第113話 大切なもの
「……なぁ、もういい加減倒れてくれないか?」
あれから何発攻撃を受けただろう。
いたるところの骨が砕けて臓器も潰れかけている。息を取り込もうとするだけで喉が焼けるように熱く、あばら骨が軋む。
何度も倒れたせいで顔は泥だらけ、流れる血の上から泥が固まってなんとも不格好で無様な姿に成り果てているんだろうな。
「全ぜ、ん効いてねーぞクソシル、フ…」
口から零れるようにして垂れる血と唾液が切れた口先に沁みる。
感覚のない前肢とガクガク震える後肢を上手く扱えずに、それでも懸命に立とうとする。小鹿か俺。
惨めで不格好で汚い面になろうとも、両の足でしっかりと地面を踏みしめて前を向く。今の俺が出来るただ一つのことだ。
前を見れば如月の呆れた顔が飛び込んできた。
「しつこいんだよ。なんで倒れないんだ? もう気絶してもおかしくないはずだろ」
「俺もお前に聞きたいよ。さっきからダサイ技名ばっか言ってさ、よく恥ずかしがらずに堂々と叫べるもんだな。笑い過ぎて腹がよじれそうだ」
「じゃあ実際に腹よじらせてやるよ」
腹部に何かがぶつかってきた。
また風の弾丸か……がっ!? 続けて後方からも何撃か襲ってきてさらに左右からも何者かに殴られたような打撃が降り注いできた。
「――『空中演奏撃』!」
瀕死の体に追い打ちが加わり、衝撃が内臓にまで響いて嗚咽が溢れ出る。
全身の空気を吐き出されたようで一気に胸が苦しくなって視界に点々と黒い斑点が見え始めた。意識が飛ぶ寸前だ。
なのに、どうしてか立ち上がってしまう自分がいる。
膝に両手をついて持ちあげられない上半身をなんとかして支える。
どす赤く染まる雑草を見てなぜか笑みが零れて、ぐっと視線を前へと上げてしまう。
相手どころか自分自身にまで虚勢を張ってただ一つ、馬鹿の一つ覚えでヘラヘラと口元を緩ませて笑ってみせる。
おいおいどうしたシルフの王子様、もっと面白発言して腹筋壊れるくらい腹よじらせてくれよ。
「……どうしてそこまで出来る?」
ん? 攻撃している最中もずっと浮遊していた如月が地面へと降りる。
余裕の笑みに浸ったり激昂して歪んだりした顔が今はなんと、不可解なものを見る目で引き攣っていた。何ドン引いているんだよ。
青白い双眸が微かに揺れて目が泳ぐ。
「馬鹿じゃねぇか。どうしてそこまでして立つ。さっきの人間を守る為か?」
「ああ、そうだよ」
「それが馬鹿だって言っているんだよ。なぁ、考えてみろよ。ここは人間の世界、エルフのお前には何ら関係ない場所だろ。この国が滅びようとも俺やお前の国は何も関係ないはずだ」
「……」
「さらに言えば人間なんて森を汚して風を穢す、俺らからすれば害悪そのものだ。虫ケラ以下の存在だろうが! その人間を、虫ケラ以下の雑魚をなぜ助けようとする!?」
如月の言葉が突き刺さる。今までのダサイ技名や気取った台詞、風の攻撃なんかよりもずっと遥かに、心の奥へと刺さった。
……如月、お前の言う通りだよ。どうして俺はこんなボロボロになっているのだろうか。
関係ない、エルフの俺にとって人間の一人や二人どうなろうと一切関係のないこと。如月が工場や人間界を壊せば、空気の汚染が止まって寧ろ好都合のはずなのに。
どうして如月の邪魔をして、今こうして死にかけているんだよ。
虫ケラ以下の存在だと思っていた奴を助けようとして自分自身が虫ケラになってどうする。
……もう呼吸も止まりかけている。
ひどく浅い呼吸で微かな空気を吸い込む。不味くはないが美味しいと豪語出来る程ではない空気。
都市の空気と比べたらマシだけど故郷の森の空気には遠く及ばない、薄くて濁って汚れた空気だ。
木々に囲まれた裏山でも人間の汚染が届きかけている。せっかく森が浄化してくれた空気を汚しやがって、人間の頭はどうかしてやがる。
……いつからだ、そんな人間界に住むようになったのは。
いつからだ、ここの世界が住みやすいと思うようになってしまったのは。
手の痙攣を振り払い、膝を叩くようにして上体を起こす。
まだ、立ち上がれる。
「なんだよ、お前。どうかしてるぞ」
「確かにどうかしているよ。こんな汚い人間界に居過ぎたせいで脳がイカれてしまったのかもな」
如月に喧嘩を売って対立した時から何かずっと脳を掠めるものがあった。
ぎこちなくて、どことなく釈然としない違和感。それが何か、今やっと分かった気がする。
この汚くて嫌なことしかない国で、気づけば手にしていたものがある。
「そうだよ、お前の言う通りさ。人間界がどうなろうと人間一人殺されたところで俺は何一つとして困ることはない。お前の野望を阻止する理由もない。……人間界に来たばかりの、昔の俺だったら、な」
人間界へ最初来た時、心底嫌になった。
未知の国で理解不能な物体や建物ばかり。おまけに人間がうじゃうじゃと烏合の衆のように群がっていて吐き気がした。
車から吐き出される排気ガス、人間の嫌な熱気、どれもこれも不快で嫌悪で拒絶したいものばかりだった。
でも、そんな中で、俺は知らないうちに手にしたものがあった。
途方に暮れて混乱していた俺に手を差し伸べてくれたネイフォンさん、そして清水。
初対面の、しかも他種族の俺に対して清水は何も臆することなく手を差し出してくれた。茂みの中で警戒心丸出しの俺に、茂みの中へ手を突っ込んで差し出してくれた。
あの手を握った時、もう手にしていたのかもしれない。
この穢れて醜い汚れた世界で、気づけばかけがえのない宝物を手にしていた。印天堂65でも発電機でもテレビでもない、大切な品。
俺が十五年間、森の中で生きてきて、そして人間界へ来て初めて手にしたもの。
清水というかけがえのない大切な友達。馬鹿で非常識でどうしようもない俺の為に手を差し出して助言をくれたり人間界について教えてくれて、勉強を教えてくれたり困ったら助けてくれて、バイトも一緒にやってくれて休日はご飯を作ってくれた。
どうしようもないくらいたくさんの、恩をもらった。一生かけて償うぐらい、とても、大きな恩だ。
そんな清水は恩人であり、何よりも……俺にとって初めての友達だ。親友だ。よく笑ってよく怒って、理不尽な暴力を振るうこともあれば困った時には優しく助けてくれる。黒髪の長髪が良く似合う女の子。
そりゃ清水はあんな性格だから他の誰に対しても同じように優しく接しているのかもしれない。
けど、俺にとって清水はかけがえのない存在だ。
その清水を目の前のクソシルフは傷つけようとしている、殺そうとしている。そんなの黙ってみてられるか。
死んでもぜってー阻止してやる。
それに、清水だけじゃない。
「俺さ、秋頃に人間界へ来たんだよね」
「あ?」
「最初は汚くて人間が多くて、ああなんて嫌な世界なんだろうと思っていたよ」
でも次第に考えが変わっていった。
清水や姫子、あとついでに小金と出会って知り合って、人間界で暮らしていくにつれて俺の中で一つの思いが生まれた。
そりゃ汚れて人間多くて嫌なことだらけの世界かもしれないけど。でも意外と楽しいことだってある。
食べ物は美味しくて感動の連続、アニメやドラマや漫画も面白くてエキサイティングだ。姫子とスマビクで遊ぶの楽しいし清水とのショッピングも全然嫌じゃない。
空気を汚す人間が嫌いだった、森林を伐採する人間共が大嫌いだった。
でもその中で、見つけてしまったんだよ。分かってしまったんだ。
一緒にいると楽しくて、大切な友達を。
この腐った世界で小さく光る宝物を見つけてしまった。かけがえのない、宝物を俺は知ってしまったんだよ。
森を愛し、森を誇りに想い、森と共に生きる、それだけが使命だった俺にとって。森だけが守るものだった俺が、森以外にも見つけてしまったんだよ。誇りと命をかけて守るものが!
「そんな世界で守るべきものを見つけた、守りたいと思える大切な友達ができた! そいつら自身、そいつらの住むこの人間界が破壊されることは今の俺にとって森林伐採と同じくらい嫌なことなんだよ。だから俺は何度でも立ってみせる。エルフの誇りにかけてな!」
歯を食いしばって全身に力を込める。犬歯の隙間から漏れる血を無視して地面へと吐き捨てながら前方をしっかりと見つめ、立ち上がる。
やっとスッキリしたよ。ここ最近のモヤモヤが取れて脳内爽やかだ。
簡単なことだ、俺自身の意見が変わっただけさ。
大切な友達を守るのは森を守護するのと同じだ。だからこそ瀕死の状態でも奮い立ち、意識絶えることなく戦える。
戦うというよりは一方的なリンチを受けているだけだが。
「誇り、ねぇ。だったら俺もシルフの誇りにかけて邪魔する奴は容赦なく叩き潰さないといけなくなる。なぁエルフ、これが最後の警告だ。俺だって嫌なんだよ。空気を浄化し風を癒してくれるエルフの民は尊敬すべき相手で決して手を出したくないんだ。だからよ、さっきの人間をここに連れてこい。そうしたらお前を見逃してやるよ」
「絶対に嫌だ」
「……本当に馬鹿だな。じゃあもう、死ねよ」
大気が震え、風が鳴いた。気づいた時には横腹部に痛烈な衝撃がぶち込まれていた。
思いきり横へと吹っ飛ばされる。
「ぐっ、がぁっ!?」
あれだけ偉そうに語って啖呵切ったのに、もう攻撃に反応する気力すら残っていない自分が愚かに思えた。
地面へと叩きつけられて這いつくばる。
「っ!」
次の瞬間、感じ取った。真上から何かが降ってくるのを。
死にかけの意識が極限状態へと昇華し、直観力を増幅されてくれたかのようだ。
吹き飛ばされた勢いのまま地面を転がり、その場を離れる。
「『天馬の蹄』!」
地面がめり込み、雑草が無惨に散る。
蹄の痕跡が残る地面を一瞬視界に捉えてすぐに前を向く。
如月はこちらへ指を向けていた。また何かやってくるつもりだな。
研ぎ澄まされた直感が状況判断と同時に何をすべきか全身に告げてくれる。
転がってきた勢いを抑え、横へと跳ぶ為に左足を地面へと突き刺す。
が、膝が曲がって地面へ片膝がついてしまった。
勢いを殺すことが出来ず、足が負荷に耐えきれなかった。無惨にずり落ちた左足に引きずり込まれて体勢がいとも簡単に崩れる。
「……え?」
な、んでこの程度の切り返しが出来ないんだ?
意識は跳ぶはずだった右側へと既に向いており、上体も傾き始めていたのに。
困惑する思考は揺れ、けれど全身はピクリとも動かない。
直後、如月の指先から何か放たれたのを見た瞬間悟った。
死の淵に立ったことで感覚がどれだけ研ぎ澄まされていようとも、俺自身の体はもうとっくに死の淵を越えて限界を迎えていたことを。
「紡ぎ、積り、交わる、宙埋め尽くす無数の天橋。橋渡る空輪、古城の窓叩く風鈴、啼き散る音色が荒地に響く――『斬空流転(シルフィードナイフ)』!」
視界の端を鮮血が舞った。