫する為にわざわざ薄暗い裏山に登る人間なんていない。そこで同族だと気づくことも可能だったはず。そして日野からすれば茶髪で茶眼の俺がエルフだと気づけたわけか。俺が気づかず人間として接してきた間、日野自身は俺のことをエルフだと認識して接してきていたのか。なんか恥ずかしい。
「アイリーンだから愛梨なのか。安直だなおい」
「テリーだから照久のあなたに言われたくありません」
それもそうだな。いつも通り、人間界でしてきたように毒舌の日野。正体がバレても接し方は変わらないのか。本当に可愛げのない奴だ。見た目は可愛いのに残念だよ。
「村長さんとか妹が心配してたぞ。なんでこんなところに来たんだよ」
「あなたから逃げる為です」
はあ? なんで俺から逃げるんだよ。正体バレたくないから? 別にいいじゃん。
「エルフだと分かっていたけど、まさかあなたみたいな馬鹿が族長の孫だなんて最悪ですっ」
「ホントお前ってどストレートに意見言うのな」
相変わらず毒吐きやがって。もっと感謝の言葉とか出てこないのか。それなりに一生懸命頑張って猪の脅威からあなたを守ってあげたの俺なんすけど。
「う、テリー君……大丈夫かぁ……」
「俺的にはトフィニさんに大丈夫かと問いたいのですが」
うぅ、と呻き声が聞こえ、大人達がもたもたと拙い足取りで立ち上がろうとしていた。どうやら皆さん怪我はしたけど大事には至っていないようだ。巨大猪の突進で全員が吹き飛ばされた時は儚くて哀愁が漂ったよ。トフィニさん含む精鋭の皆さんは立ち上がり始めたとはいえまだフラフラと足元が覚束ない。無理して立ち上がらなくていいですよ。もう倒しましたから。
「す、凄かったよ。移動しながら矢を撃って当てるだけではなく、前足にピンポイントで当てるなんて……。恐ろしいまでに質の高い速射能力と精密射撃、そして行動範囲の広さ。さすが族長の孫だよ」
脇腹を押さえて呼吸も苦しげながら必死に長文を読み上げていくトフィニさん。そ、そこまで無理して誉めなくてもいいですって。あれくらい出来ないと爺さんがうるさいんですよ。
「はぁ、疲れた。つーか逃げるだけなら違う家の部屋に匿ってもらえば良かっただろ。なんでこんなところまで来たんだよ」
「せっかくだから森の守護石を見ていこうと思って」
「森の守護石ぃ?」
何それ、なんか凄そう。へぇ、祭壇とかに奉られているのかな。ちょっと見てみたいかも。
「俺も見たい。ちょっと案内してよ」
「いいですよ。こっちです」
珍しく日野が文句一つなく頷いてくれた。お、嬉しい。日野の後をついて森の奥へと入っていく。
「ち、ちょっと待ちたまえ二人共。まずは一度村へ帰って」
「あ、皆さんそこで休んでいてください」
トフィニさん達がよろめきながら後を追ってこようとする。まあまあ無理しないで休んでいてくださいって。ちょっと見てすぐ戻ってきますから。トフィニさん達に会釈して日野と並んで進む。こっちの方か。森の守護石、どんなものか楽しみだ。