第89話 十の四の森
「おお、森やん」
思わず日本界の関西風な口調になってしまったがそれだけ感動しているってことだ。ここは人間の住居から遠く離れた森のさらに奥深く、陽の光りもあまり差し込まない深緑の世界。木の匂い花の匂い葉の匂い、あらゆる懐かしい匂いが血流のように全身を駆け巡る。テンションが上がりまくりだ。やっぱり森の空気は美味い。人間界とは大違いだな、肺いっぱいに吸い込めば自然と笑顔になってしまう。清水達と遊びに行ったキャンプ場の森も良かったがエルフの森は桁違いに空気が澄んでいる。圧倒的差だ。田中と斉藤くらい……まあこれは前にも言ったからいいや。とにかく森としての質が高いってことだ。
春休み、せっかくの長期休暇を皆はいかがお過ごしだろうか。部活にバイトや遊び、勤勉な奴は勉強しているかもしれない。俺はといえば爺さんの命令に従ってエルフの森へとやって来た。生まれ故郷の森ではない、全く知らない森だ。他のエルフに挨拶してこいと爺さんに指令を受けたのでこうして渋々赴いた次第。いやー長かったよ。着くまでに三日はかかった。エルフの聖鞄に色々と詰め込んで人の気配がなくなった辺りでエルフの正装に着替え、ひたすら歩いた。爺さんのくれた地図が正しいならこの辺がエルフがひっそりと隠れて住む場所のはず。四方八方どこを見渡しても木に林に森、木々が生い茂っている。あぁ、幸せ。ここの空気は容器に入れて持ち帰りたいくらいだ。そういえば人間界では山の山頂の空気を詰めた缶詰みたいなのが販売されているらしい。発想が人間と同じでちょっと悔しいな。そんなことは放置プレイでいいとして、とにかくエルフの森へと入っていくか。
「えーっと、確か入口を開く呪文があるんだよな」
鞄から爺さんのくれた手紙を取り出す。ムカつく内容の書かれた紙とは別に数枚程同封されていたうちの一つを開けば最初の一文目に『開門の呪文』と書かれていた。この広大な樹海の全域全てにエルフが散らばって住んでいるわけではなく森のさらに奥の奥のまさに奥々、そこに集落を築いて住んでいるはずだ。集落というか村? そんな感じですわ。人間にバレないよう隠れて過ごしており、エルフの集落は一筋縄では見つけられないそうな。もし人間が何かの間違いで森の中に入ってきた場合どうするか? その為にエルフの村には侵入者を防ぐシステムがある。先祖代々伝わる幻の力、エルフ幻力とやらを使って集落を隠しているのだ。原理とかそんなのはよく分かんないっす。その辺はまだ爺さんから習ってないので。とにかく普通に歩いても入口には辿り着かないのだ。ゲームのダンジョンでよくある迷いの森みたいなやつだ。いくら同族のエルフとはいえ勝手には入れないらしい。そこで必要なのは開門の呪文。それを唱えればグワァンワァ~ンと空間が歪んで村の入り口が現れると爺さんの手紙に書いてあった。早速やってみよう。
「えーゴホン、あ、あー……。木の葉散る幽遠の境地 揺れて消える霖雨切り開くは十並ぶうちの一つ!」
これで合っているのかな? まあなんかそれっぽい呪文だから頑張って詠唱するけどさ。
「コオロギの死体 カマキリの卵 混ぜてお湯に溶かしてみよう とろける湯気と悪臭 眩む午後のお昼寝タイム」
……本当に合っているよなこれ? 詠唱文ふざけているようにしか聞こえないのだが。不安になるが頑張って唱える。
「かさぶた舐めて ほんわり笑顔で明日も良い天気 隣の家に唾吐いて逃げようぜ 開門せよ十の四の扉! ……こ、これでいいんだよな?」
最初はカッコイイと思ったのに途中からダサイ呪文になった気がする。一通り書かれてある開門の呪文を唱えてはみた。が、特に反応や変化はなし。風に吹かれて木々の葉が揺れるだけ。森は静穏に包まれたまま何か起きる気配すらない。……一分程待ってみたが入口は現れない。あれ、呪文これで合っているよな? ちゃんと一言一句間違えずに唱えたはず。確認の為爺さんの手紙を読み直すと、
『※開門の呪文は心を込めて大声で三回唱えるように』
※マークを使っているのがイラッとくるがまあいい。どうやら一度唱えただけでは効果がないようだ。心を込めて大声で三回だって。森への慈愛を胸に、腹から声を出して、噛まずに呪文を轟かせよう。ふー、はぁー、
「木の葉散る幽遠の境地 揺れて消える霖雨切り開くは十並ぶうちの一つ! コオロギの死体 カマキリの卵 混ぜてお湯に溶かしてみよう とろける湯気と悪臭 眩む午後のお昼寝タイム かさぶた舐めて ほんわり笑顔で明日は良い天気っ 隣の家に唾吐いて逃げようぜ 開門せよ十の四の扉」
これで二回目。続けざまに息を大きく吸い込んで間髪入れず、
「木の葉散る幽遠の境地 揺れて消える霖雨切り開くは十並ぶうちの一ぉつ! コオロギの死体 カマキリの卵 混ぜてお湯に溶かしてみよう とろける湯気と悪臭 眩む午後のお昼寝タイム かさぶた舐めて ほんわり笑顔で明日は良い天気! 隣の家に唾吐いて逃げようぜ 開門せよ十の四の扉ぁあ!」
これで三回目だ。ごほっ、あ、ヤベなんか喉詰まった。急に大声で叫ぶものじゃないな。声帯に変な負担かかっちゃった。何はともあれこれで入口が開くはず。他の森から使者がやって来ましたよーっと。さあ開け、グワァンワァ~ンと空間が歪んで目の前の森林が村へと変わるはずだ。さあ出でよ。
……ん。どうした。
…………もうちょい待ってみよ。
………………いや、あと三分くらい待とうぜ。
……え、いや。これさすがにおかしい。呪文を唱え終えて直立不動しているが全っっっく変化がない。静か過ぎる。おいおい沈黙の春じゃねーか、読書感想文で引っ張りだこになってろ。え、本当に何も起きないぞ。おいジジイ、これで本当に合っているんだろうな。
『※三回も叫べば不審に思って誰か来るのでそこで普通に自己紹介すればいいよ』
おいいぃ!? ふざけるなよクッソジジイ! そして※マーク使うなっ、イラッとするから異様にイラッとするから! 要するに奇天烈な言葉を叫び続ければ誰か気づくってことだろ、呪文とか関係ないじゃん。何が開門の呪文だよ、恥辱の呪文じゃねーか。元気よく大声でかさぶた舐めようとか言っていたよ俺? 超馬鹿じゃん、確実にヒソヒソ話されている。「なんか今さ村の外でキチガイな奴来てるけど?」みたいに言われているぞこれ。ヤバイヤバイ、絶対変質者扱いされている。人間の世界だったら警察沙汰になっているぜおい。あのクソ野郎ぉ、血が繋がってなかったら眼球にパンチしてるからな。実の孫ハメやがって、とんだ辱めを受けた。急いで弁解しなくては!
「あ、すいまっせん間違えました。全然正常ですから、僕イカれてませんよ! テリーです、テリー・ウッドエルフって言います。十の一の森からやって来ました。この度はご挨拶に参りました! ちわすっ」
垂直に体を曲げてお辞儀する。ヤバイ、これはヤバイ。出来る限り誠意を見せないと本格的に拒否られる。ここまで来て門前払いは次期族長候補として恥ずかしい。早急に頭を下げて自己紹介をする。同じエルフ族だよとアピール。た、頼む……これで変化なしだったら本当にお終いだよ。せめて何か反応……を?
「なんか空間が歪んでる?」
頭を上げれば目の前の林がぐにゃ~んと右に捻じ曲がったり左に反れたり、空いた中央部分に大きな波紋が浮かんで次第に集落のような姿が……あ、門が出てきた。木で作られたアーチ、奥の方では小さな子供達が楽しげにかけっこをしている。そして門番のように立っている大人が二人、茶髪で茶眼だ。間違いない、ここはエルフの森。うおおおおぉ、爺さんとネイフォンさん以外にエルフ見るのは小さい頃以来だ。これ全員エルフなんだよね、なんか感動っ。すると一人がこちらへとやって来た。少しだけ不審そうな顔している……。かさぶた舐めないんで大丈夫です。唾とか吐かないので安心してください!
「君は……十の一からやって来たのかい?」
短く刈られた髪の毛と高い鼻、三十後半代ぐらいの精悍な顔つきの男性はそう言った。肩には弓矢を抱えて腰には短剣、何より俺と同じような服を着ている。おお、会話してる。今エルフとお喋りしているよ絶賛トーク中だわ。十の一とは俺が住んでいる森を示している。各地に点在するエルフの森は十ある。それぞれの森を番号で呼び分けていると爺さんから聞いた。ここは四の森で、俺の郷里は一だ。
「あ、はい」
「一の森からの訪問は十一年ぶりだな……。族長は元気にしているかい?」
「ああうちの爺さんですか。まあ、はい、元気です」
「あの方の孫ということは君が次期族長のテリー君か。お会い出来て光栄だよ」
すると手を差し伸べられた。おぉふ、これは何だ。とりあえず握手しておく。なんかよく分からないが歓迎されているのかな? コオロギの死体とか叫んでいたけど挽回出来たようだ。
「自己紹介が遅れてすまない、私は門番をしているトフィニ・ウッドエルフだ」
「私はシェパール・ウッドエルフ、よろしく。詳しい話は中で聞こう。ようこそ、十の四の森へ」
門番さんがニコリと微笑んで中へと誘ってくれた。テリー・ウッドエルフ、初体験の瞬間であった。




