第142話 静かな鎮守の杜は、二人の約束の場所
「行ってきます!」
部屋を飛び出して走り出す。
「あ、こらテリー待ちなさ……ぐぇ、胸やけがぁ……!」
「父さん無理しないでください。私が様子を見に行きますから」
「ぐおおぉ、てかお前が変なもの食わせるからじゃろうが!」
「やっぱエルフのジジイに揚げ物やパンは辛かったかな。テリー君は美味しそうに食べていたのに」
「外は車や人間で危険がいっぱ、うぷっ!?」
「心配しなくてもテリー君はもう通い慣れていますよ。今日も神社に行っているのでしょう」
「い、いいから早く後を追えい馬鹿ネイフォン!」
「はいはい父さんは寝ていてください。昨日十の四の森から帰ってきたばかりなのですから」
「姫子、遊ぼーぜ!」
「あらテリー君、いらっしゃい」
玄関が開いて姫子の母さんがニコニコと笑っていた。
美人で姫子と同じサラサラの綺麗な黒髪だ。
「姫子はいますか?」
「いつも遊びに来てくれてありがとねー、姫子ったら最近はもう元気でねー」
綺麗な人だけど話は噛み合わない。
勝手に喋りながら俺をニコニコと見つめる。どうしたらいいんだ。
「テリー」
「あ、姫子」
「早く上がって。お母さん、お水とクッキーください」
「はいはいテリー君の好きな『森林の天然水』ね」
姫子に手を引かれて家の中へ上がる。
連れて来られたのは姫子の部屋。そこには俺達が楽しみにしているものがある。
「今日はぜってー俺が勝つ!」
「私も負けない」
ゲームだ。
人間の国にあるゲームと呼ばれるもの。仕組みは何一つ分からないけど、一つ言えることはこのゲームってのはとても楽しい。
コントローラーを操作してお気に入りのキャラクターを選ぶ。
「頑張れモリオ!」
赤い帽子のおっさんを操作して姫子のキャラクターに向かっていく。
パンチやキック、時折火の玉を出して攻撃を繰り出す。けど姫子のブービィは全て避けてカウンターをしてくる。
あっという間にモリオは宙を舞って死にそうになっていた。
「ストーン強過ぎる、それ卑怯だぞ!」
「そんなことない」
「う、クソ、あ……また負けた。もう一回だ!」
うん、と答えてくれる姫子。
姫子と出会って一週間が経った。爺さんは知り合いに会いに行くと言って昨日までどこかに行っていた。その間俺はネイフォンさんの家でお世話になった。
それから今日まで、姫子と一緒に遊んでいる。
「ハンマー! ハンマー強い!」
「……」
「あっ、だからストーンは駄目だって!」
吹き飛ぶモリオ。負けて悔しがる俺の横で姫子はクスクスと笑っている。
人間の女の子で、体が弱い姫子。
あまり外で遊べないからお母さんがゲームを買ってくれたらしい。
「ぐうう、勝てない……」
「テリーも強いよ」
「でも一回も勝てない! 姫子いつもゲームしているから強いんだろ?」
「ううん、一人じゃあまりしない」
「そうなんだ」
その後も姫子に挑み続けたが全く敵わなかった。どうやったらこんなにも強くなるのだろうか? 動きが全然違う。
お手伝いで丸太を運んだり弓の練習もしているのに、ここでは意味がないや。
ゲーム機って不思議だなー、人間の世界は不思議なことだらけだ。
「また負けた、もっかい!」
「駄目、ゲームは長時間しちゃ駄目なの」
そう言って姫子はコントローラーを置いてゲーム機を片付け始めた。
結局、今日も勝てなかった。連日挑み続けるけど一回も勝てた例がない。
この場合、人間に負けたってことで俺は悔しがるべきなのだろうか? エルフのこうきでそうめいなプライドを汚されたと涙を流すべきなのか。
うん、たぶん違うと思う。
それに俺はもう泣かないんだ。
「……テリー、お散歩しよ?」
「いいよ」
姫子の手を家から出る。目指すのはすぐ近くの林。
ゲームした後はこうして外に出て姫子と散歩している。
姫子の母さんがニコニコと笑う横を抜けて林の中へと入っていく。木々と葉に囲まれて幸せな匂いに包まれる。木、枝、葉、さらさらと流れていく空気が心地好く、上から差し込む太陽の日差しが少しだけ眩しい。
「おんぶしようか?」
「ううん、まだいい。もう少し自分で歩く」
「そっか」
「……ちゃんと手握っていてね?」
姫子はぎゅっと手に力を込める。弱々しいけどしっかりと俺の手を掴んでいる。
手の平から伝わる姫子の体温、温もり。
姫子を引きながら歩いていく。地を踏みしめるように、温かさを噛みしめるように。
落ち込む森から抜けて爺さんに連れて来られた見知らぬ世界。ここへ来て一週間、楽しい。
父さんと母さんが死んで、死んでいなくなったことを実感して、ずっと泣いていた俺が今は笑っている、楽しいと思っている。
この手が掴む温もりを知ってから……姫子と出会ってから、毎日が楽しいんだ。
「……っ、テリー」
「任せろー!」
姫子をおんぶして木の上へと跳ぶ。しっかりと幹に足を置いて着地。
どうだ!?と言った顔で後ろを振り向けば笑顔の姫子が小さく頷いてくれる。
両手で俺に覆いかぶさるように抱きつき、俺の肩に顔を乗せる。そして小さく細い声で、テリーと呼んでくれた。
それが何よりもたまらなく、好きだった。
「見てろ、今日はあそこの木のてっぺんまで登ってやるぜ!」
「うん」
跳躍して風が吹く。俺が姫子を支えて抱えているはずなのに、俺が支えられているような感覚だった。姫子から元気をもらって、気持ちが楽になって、森の空気を肺いっぱいに吸い込むよりも心地好かった。
「どうだ、ここの林の中じゃ一番高いぞ」
「……わぁ、街が一望出来るね」
高い位置にある姫子の家。そこの一番高いところ。木のてっぺんから眺め下ろす景色はすごかった。人間の住む世界が視野いっぱいに広がっていて、変な建物がずらーりと並んでいる。
「テリーの家はどの辺り?」
「俺の家は見えないや。もっと遠くの森の方なんだ」
「……いつかテリーの家に行ってみたい」
「いいぜ! じゃあ今度は俺ん家に来いよ。案内してやるよ」
「でも遠いんだよね? 私、辿り着けないかも」
「だったら俺がおんぶして連れて行ってやるよ。約束してやる!」
「……本当?」
「うんっ」
ここの林よりも大きくて広くて深くて、空気がキレーなすごく良い場所なんだ。きっと姫子も気に入る!
そんなことを話しながら俺達は木の上を渡り歩いて行った。
「俺、もう泣かないって決めた。泣いても父さんと母さんは帰ってこない」
「……うん」
「だからこれからは笑って過ごすことにした!」
「うん」
もう泣いたりしない。そう決めたんだ。
空は広く青く、鳥がすいすいと飛んでいく。眺める俺と姫子の横を風が通って木々の揺れが足先に伝わってくる。
「テリー、風気持ち良いね」
両腕をさらに深く俺の胸元へ回して姫子がぎゅっと抱きつく。
前へ、前へ、より近くへ。顔を出して頬をすり寄せてくる。俺と姫子の頬、つけ合って変にくすぐったい。でも嫌じゃない、とても幸せな気持ちだ。
「あ、そうだ姫子!」
「?」
俺は服のポケットからある物を取り出す。
今日はこれを姫子に渡そうと思っていたんだった。
「……それ、何?」
「ふふっ、見て驚け。これはエルフの宝玉だぜ!」
空にかざす緑色のペンダント。爺さんが俺にくれた物だ。
とても貴重でエルフにとって非常に大切な石を使って作ったペンダントらしい。
俺の為に爺さんが作ってくれたと母さんから聞いたことがある。なぜかその時母さんは呆れていたけど。
「……わ、私にくれるの?」
「おう!」
姫子はペンダントを受け取ると首にかけてくれた。
キラキラと輝く緑色の宝石。姫子はうっとりと、そして嬉しそうに微笑んでくれた。
「ありがとう。でも、本当にいいの……?」
「いいんだよ。ほら、これは俺の分」
今度は服の下からペンダントを取り出して姫子に見せる。
姫子にあげたペンダントと同じ形同じ色。
「昨日ネイフォンさんに頼んで一つのペンダントを二つに分けてもらったんだ。俺と姫子でお揃い!」
昨日ネイフォンさんは俺がペンダントを見せると驚いていたが、すぐにニヤニヤと笑って「父さんも馬鹿だわぁ」と言った。そして協力してくれてペンダント加工して二つに分けてくれた。
「へへっ、いいだろ?」
「うん、とても、素敵……」
二人で宝石をかざして、そして合わせる。カチッと小さな音を立てて宝石は合わさって一つになる。澄んだ緑の石は太陽の光を浴びてキラキラと美しく輝く。
「……テリー、ありがと」
これは私からのお礼、姫子がそう言った直後だった。
次の瞬間、頬に何か当たる。潤っていて滑らかな感触。姫子の唇がそっと俺の頬に触れていた。
「っ!? な、ななななななっ!?」
「ありがとね、テリーっ」
あばばばばばばば!? き、ききききき……す!?
突然の出来事に思わず倒れてしまいそうだったが、ここで倒れたら危ない。
なんとか踏ん張って意識を保つ。
ひ、姫子……何を……っ、うぅ。
「そ、そろそろ戻るか?」
「……もう少し、こうしていたい」
照れ隠しに提案したら姫子はさらにぎゅっと抱きついて今度は頬をすり寄せてくる。弱々しい、けれど芯のこもった温かい声が真横から吹き抜けていくのを感じた。
「……そうだな。もう少し、このまま」
景色を眺めて、時折二人でペンダントを見つめて、合わせて。
ニコッと笑ってずっと木の上で過ごした。
「て、テリー! やっと帰ってきたか!」
ネイフォンさんの家に戻ると爺さんが騒がしかった。
俺に近づくと周りをぐるぐる回って何やら叫んでいる。
「怪我はないか? 人間に変なことされなかったか? 車とか電車とかは!?」
次々に質問してきてどれから答えていいか分からない。
とりあえず回る爺さんの長髪が宙を流れていく様は面白かった。
大丈夫だよ、とだけ答えて部屋の中へ入っていく。中にはネイフォンさんが変なものを吸いながら静かにニコリと笑って「おかえり」と言ってくれた。
「ただいまネイフォンさん」
「そろそろ晩ご飯にしよう。今日はチキン南蛮弁当だ~」
チキン南蛮? よく分からないけどとても美味しそうな名前だ。きっとセンスが良いお弁当に違いない。
ネイフォンさんから受け取って弁当を食べる。美味しい!
「まあ無事ならそれでいいんじゃが。おい馬鹿、ワシの分は?」
「はい、ジジイの体を労わってヘルシーな弁当買ってきましたよ」
ゴミが散らかって狭い部屋の中、三人で食事をする。
爺さんは黙ってモソモソと弁当を噛んでその隣でネイフォンさんが変な飲み物を飲んで痺れている。俺もチキン南蛮を頬張る。
人間の世界の食べ物は美味しいなぁ。今まで食べたことのないものばかりだ。
「聞いてよネイフォンさん、今日も姫子に勝てなかったんだ!」
「ははっ、そうなのかい」
「それでね、今日も林の中散歩してさー」
「おんぶするのはいいけどあまり危ないことしたらいけないよ」
「? なんで俺がおんぶしたこと知っているの?」
「ん、んん? そ、それは……あはは、どうしてだろうね~?」
慌てているのか、容器を倒してしまうネイフォンさん。黄色の液体が白い泡を立てながら床に広がっていく。どうしたんだろ?
「ねぇネイフォンさんってば」
「テリーや、聞きなさい」
箸を置いて爺さんが静かに口を開いた。先程までの狼狽えた焦りの色はなく、ひどく落ち着いていて棘のように刺さる声だった。
思わず口を閉じて爺さんの方を向いてしまう。
飲み物を零したネイフォンさんも黙ってしばらくの間静寂が狭い部屋に充満した。
「明日ここを出る。森に戻るぞ」
「…………え?」
時間が止まったように思えた。時間も声も空気も、俺の周りはピタッと止まって意識が薄れていく感覚。
爺さんの放った言葉の意味が胸に食い込んで、何か吐き出したいのに声を出せずにいた。
「爺さん、え、な、なんで?」
「この馬鹿にお前の顔を見せて、ワシの別件も昨日片付いた。もうここに用はない。だから森に帰る」
「……っ、嫌だ。ねぇ、もう少しここにいてもいいだろ? 別に明日じゃなくても」
なんとか絞り出した言葉をきっかけに、次々に思いが溢れ出て自分自身むせ返りそうなくらいだ。
淡々と話す爺さんの顔は何も物語っておらず感情が見えない。それでも俺はひたすらに言葉を吐き散らしていた。
ただ、ただ、ここにいたいと叫んでいた。
「駄目だ、ワシは族長じゃ。いつまでも森を空けていくわけにはいかん」
「じゃあ爺さんだけ帰ればいい。俺はまだここに残るから。ネイフォンさんいいよね?」
「テリー!」
「っ!?」
爺さんの大きな声に全身が跳ね上がって固まった。
「ワシらは何じゃ? 人間か? そうじゃない、ワシらはここにいてはいけない存在なのじゃよ。エルフが人間の世界に住む必要などない」
「私は住んでいますけどね」
「茶化すな馬鹿息子! とにかく、明日には出発じゃ。準備しておくのじゃ」
そう言い放って爺さんは空の弁当箱をネイフォンさんに投げつけた。もじゃもじゃの髪の毛で受け止めるネイフォンさん。
普段なら笑えたのに、今は……どうしていいか分からなかった。
ここを出る? 森に戻る?
確かにそうだ、ずっとここに住むわけじゃない。そんなこと分かっていた。
でも、でも、違うんだそうじゃない。俺は、俺……姫子と、
姫子と、お別れしなくない……!
夕暮れ、木々の影が長く伸びてオレンジ色の光りが微かに差し込むだけの空間。
俺は立っていた。姫子と向き合って。
「ごめん……俺、帰らないといけないんだ」
微かに差し込む光りが俺と姫子を照らしていた。
痛いくらいに静かな林の中、姫子は何も言わずじっと俺を見つめている。
俺は、俺は……嫌だ。だけど、俺はエルフだから……。
「俺と遊んでくれてありがとうね。すごく楽しかった。また……一緒に遊ぼうね」
「……うん」
「……今度会った時はもっとたくさん遊ぼうよ」
「うん」
「それでさ、またあそこ行こうよ、それから、それで……」
だからせめてお別れの言葉を伝えようとここに来た。姫子と一緒に遊んだこの林、鎮守の杜で。
体は動けずに口だけが妙に動く、言葉を出してくれる。
でもその勢いは次第になくなって、言葉に詰まる。何を言えばいいのか分からない。
気持ちは一つのはずなのに、言いたいことは決まっているのに。
今にも泣きそうなのを堪えて、ちゃんとお別れを言いたいのに、なのに、
「えっぐ……ぅっ、さよなら、したくない……っ」
涙が溢れて前が見えなくなってしまう。涙が止まらない、止められない。
もう泣かないって決めたのに、この子の前でそう言ったのに。
悲しくて、嫌で、どうしようもない思いが弾けそうで、辛い。
もっと、ずっと、姫子と一緒にいたい。
「……私も、テリーとさよならしたくない。まだ、ずっと、遊びたい」
気づけば俺と姫子は手を握っていた。
ゆっくりと指が絡んで両手が温かく、それでも涙は溢れ出る。
姫子はそっと顔を前に出して、俺も同じようにする。二人の額が合わさって視界は姫子の顔だけだ。俺に優しさと温もりをくれた、大切な人の顔。
俺はこの子と一緒にいたい。この子が、姫子が好きだ。
でも一緒にはいられない。だって俺はエルフで姫子は人間だから。
……もう、分かっていることだ。住む世界が違うのだから。こうして出会えて一週間だけど、二人で笑って過ごせて、それだけでも十分の幸福のはずだろ。
だから、お別れをしなくちゃいけない。
零れる涙よ、いい加減に止まれ。自分に言い聞かせて俺は決意する。
「うぅ、ひっく……もう、行かなくちゃ。時間、ない」
「……」
手を離し、指がほどけて姫子から離れる。その軌跡を追うようにして姫子の指が宙を泳ぐ。
再び手を繋ごうとする姫子に向けて俺は首を振る。
来ないで、もう、いいんだ。君の温もりは十分にもらった。本当にありがとう。
その思いで見つめる。見つめる先の姫子は、泣いていた。
「っ、嫌だ……」
いつも無表情でたまにしか笑わない姫子が、今は涙を流して泣いていた。
悲痛そうで悲しそうで、俺と同じ、辛い表情だ。……ごめん、そんな顔を、させたくなかった。
「また会えるよ」
そんなことはない。
「ずっと一緒って、約束した……!」
本当に、本当に……ごめん。
「ごめん、俺と君は暮らす場所が違うから。でも、いつか……大きくなったら、会いに来るから。それからはずっと一緒にいようね」
約束するよ。また会おう。
でも俺は分かっている、知っている。そんなこと出来ないと。
もう姫子と会えるわけがない。俺は森で一生過ごしていくのだから。
でも約束するよ。俺は約束して、それを覚えている。
でも君は……姫子は、覚えていなくていいんだよ。
その悲しみを覚えていなくていい、忘れて、しまえばいい。
俺が忘れさせてあげる。この忘却魔法で。
「や、約束だよ……絶対迎えに来てね……っ」
「うん、約束。俺は覚えているよ。でもね……」
腕を上げ、指先を姫子に向ける。
願え、願うんだ。俺との思い出、時間、この一週間の出来事。
この子の記憶から忘却してくれ。
記憶を消す魔法の力を、俺は願った。
忘却魔法が……発動した―――
あぁ、そうだ。そうだった。思い出した。
俺はあの時、忘却魔法を使ったんだ。
姫子から俺に関する記憶を消そうと、俺の存在を消そうとした。
でも、出来なかった。
姫子の泣く姿を見て、やっぱり本当は俺自身も悲しくてどうしようもなくて。
「だから俺は忘却魔法を使った…………自分自身に」
俺は自分に忘却魔法をかけたんだ。
あの時、ネイフォンさんと出会って姫子と出会って、姫子と二人で過ごした記憶を消したんだ。
一生に一度しか使えない忘却魔法を、自分自身に使ったんだ。
忘却魔法が発動し、俺の意識は暗闇に落ちていった。その刹那、途絶える視界の端で見たのは……泣きじゃくる少女と、淡く輝く翡翠色の石。
「あ、ああぁぁあ……そんな……」
どんどん溢れる様々な感情、想い。
それが心の中を満たしていき、涙となって零れていくのが分かる。
そんな中、一つ分かったことがある。知ってしまった、俺にとって耐え難い事実。
「うぐぅ、ぁ、ぁあぁ、姫子……っ」
一生一度の秘術。それを俺は俺に使用した。対象は俺、人間界で過ごした記憶を消去。
そうだ、記憶を消したのは俺だけだ。
じゃあ……姫子は?
忘却されていない姫子は……ずっと、ずっと覚えていたんだ。
俺との出会い、ゲーム、散歩、あの幸せな時間と温もり。そして約束を。
「ずっと……ずっと……っ、姫子は……!」
そのことが、その事実が、俺はたまらなく辛かった。
俺だけ忘れていて、でも姫子は……っ
「……忘れたことないよ、テリー」
ぎゅっと抱きしめてられた。ぁ……あ、ぁ……この、温もり、だ。
「テリーと出会えたこと、一緒に過ごしたこと、私にとって大切でかけがえのない素敵な想い。ずっと……待っていたよ、またテリーに会える日を」
「ひめ、」
「病弱で一人ぼっちだった私に温もりをくれた、太陽のように笑って手を握ってくれた、大好きなテリーを一日たりとも忘れたことがない。毎日ずっと想い続けた」
涙が止まらない。
記憶が蘇ったから? 違う。そうじゃない。
姫子はずっと覚えていたんだ。俺のことを……あの日からずっと。
「一年前テリーが転校してきた時、すぐに分かったよ。嬉しくて心臓が止まりそうだった。あの時すぐに抱きつきたかった。でも……テリーは私のこと覚えていなかった」
っ、そうだ……俺は覚えていなかった。忘れていた。
姫子はずっと覚えていてくれたのに……それなのに……!
俺だけ辛い思いから逃げて、姫子はあの日からずっと辛い思いをしてきたのに。なのに俺は……っ!
「ごめん、ごめん姫子……っ、俺が……ぅ、うぅ」
「……いいの、こうして、テリーと触れ合えて、また温もりをもらえた。再会してからの一年間、幸せだった」
涙が落ちる。
俺の涙と、姫子の涙。
抱きつく姫子が顔を上げ、嬉しそうに幸せそうに、そして切なげに、涙が頬を伝う、愛おしげな表情がそこにあった。
「だから、これからはずっと、ごほ、っ……けほ」
「ひ、姫子!?」
「もぅ、待つのは嫌だよ、テリー……わ、たし、辛かったけど頑張っ、げほげほっ!」
咳が止まらず、薄く青ざめた顔、額に汗が滲んでいる。
姫子の容態が悪化している。泣いている場合じゃない、テリー!
俺は! 何をすべきか分かるだろ。
悲しみから救ってくれた、幸せと温もりをくれた、大切な姫子の為に!
「おんぶするから乗って」
「っ、待っ……て、まだ伝えた、いことが、ある……っ」
「それは俺もだ。言いたいこと、話したいこと、たくさんあるんだ。だから!」
鎮守の杜から抜けて家の前に跳びつく。大声で姫子の母親を呼び、駆けつけてくれた母親が救急車を呼ぶ間、俺は姫子を抱きしめた。
「もう迷わない。自分から逃げない。ちゃんと伝える。だから……だから!」
真っ青な顔の姫子が救急車に運ばれていく。
その姿をずっと見つめ、涙を拭って俺は見つめた。
もう、逃げない。だから、待っていて姫子。
あの約束した場所で、俺は君に想いを伝える。