白
「ねえ、ちょっと待って……」
足を止めて振り返ると、長瀬さんが教室のドアから体半分を覗かせていた。
「俺、今日塾だから」
さらりと嘘をつき、そのまま下駄箱へ向かう。
――一週間前、体育祭に向けての係決めが行われた。何でもいいやと思い、次々に呼ばれる係の名前を傍観していたら、残り物のパネル係に割り当てられていた。各色の陣地の後ろに立てられる、絵の描かれた巨大なパネルを作る係だ。やばい、一番面倒なのに当たっちまった。そう思った矢先、俺はいつもの通り超脇役に徹することを即座に決めた。
先ほど声をかけてきたのは、自他共に認めるクラスの幽霊、長瀬白菜だ。席替えのくじ引きではいつも四隅を引当てる。授業中に先生に指されたところも見たことがない。存在感が薄すぎて逆に目立つ、というわけでもなく、目にかかりそうな前髪や極度に白い肌も含めて、とにかく総じて幽霊なのだ。
当然クラスの奴らは彼女をからかう。幽霊、亡霊、存在薄子さん、男子も女子も言いたい放題。だから俺は関わらない。からかうのは嫌だが、彼女を擁護して自分もその対象にされるのはもっと嫌だ――
翌日、昨日長瀬さんを突き放した罪悪感を感じつつ放課後を迎える。体育祭まではとにかく時間がないため、作業は放課後の時間を使って進められる。
「じゃあ長瀬さん、あと三日のうちに下絵お願いね。それが終わったらみんなで色塗りに入るから。時間ないから急いでね」
パネル係のリーダー香川さんは長瀬さんに早口で指示を与えると、他のメンバーと共に早々に帰宅の準備を始める。では俺も……
「三井君」
う……。いや、今日も塾だから。今度は振り返らずにみんなに紛れて下駄箱へ向かう。
数分後、罪悪感に耐えることができなかった俺は視聴覚室の扉の前に立っていた。そっと中を覗いてみると、長瀬さんがちょこんと一人で座っている。裏側を木の棒で固定された大きな白い紙には、龍のような虎のような絵が奇麗に描かれていた。
「すげぇな。それ龍? それとも虎?」
長瀬さんはビクッと肩を揺らしてこっちを見る。
「うん」
うん……ってどっちだよ。
「これは白虎って言ってね、伝説上の生き物なんだけど、白組にピッタリだと思って。秋の象徴でもあるし」
初めて近くで聞いた長瀬さんの声は、少し鼻声がかっていて驚くほど可愛い。続けて俺は気になっていたことを聞いてみる。
「昨日もだけどさ、なんで俺に声かけたの?」
「え、えっと……三井君って、私と似てるから……」
え?
「なんか、雰囲気っていうか……私と似てる気がして」
そんな。俺も陰では幽霊と言われてるのかと思うと、背筋に軽く電気が走る。
「あのさ、手伝うことないなら俺帰るから」
「……え」
絵は描けているし、これ以上一緒にいてもリスクが増すだけだと感じた俺は、さっさと視聴覚室を後にした。
「何してんだ俺」
幽霊に似てるなんて心外だ。俺は無難に過ごしてるだけだっての。
三日後。白虎という伝説上の生き物は、どでかい紙の上に威風堂々と存在していた。どっかの美術館に飾られたものを持ってきたんじゃないか? そう疑うほどに鮮やかに表現されていた。
「すご……」
言いかけてリーダーは首を振る。
「な、なかなかいいじゃない。けどさ、私この生き物知らないし、色塗れないや。ごめんね」
は?
「ってことで、体育祭まであと五日。色塗ってちゃんと完成させてね。自分の描いた絵なんだから、責任は持たないとね長瀬さん」
言い終わるとリーダーは他のメンバーと帰宅の準備をする。
――いくらなんでも、それはないだろう。
長瀬さんは、すがるような目で俺を見る。俺は言ってやった。
「さぁて、今日も塾か。ダルイなぁ」
なんて情けない。けど無難に中学校生活を終えたいのが本音。グサグサと心臓に刺さるトゲに耐えつつ下駄箱へ向かう。
体育祭まであと二日となった放課後、俺は視聴覚室にいた。
「これさ、白って塗っても変わらなくないか?」
「ううん。塗らないと立体感とか出せないから、時間かかるけどやらなきゃ」
いや、本当に時間ないんだけども。
芸術品は着実に完成に近付いていたが、当日の準備を考えると、色塗りは今日中に完成させなければならない。焦る俺をしり目に、長瀬さんは淡々と作業をこなす。
状況の通りなのだが、リーダーが理不尽すぎるセリフを長瀬さんに吐いたあの日から、俺は毎日残って一緒に作業をこなしていた。かわいそうだからではなく、なにもしない自分が許せなかったから。
「急ごうぜ」
「うん。ありがとう」
そう言った長瀬さんの声は、今まで聞いたことないくらいに明るかった。
体育祭当日、リーダーの香川さんが休んだ。もしパネル賞を受賞してしまった場合、誰かがリーダーの代わりに全校生徒の前で一言感想を述べねばならない。
「お、俺は嫌だぞ。やらねーよ」
「お前副リーダーだろ。じゃあどうすんだよ」
メンバーの視線は長瀬さんに向けられる。
「これ作ったの幽霊だし、お前やれよな」
長瀬さんの顔がみるみる青ざめる。
おまえら本気で言ってんのかよ! 俺はメンバーに怒りをぶつけた。
――あくまでも心の中で。
体育祭が始まっても長瀬さんは俯いたままだった。
――気の毒に。いや、嘘だ。自分では気づいていたが、その感情を心の奥底へと閉じ込める。
各色の陣地を眺めると、炎の上に大きく羽を広げた赤い鳥と、青い渦の上に大きく口を開けた龍が描かれたパネルが見える。
話になんねーや。二つの絵は、長瀬さんの描いた白虎と比べたら幼稚園児の描いたそれそのものに感じた。
結局白組は、赤組、青組に続き三位となった。要するに最下位ということ。
しかしそんなことはどうでもよく、俺はその後のパネル賞の発表を待っていた。
「……最後に、パネル賞の発表です」
――来た。俺は長瀬さんの方に視線をやる。目を瞑って両手で胸を押さえている姿に、また心臓を絞めつけられる。
「大迫力の白虎を描いた白組です!」
やっぱり。そうに決まってる。百人いたら百人がそう言うさ。俺は喜びと不安という異なる感情を同時に抱く。
周りを見ると、立ち上がって大きく口を開けながらハイタッチをする他のパネル係メンバーが目に入った。
俺は数秒間、奴らをにらみつけていたが、すぐに気になる方向へ視線を移した。
長瀬さんは俯いたまま動かない。
発表終了後、全校生徒が集まる中で、朝礼台に一人一人上がって一言感想を述べる。まずは青組の応援団長。次に赤組の陣地係リーダー。
そして――
「パネル賞受賞の白組、お願いします」
司会者がそう言うと、静まり返る中ふわっと長瀬さんが立ち上がる。ゆっくりと朝礼台へ向かうその姿は宙に浮いているようにも見えた。生徒の数人、いや、数十人がくすくすと笑い合っている。
「すごく迫力のある絵でしたね。では、賞を受賞した感想をお願いします」
司会者が長瀬さんにマイクを渡す。
「……」
嘲笑うようなひそひそとした声がいたるところから漏れる。――こいつらふざけんな。俺はまた心の中で怒る。
「……あの」
ざわざわとした声は大きくなる。
「声ちっちゃ」
「マイクのスイッチ入ってないんじゃない?」
「幽霊にだけはよく聞こえてたりして」
――これじゃあ罰ゲームだ。
「あの……ほ、ほんとに、嬉しくて、今、幸せです……」
「よかったな! これで未練なく成仏できるじゃねーか!」
誰かが言い放った信じられない一言に、全校生徒が大笑いで呼応する。
朝礼台で俯く長瀬さん。スピーカーからは嗚咽だけが響いてくる。
――俺の怒りボルテージは限界を超えた。
立ち上がり早歩きで朝礼台へ上って、俯いて泣き続ける長瀬さんの左手からマイクを奪う。
そして眼を閉じて思いっきり息を吸い込む。
「ふざけんなてめーら!! 何がおかしい!? さっきまではおとなしく聞いてたくせに……長瀬が立った途端なんだよこれ!」
目の前では全校生徒たちが、呼吸を忘れたかのように静止している。
恥ずかしい? いや、それはない。
「特にパネル係メンバー! このパネル、作ったのは一から十まで全部長瀬だぞ! てめーら何もしてねぇだろ! 毎日毎日さっさと帰りやがって……てめーらにこの賞をもらう資格はねぇし、喜ぶ権利すらねぇ! 全部長瀬のもんだ! わかったら黙って話聞けよ!!」
今日一番の静まりの中、俺は息を切らしながら長瀬さんにマイクを返した。
「堂々と話せよ。次あいつらが口開いたら俺がすぐに押さえてやるから」
長瀬さんは呆然としながらこくりとうなずいた。
俺は自席に戻り、勢いよく椅子に腰かけた。両手をポケットの中に入れ、長瀬さんだけを見つめる。
周りから、これでもかというほどの視線を感じたが、もうそれも関係ない。明日から誰に何を言われようと、もう関係ないのだ。無難な中学校生活は今この瞬間に捨てたのだから。
片づけに入った夕方、俺と長瀬さんは白虎が描かれたパネルの前にいた。
「……ごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「明日から三井君も嫌な思いするかもしれないから……」
うう……
「そ、そんなこと関係ないって。俺が勝手にしたことだし」
冷静になったあとに事の重大さに気付いたが、もう遅い。
「でも……私本当に嬉しかった。ありがとう」
長瀬さんは充血した目で俺をまっすぐに見つめて微笑んだ。
後悔の二文字は、長瀬さんの小さな声と大きな笑顔によって頭から消えさった。
「ちょっとそこの二人! パネルの前に並んで座って!」
気づくと俺と長瀬さんに対しカメラが向けられていた。俺たちは言われるがままにパネルの前に並んでしゃがみこむ。
「はい笑って!」
そんなすぐに笑顔なんか作れないってば。長瀬さんなんかもっと無理だろ……
そう思って隣を向くと、そこには両手でピースをしながら満面の笑みを浮かべる初恋の女の子がいた。
なんて乱雑で浅い文章力だろう。
今読むとそう思います。
いやー成長したんだなぁ。