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第140話 別れの忘却魔法

「元気かいテリー君」


「……ネイフォンさん」


部屋に入ってきたのはネイフォンさん。Tシャツ一枚とチノパンと涼しげな服装、今日は眼鏡を外している。


「眼鏡はどうしたんですか」


「私は元から伊達眼鏡だよ別になくてもいいのさ」


「じゃあ普段はどうして眼鏡しているのですか?」


「みすぼらしげに見えるから」


ホームレス色を濃くしたいだけかよ。

俺が溜め息を吐いている横に座ってネイフォンさんはビール缶を開ける。

穏やかで静かな午後。何もせずただ家で無意味に時間を過ごす俺に一体何の用だろうか。


「すまないね、私が叔父であること黙っていて」


「……気にしてませんよ」


そうかい?と言ってネイフォンさんはビールを飲み始める。昼間から酒飲むとは自由気ままですね。

のんびりとしている様がとても……羨ましい。


「俺の親父が兄なんですよね。だから俺を助けてくれたんですか」


「それもあるけど爺さんから頼まれてね」


「……そうですか」


「元気なさそうだね」


そりゃそうでしょう。

去年の十月からここで過ごしてきた。最初は嫌だった人間界もいつしか楽しい日常となって、それがこれからも続くと思っていた。

けれど終わりがやってきた。爺さんに森へ帰れと言われた。

族長の命令は絶対。従うほかない。

何よりも、エルフの俺がここにいて良い道理はない。俺は次期族長であり、誇り高きエルフの民なのだから。


「クソジジイはどこですか?」


「あの爺さんは私の部屋で寝ているよ。高齢に長旅は応えたんだろう」


そう言って直後にはビールを飲み込む喉の音。ごきゅ、ごきゅ、と気味の良い音が俺のところにまで届く。

爺さん、森を出て人間界に来た。俺を迎えに、俺を連れ戻す為に……。


もう分かっていることだ。決まっていることだ。俺は森に戻るべきだと。

爺さんが俺を人間界に旅立たせた目的はゲーム機の為ではなかった。俺に人間界で人間について学ばせ、森を離れて違う世界に触れることで俯瞰した広い視野と知識を身につけさせる為だ。

十分だ、と爺さんは言った。俺はこれ以上ここにいなくていいと言った。腐っても族長の命令だ。逆らってはならない。


「去るべきだ。んなこととっくに分かっている。けど、けど……!」


嫌だ。ここを離れたくない。この世界にいたい。

いつからだ、俺はいつからこんなことになった。

最初はあれだけ毛嫌いしていた人間の国が今では森の同等に好きになっている。姫子や清水と別れたくない。まだ一緒にいたい。

学校に行って放課後はグダグダして休日は遊んで……もっと美味しいものを食べてもっと楽しいことをやって、楽しく生きていきたい。


「ネイフォンさん、俺……ここが好きです。姫子と清水が大好きです」


森しか知らなかった俺が見つけた大切なもの。テリー・ウッドエルフでは掴めなかったもの。木宮照久として過ごした十ヶ月、本当に楽しかった。


爺さんの言う通りだ。俺はこの世界に愛着を持ってしまった。印天堂65なんて二の次だった、今を楽しもうと精一杯だった。

ただ、皆でグダグダ過ごす日常が本当に素敵で、ただただ楽しくて……。


森に帰りたくない。まだここにいたい。嘘偽りない、俺の本心だ。


「……爺さんから言伝を預かった。明日の夕暮れ、ここを出る」


「っ……!」


「部屋の片付けは私が任された。退学の手続きもすぐに終わる。催眠魔法を使えばより円滑に事済む」


「ね、ネイフォンさん……?」


ビール缶が落ち、床を転がっていく。

俺の横でネイフォンさんは……歯を噛み締めていた。

いつも見せる、あのヘラヘラした顔ではなく、茶色の瞳が俺の方向ではなく向かいの壁に向けられていた。何も捉えず、独り言のようにネイフォンさんは言葉を紡ぐ。


「すまないテリー君、族長命令だ」


「……嫌です。俺はここに残ります」


もう包み隠すのはやめだ。

確かに人間の国は嫌いだった。人間は多くて暑苦しいし人混みは未だに吐き気がする。奇妙な建物と危険な乗り物には冷や汗をかく。おまけにゲーム機探して恥をかく始末。

けどさ、俺はそんな世界が好きだ。好きになってしまった。

姫子と清水と、二人がいる世界が大好きだ。あいつらと一緒にいたい。


「森、誇り、それよりも大切なものを俺は見つけたんです。手に入れたんです。俺はここで暮らしたい、傍に……いたい」


「……君が何を言おうと爺さんの命令は絶対だ。ちゃんと言伝は伝えたよ」


ゆっくりと立ち上がってネイフォンさんはドアへと向かう。

俺とは目を合わせず、ビール缶を拾って部屋から出ていこうとしている。

……何やっているんだ俺。ネイフォンさんに言ってどうする。何を言っても、何をやっても、爺さんの命令は絶対だ。


「私は今からライデン君と爺さんを連れて飯に行ってくるよ。少年、一つアドバイスしよう」


ドアを開けたところでネイフォンさんは立ち止まり、その場で語り出す。

ドアの隙間から差す太陽の日差しを浴びてボサボサの茶髪が金色を帯びて輝く。


「君は幼い。一人ではどうしようもない時がやって来る。その時、嫌だ嫌だと喚いて何になる? 一人でどうしようもないのに一人で喚いて何が起きる?」


「……でも俺には」


「何も出来ない、かい? なら大人しく明日を迎えるしかない。今しか出来ないこと、やり残したことはないのか?」


「……」


「大切なものに今会うべきではないのかい? あとは君次第だ」


途中で停止していたドアが再び動き、そして閉まる。

部屋に残されたのは俺だけ。重量感ある家電製品に囲まれて布団の上で俺はただじっとしているだけ……そうじゃないだろ。

せめて最後、明日ここを去るなら……やるべきことがある。


俺は立ち上がってネイフォンさんの後を追うようにして部屋を出た。











陽の光りが赤みを帯びてきた。時刻は午後六時にさしかかっている。

俺は神社にいた。姫子の家だ。


「病院帰りなんだな」


「うん。……ずっと待ってたの?」


「言いたいことがあって来た」


神社に続く階段を登り本殿ではなく、その横の木々。

ここは鎮守の杜と呼ばれる場所。正月の時、俺が姫子と会った場所だ。

夕日が差し込んで木々は影を薄く長く伸ばし、その影の中で俺と姫子は立っている。


「……言いたいこと?」


「……」


もう抗えないなら。族長命令に従うほかないなら。明日ここを去るなら。

最後に、姫子には伝えなければならないと思った。伝えようと決意した。

目の前の、小さくて可愛くて物静かで病弱な……俺にとって大切な人に、告げるんだ。



別れの言葉を。



「気づいたんだ」


姫子が大好きだ。最初は委員長と呼んでゲーム機を奪う相手だった。目的を達成するのに必要な人間、その程度の認識だ。

一緒にゲームして買い物して気づけば照久、姫子と呼び合うようになって。やたら俺に話しかけてくれて俺も姫子と一緒にいて一緒に過ごして……この子が大切な人になった。

体が弱くて咳もよく出る。無表情で無言のくせしてたまに積極的で思いのほか強い力で俺に掴まってきて。たまにだけど、俺に向けて微かに笑う。姫子が好きだ。


「だから言わなくちゃならない」


ここを去る。それが叩きつけられて、ネイフォンさんに言われて、頭に浮かんだのは姫子の姿だった。

森に帰りたくない。ここにいたい。


そして、姫子と一緒にいたい。


だから、だから言わなければならない。


「俺、明日ここを去る」


握り拳が痛く、胸も張り裂けそうな程痛い。はっきりと告げた言葉は口先を削って地面へ嘔吐物の如く落ちた。

痛い、痛い。どうしようもなく痛い。


「実家に帰ることになった。もう会えないと思う」


痛い、張り裂けた傷口が痛い。胸元が、信じられない程痛い。

でも言うんだ。別れの言葉を告げろ。

姫子が好きだから、大切だから、最後の別れはちゃんとしろ。

喉も唇も舌も。渇いてザラザラして気持ち悪い。言葉ではなくて悲鳴を上げそうになる。


……だけど!


「今まで仲良くしてくれてありがとう。さようなら、だ」


全て、言いきった。姫子に告げようと考えていた言葉全て、出し切った。

胸が痛い、口先が染みる。涙が、零れそうになる。


でも俺は言った。最後のけじめをつけた。


「急なことでごめん姫、子……え」


目の前の少女は消えていた。俺の、視界に移らないところ。胸元に飛び込んでいた。

小さな体が勢いよくぶつかって一粒の滴が宙を泳ぐ。あれは……涙?


「嫌、嫌だよ」


姫子は泣いていた。瞳から大量の涙を流して、声を上げて嗚咽を漏らして俺の胸元で泣き叫んでいた。

あの大人しくて静かで感情が表に出ない姫子が……大声で泣いている。

小さな体を俺にぶつけて密着させて、離れないようにして抱きつく。


「嫌ぁ、もう離れ離れになりたくない……っ、嫌だよぉ……」


「ひ、姫子」


決意が、けじめが鈍る。

姫子の震えにつられて俺の体も震え始める。姫子の涙につられて俺まで泣きそうになる。

嫌だ、俺も……姫子と離れたくない。


っ、あ、あぁぁあ、クソ!


ふざけんなテリー! 何考えてやがる!

お前は、俺は! 決めたはずだ、ここへ何しに来た!?

別れを、大切な人に別れを告げに来たんだろうがぁ!


「ぐすっ、えっぐ、もう嫌、なの、っ」


「……ごめん」


泣きじゃくる姫子の両肩に手を置く。ゆっくりと静かに姫子を引き離し、俺はもう一つの決意をする。


……使おう。忘却魔法を。


「悲しい思いをさせて本当にごめん」


姫子に泣いてほしくない。俺なんかの為に悲しむ姫子の顔を見たくない。

だから忘れさせるんだ。俺に関する全ての記憶、思い出。姫子の記憶を忘却させるんだ。


それが俺のせめてものの償い。自分勝手に去る俺の責任。

俺なんかの為に姫子が辛い思いするなんておかしい。

姫子、泣かなくていいんだよ。なんで泣くんだよ……。


「うぐっ、て、っ、ぐす、りー……」


なんで泣くんだよ。俺まで泣きたくなるだろ……っ!

もうこれ以上見たくない。もう、いいんだ姫子。

これ以上泣かなくていい。悲しい思いをしなくていい。


俺のことなんて忘れるのが一番良い。


「ごめんね。そして、今までありがとう」


大切な人。だからこそ、忘れてくれ。

さあ願え。エルフの心を、エルフの誇りを胸に、一つの思いを願うんだ。


必死に俺へ抱きつこうとする姫子を押さえつけながら、思いを一つにする。

ごめんね姫子。君の記憶を奪うような真似をして。

でも、これが一番良いんだ。だから……


「さようなら姫子」


発動しろ、忘却魔法。この子の、姫子の記憶から俺の存在を消せ――











「ぐす、ぁぁ、テリー……嫌だよ、っ」


……なんで、発動しないんだ。

切なげな泣き声が止まらない。姫子の涙が止まらない。

どうして、どうして忘却魔法が発動しないんだ。俺はちゃんと祈ったはず。姫子の記憶を消せ、と。


「ど、どうして。なんで、だ、うっ!?」


ふと手の力が緩んだ。その途端に姫子が俺の腹部に飛び込んでくる。

衝撃に耐えきれず俺は姫子を抱きかかえたまま地面へと倒れた。

倒れた後も泣き続ける姫子。泣きながらもがきながら俺の上を這いずって顔が迫ってくる。


「テリー、もう、っ、さよならは嫌だよ……!」


ぐちゃぐちゃの姫子の顔。涙で目は赤く苦しそうな顔。

辛い。どうして、ああ、やめてくれ。そんな顔をしないでくれ。

姫子、君にそんな辛い顔をさせたくないから俺は忘却魔法を……クソ、どうして発動しないんだ。なんでだよ。


「忘れろ、忘れてくれ!」


「私は、えっぐ、私は忘れない。テリーのこと、忘れてない」


輝く緑色の宝石。それは姫子の首元から垂れ下がっていた。




目を疑った。

夕日に照らされたその輝きは、翡翠色の森を彷彿させる淡くて清らかな色は、


「も、森の守護石……どうして姫子が……」


無意識に動く右手。服の下からある物を取り出す。

少しだけ重くて綺麗な輝きを放つ深緑の綺麗な宝石、森の守護石のペンダント。

俺は見つめる。自分の持つペンダントとその奥の、姫子が首から下げている宝石を。


同じだ。色も輝きも大きさも。間違いない。このペンダントの片割れだ。俺が持つペンダント、姫子が持つペンダント。元々一つだったもの。


「どうして、姫子がそれを持って……っ、っ!?」


突如襲いかかる謎の頭痛。あまりの痛みに頭が割れそうだ。

な、んだ急に。頭蓋骨の内側で脳が暴れて狂っているように、脳内全てで痛みが激しくのたうち回る。

あがっ、ぐ、一体何が起きて……


痛みに苦しむ中、視界に映ったのは緑色の宝石。揺れて動いて二つは重なり、一つの宝玉の形となる。

そして、姫子の泣く姿。俺に抱きついて大粒の涙を溢す。




「あぁ……そうだったのか」


涙が止まらない。姫子も、俺も。

なんて、なんて俺は馬鹿なんだ。どうして、こんなことを……っ。


二人の体は重なり、宝石が合わさる中。俺は目一杯姫子を抱きしめた。

なんだ、簡単なことじゃないか。

どうして忘却魔法が発動しないか。


「俺は、もう、忘却魔法を使っていたんだ」


エルフが一生に一度しか使えない魔法を、俺は既に発動させていた。

もう使い終わっていたんだ。

そんなことも忘れていた。大切な記憶と一緒に、忘れていた。


「全部、思い出した……!」


あれは、十一年前のことだ。


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