婚約者を七年お世話したら、ひとりでは朝も起きられない男が完成しました
婚約者のアルフレッド様は、朝が弱い。
だから私は、毎朝七時に公爵家へ使いを出す。起こすのは従僕の仕事だけれど、何時に起こせばいいかを決めるのは私だ。その日の予定から逆算して、紙に書いて渡す。
七年、そうしてきた。
起こす時刻だけではない。
アルフレッド様のご友人の誕生日は、私の手帳に全部書いてある。贈り物も、私が選んで、アルフレッド様のお名前で届けている。
夜会のときは、予備の手袋を二組、私の小物入れに入れていく。アルフレッド様は、よく手袋をなくされるので。
誰かと口論になりそうなときは、翌朝に届けるお詫びの手紙を、前の晩のうちに下書きしておく。使わずに済んだ下書きは、引き出しに溜まっていく。今、三十二通ある。
友人のカミラには「あなた、婚約者というより執事ね」と言われたことがある。
執事はお給金をもらっているでしょう、と言い返したら、カミラは黙ってしまった。言い返したつもりはなかった。
その日も、侯爵家の自分の書斎で、自分の書類を片づけてから、アルフレッド様の分に取りかかった。
南方伯への返書。来週の園遊会の席次。晩餐での挨拶文。騎士団への寄付の礼状。
正午を過ぎたころ、アルフレッド様がいらした。
「リディア。今日の晩餐、服は?」
「衣装室に。濃紺の上着を出してあります」
「挨拶文は」
「上着の内ポケットに」
「南方伯への返事」
「昨日、出しました」
「金は」
ペンが止まった。
「……何にお使いになるのですか?」
「友人と、少し遊ぶだけだ」
「先週も、お渡ししました」
「足りなかった」
アルフレッド様は、窓の外を見ながらおっしゃった。私の机の上の書類は、見ていなかった。
そのとき、開いたままの扉から、誰かがひょいと顔を出した。
「……あれ、アルフレッド。なんでここにいるの?」
背の高い、栗色の髪の方だった。
レオン・ヴァイス様。アルフレッド様の従兄弟で、伯爵家の次男。社交界では、男にも女にも友人の多い方、として知られている。言い換えれば、女性に誰にでも優しい軽薄な方、とも。
「金を取りに」
「家帰れよ」
レオン様は、本当にそれだけ言った。
アルフレッド様は舌打ちをして、私を見た。
「大丈夫です」
私は、急いで言った。
「私が、用意しますから」
「大丈夫じゃなくない?」
レオン様が、首を傾げた。
「?」
何が大丈夫ではないのか、私には分からなかった。
アルフレッド様は「じゃあ夕方までに」と言って、出ていかれた。
どうして私ばかり、と思ったことは、ある。
何度も、ある。
思ったあとで、いつも思い直す。アルフレッド様があんなふうなのは、きっと私の支え方が、まだ足りないからだ、と。
◇
「ところで、俺、なんでここに来たんだっけ」
レオン様は、アルフレッド様の背中を見送りながら、頭をかいた。
「……あ、そうだ。兵法書。侯爵様に、書庫の本を借りていいって言われてて。書庫って、どっち?」
「廊下の突き当たりです。ご案内します」
「いや、突き当たりなら分かる。自分で行く」
そう言いながら、なかなか行かなかった。
私の机を、覗き込んでいた。
「それ、何?」
「アルフレッド様の、来週の資料です」
「今日、君、休みじゃなかった?」
「はい」
「なんで仕事してるの?」
「アルフレッド様が、明日お使いになるので」
「アルフレッドは?」
「狩りです」
「元気だなあ」
「昨日もお元気でした」
「そういう意味じゃないよ」
レオン様は笑って、勝手に私の机の端に腰かけた。行儀が悪い。
「あ、そうだ」
ついでのように、私は棚から書類の束を取った。
「レオン様の分の、騎士団への寄付の礼状も、済ませておきました。アルフレッド様と同じ文面で、お名前だけ変えて」
「なんで?」
「お忙しいでしょうから」
「俺の仕事だよね?」
「はい」
「じゃあ、俺がやるよ」
レオン様は、束を受け取って、そのまま机に戻した。
「…………」
「何?」
「いえ」
男の方が、自分の仕事を、自分でやるとおっしゃった。
それだけのことなのに、なぜか私は、しばらく束を見ていた。
「書いてくれたのは、ありがとね」
レオン様は、立ち上がりながら言った。
「でも次はいいよ。俺、字、汚いけど、自分で書くから」
それで、行ってしまった。
礼状の束は、机の上に残った。
私の字で、レオン様の名前が書いてあった。
◇
翌週、公爵家の茶会があった。
風が冷たい日だった。庭に出ていた殿方が戻ってきたとき、私は侍女に言いつけておいた温めた葡萄酒を、アルフレッド様に差し出した。
ついでに、隣にいたレオン様にも。
アルフレッド様は杯を受け取って、ひと口飲んで、言った。
「ぬるいな」
それで、ご友人のほうへ行ってしまわれた。
空いた杯は、テーブルの端に置いてあった。
レオン様は、杯を両手で包んで、目を丸くした。
「え、俺にも? ありがとう。手、冷えてたんだよ」
飲み終わると、レオン様は空の杯を持ってきょろきょろして、給仕の盆を見つけて、自分でそこに戻しに行った。
戻ってきて、もう一度「ありがとね、あったまった」と言った。
二回も言われた。
私は、自分の手の中の杯を見た。
自分の分を頼むのを、忘れていた。
「あら。ヴァイス様とお話ししていたの?」
あとで、カミラが扇の陰から言った。
「気をつけなさいね。あの方、誰にでもああなの。重い荷物を持って、帰りの馬車を呼んで、ドレスを褒めて。それで本気にした令嬢が、去年だけで三人いるのよ」
「三人も」
「本人は、たぶん気づいていないわ」
カミラは、ため息をついた。
「あなたが婚約者を駄目にする名人なら、あの方は、令嬢を勘違いさせる名人ね」
「私は、駄目になど」
「リディア。昨日、アルフレッド様のご友人の奥様の、お子さんの名付けの相談に乗っていたでしょう」
「……頼まれたので」
「アルフレッド様が頼まれたのよ」
言い返せなかった。
◇
レオン様は、それから時々、私の家の書庫に来るようになった。
侯爵家の書庫には、古い兵法書がある。それが目当てらしかった。
来るたびに、私が何かを書いているのを見て、「それ、誰の?」と聞いた。
「アルフレッド様の」
「それは?」
「アルフレッド様の」
「それも?」
「それは、私のです」
「あ、君のもあるんだ。よかった」
何がよかったのかは、分からなかった。
ある日、兵法書を棚に戻しながら、レオン様が言った。
その前の週、私は書庫の窓から、庭で二人が話しているのを見ていた。
「アルフレッド。お前、朝くらい自分で起きろよ。稽古、三回連続で来てないぞ」
「リディアに起こさせるから、いいんだ」
「いや、起こされてないから来てないんだろ」
「あいつが時間を間違えたんだ」
レオン様は、変な顔をした。
アルフレッド様は、それ以上何も言わずに、馬車に乗って帰っていかれた。
時間は、間違えていなかった。
従僕は、ちゃんと起こしに行っていた。起きなかったのは、アルフレッド様だった。
その日、レオン様が書庫に来て言った。
「あいつ、最近朝来ないんだよな。稽古」
「アルフレッド様は、昔から朝が弱くて」
「いや?」
「え?」
「昔は、俺より早起きだったよ」
ペン先から、インクが一滴落ちた。
「剣の朝稽古、あいつが俺を起こしに来てたし。十二くらいのとき。窓に小石投げてくるの。うるさかったなあ」
「アルフレッド様が?朝、起きて、、、?」
「何だと思ってるの、あいつを」
私は、黙った。
婚約したのは、私が十五、アルフレッド様が十七のときだった。
初めての夜会で、私が肩掛けを控えの間に忘れたら、アルフレッド様が取りに行ってくださった。
「寒いだろ」と言って、少し照れくさそうに。
手紙は、ご自分で書いていらした。下手な字で、何度も書き直した跡があった。私が手袋をなくしたときは、「俺もよくやる」と笑って、一緒に探してくださった。
その頃から、アルフレッド様は朝が弱かった。……弱かった、はずだ。
最初に起こしに行ったのは、いつだっただろう。
大事な式典の朝だった。寝過ごしたら大変だと思って、念のために。その次の式典も、念のために。
念のために、が、いつから「毎朝」になったのかは、思い出せなかった。
「……では」
私は、ペンを置いた。
「私が至らなかったから、アルフレッド様は、変わってしまわれたのでしょうか」
「なんでそうなるの?」
「?」
「いや、君の頭の中だと、何でも最後は君のせいになるよね」
レオン様は、本当に不思議そうだった。
責めている顔ではなかった。
「でも、私がやらないと、アルフレッド様がお困りになります」
「本人が?」
「はい」
「じゃあ、アルフレッドが困ればいいじゃん」
私は、レオン様の顔を見た。
冗談を言っている顔では、なかった。
「自分で忘れて、自分で困る。普通じゃない?」
「…………」
「一回困れば覚えるって。たぶん」
「たぶん、なのですか」
「アルフレッドだからなあ」
レオン様は、笑いながら兵法書を一冊抜いて、帰っていった。
その数日後、私は、レオン様が困るところを見た。
騎士団の詰所の前を通りかかったら、レオン様が団長に叱られていた。
提出期限の過ぎた報告書を、出し忘れたらしい。
「ヴァイス、またか」
「すみません。完全に忘れてました」
「明日の朝までだ」
「はい」
団長が行ってしまうと、レオン様は頭をかいて、私に気づいた。
「あ、見られた」
「……あの。もしよろしければ、私が、書式だけでも」
言ってから、しまった、と思った。手が、もう鞄の中の紙を探していた。
「いや、いいよ」
レオン様は、あっさり言った。
「俺が忘れたから、俺が怒られた。で、俺が書く。終わり」
「でも、今夜は、ガイウス様たちとお食事だと」
「うん。だから食事のあとに書く。眠いけど」
「眠いのでしたら」
「眠いのは俺だから」
レオン様は、笑って詰所の中に戻っていった。
私は、鞄の中で紙を握ったまま、しばらくそこに立っていた。
自分が困るのを、あんなに普通に引き受ける人を、初めて見た。
翌朝、レオン様の報告書は、ちゃんと出ていたらしい。
字が汚くて、団長にもう一度怒られたそうだ。
◇
その週の金曜、アルフレッド様は南方伯の屋敷で晩餐に呼ばれていた。
主催は南方伯の奥方で、奥方は手袋の色にうるさい方だ。白ではなく、灰色を。去年、私がそう申し上げて、アルフレッド様は灰色で行かれた。
今年は、言わなかった。
一つだけだ。
挨拶文は書いた。服も出した。馬車も手配した。手袋のことだけ、言わなかった。
その夜は、眠れなかった。
寝台の中で、灰色の手袋のことを三回考えた。四回目のあたりで、起き上がって手紙を書きかけた。書きかけて、やめた。やめて、手紙を引き出しにしまった。
翌朝、アルフレッド様が、ものすごい顔でいらした。
「なぜ言わなかった!」
「……手袋、ですか」
「奥方に、目の前で、外せと言われたんだぞ。南方伯の前で。お前なら知っていただろう」
申し訳ありません、と言いかけた。
口が、もう半分そう動いていた。
止めた。
「……それは」
自分の声が、震えていた。
「私の、仕事だったでしょうか」
アルフレッド様は、ぽかんと口を開けた。
それから、意味が分からないという顔をして、何も言わずに帰っていかれた。
私は、扉が閉まったあと、しばらく椅子から立てなかった。
膝に力が入らなかった。
引き出しの中の手紙は、その日の夕方、暖炉に入れた。
その翌日、書庫に来たレオン様に聞かれた。
「で、どうだった? 手袋」
「……アルフレッド様が、奥方に叱られました」
「おお」
「それで、私も、アルフレッド様に叱られました」
「なんで君が」
「言わなかったので」
「言わなかったのは、君の仕事じゃなかったからでしょ」
レオン様は、兵法書を開きながら言った。
「で、あいつ、来年は灰色で行くと思う?」
「……たぶん」
「じゃあ、一回でよかったじゃん」
一回でよかった。
七年、毎年言っていたことが、一回で済んだ。
計算が合わない気がして、私はしばらく、机の上の書類の角を揃えていた。揃っていたのに。
◇
それから、少しずつ、やめた。
全部ではない。
起こす時刻は、相変わらず書いて渡した。挨拶文も、たいてい書いた。
でも、頼まれていないことは、先回りしないことにした。
忘れ物を、届けに行かない。期限を、知らせない。アルフレッド様が誰かと揉めたとき、私が先に謝りに行かない。
ひとつやめるたびに、一日そわそわした。
三つやめた週には、熱が出た。
熱が出た日も、アルフレッド様からの使いは来た。
挨拶文がまだだ、という使いだった。
私は寝台の上で、それを書いた。
書き終えて使いに渡したあと、枕に顔を押しつけて、少しだけ泣いた。
どうして泣いているのかは、よく分からなかった。
疲れていたのだと思う。たぶん、ずっと前から。
「最近のお前は、冷たい」
ひと月ほどして、アルフレッド様がおっしゃった。
手にしていた杯を、テーブルに叩きつけるように置かれた。葡萄酒が跳ねて、私の書類に赤い点がいくつも散った。
前は、こんな置き方をする方ではなかった。
「前なら、やってくれただろう」
「……はい」
「婚約者なら、当然だろう」
当然。
私は、その言葉を、しばらく耳の中で転がしていた。
七年前、初めて挨拶文を書いたとき、アルフレッド様は「ありがとう、助かった」とおっしゃった。
三年前は「悪い、頼む」だった。
去年は「やっておいて」
今年に入ってからは、「まだなのか」
いつから「当然」になったのかは、やっぱり、思い出せなかった。
◇
アルフレッド様には、親しくしている女性がいる。
子爵家のミレーネ様。夜会では、たいていアルフレッド様の隣にいる。
アルフレッド様は「ただの友人だ」とおっしゃる。
去年の冬、私がレオン様と書庫で話していたことを、どこかでお聞きになったらしい。アルフレッド様は一週間、口をきいてくださらなかった。
「ただの友人です」と、私は言った。
アルフレッド様は「婚約者がいる身で、軽率だ」とおっしゃった。
同じ週、アルフレッド様はミレーネ様と二人で、湖の別荘に二泊なさった。
その手配をしたのは、私だった。
「友人たちとの小旅行」と聞いていたので。
友人たちは、ミレーネ様お一人だったらしい。
「私が、もっと魅力的であれば」
ある日、書庫で、うっかり口に出してしまった。
「アルフレッド様も、ミレーネ様のところへは行かれないのでしょうか」
「いや、それ、君の顔とかの話じゃなくない?」
レオン様は、兵法書から目を上げずに言った。
「では、もっと髪の結い方を研究するとか」
「そっちに努力するのやめよう?」
レオン様は、ページをめくった。
「君、今日、自分の仕事いつやるの」
「……夜に」
「夜は寝なよ」
それから、急に思い出したように顔を上げた。
「そういえば、君の誕生日っていつ?」
「来月の、九日です」
「何か欲しいものある?」
「…………」
考えた。
考えたけれど、出てこなかった。アルフレッド様のご友人たちが何を欲しがっているかなら、全員分言えるのに。
「……ありません」
「ないの?」
「考えたことが、ないので」
レオン様は、本を閉じた。
「じゃあ、九日までに考えといて。宿題」
「宿題」
「出さなかったら、俺が適当に選ぶよ。俺、趣味悪いよ」
九日、レオン様は本当に何か持ってきた。
真鍮でできた、カエルの形の文鎮だった。本当に趣味が悪かった。
今も、私の机の上にある。
◇
そのレオン様が、困った顔をしているのを見たのは、秋の初めの夜会だった。
庭園の噴水の陰で、若い令嬢が、レオン様に何かを訴えていた。
声は聞こえなかったけれど、令嬢は泣いていた。
あとで、レオン様の騎士団の同僚だというガイウス様が、ぼやいているのが聞こえた。
「だから言ったろ。お前、その気もない女に距離近すぎるんだよ。荷物持って、具合悪けりゃ馬車呼んで、ドレス褒めて。そりゃ勘違いする」
「……あー」
レオン様は、頭を抱えていた。
「俺、普通にしてたつもりだったんだけど」
「お前の普通は、普通じゃない」
「……それは、俺も悪かったな」
言い訳を、しなかった。
次の週、レオン様はその令嬢に、きちんと謝りに行ったと聞いた。
謝って、断って、それから、荷物を持つのを控えるようになった。書庫でも、私が重い本を取ろうとすると、手を伸ばしかけて、引っ込めるようになった。
「……取ってくださらないのですか」
「いや、取るけど。取っていい?」
「どうぞ」
「よし」
取ってくれた。
変な人だ、と思った。
◇
冬が来るころ、アルフレッド様のお金の頼み方が、変わった。
最初は「少し頼めるか」だった。
次は「借りる。すぐ返す」
返ってきたことは、なかった。
その日、アルフレッド様は、私の家の書斎に来て、机の上に紙を一枚置いた。
金額が書いてあった。今まででいちばん大きかった。
「侯爵家の名前で、立て替えておいてくれ」
「……これは」
「どうせ結婚すれば、同じ家の金だろう」
私は、紙を見た。
賭け事の借金だった。相手は、私でも名前を知っている、あまり良くない筋の人だった。
「できません」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「父の名前は、お貸しできません。私のお金も、これ以上は、お渡ししません」
アルフレッド様の顔が、変わった。
「何だと」
「それから、ミレーネ様のことも――」
手首を、掴まれた。
痛かった。骨が鳴るかと思った。
振りほどこうとしたら、突き飛ばされた。背中が書棚にぶつかって、上から本が三冊、落ちてきた。
息が、止まった。
扉が開く音がした。
「アルフレッド」
レオン様だった。
返しに来たのであろう兵法書を、その手に持っていた。
レオン様は本を床に置いて、私とアルフレッド様のあいだに立った。
それだけだった。腕を振り上げもしなかったし、怒鳴りもしなかった。
「帰れ」
アルフレッド様は、何か言いかけた。
レオン様の顔を見て、言うのをやめた。舌打ちをして、出ていった。
扉が閉まった。
レオン様が、振り返った。
「手首、見せて」
赤くなっていた。指の形に。
「医者呼ぶね。侯爵にも言う。いい?」
私は、頷いた。
頷いてから、口が勝手に動いた。
「私が……私が、怒らせたから」
「それは違う」
レオン様は、私の手首から目を離さずに言った。
「怒るのは勝手だけど、突き飛ばしたのはあいつだよ」
「……」
「そこまで、君が引き取らなくていい」
それ以上、レオン様は何も言わなかった。
医者が来るまで、黙って、床に落ちた本を拾っていた。一冊ずつ、棚の元の場所に。どこに戻すのか、いちいち私に聞きながら。
◇
その夜、自分の部屋で、予定表を開いた。
来週の欄には、いつものように二人分の予定が書いてあった。
私の分と、アルフレッド様の分。
アルフレッド様の欄を、しばらく見ていた。
起こす時刻。晩餐の服。挨拶文の締め切り。
手首が、まだ脈を打つたびに痛かった。
私は、アルフレッド様の欄だけ、ページを折って閉じた。
それから、父の書斎に行った。
父は、まだ起きていた。医者から話を聞いて、私を待っていたらしい。
「婚約を、解消したいと思います」
父は、私の手首を見て、それから私の顔を見た。
「レオン殿の勧めか」
「いいえ」
それは、本当だった。
レオン様は、一度も、別れろとは言わなかった。
「私が、決めました」
アルフレッド様の人生を、私が背負うのは、もうやめる。
誰に言われたからでもなく。
父は、長いこと黙っていた。
それから、立ち上がって、私の肩を一度だけ叩いた。
「明日、公爵家に使いを出す」
翌日の昼、レオン様が来た。
花も、見舞いの菓子も、持っていなかった。
「手首、どう?」
「痛いです」
「だよね」
それだけ聞いて、書庫で兵法書を読んで、夕方に帰っていった。
私は、いつもより早く自分の仕事を終えて、カエルの文鎮を眺めていた。
アルフレッド様からは、その週、手紙が三通届いた。
一通目は、「頭を冷やせ」
二通目は、「来週の園遊会の席次はどうなっている」
三通目は、「前はやってくれただろう」
どれにも、返事を書かなかった。
書かないでいると、手が勝手に便箋を出してくるので、便箋を全部、侍女のエマに預けた。
◇
正式な話し合いは、十日後に、公爵家の応接間で行われた。
アルフレッド様は、ふてくされた顔で座っていた。
本気だとは、思っていないようだった。少し頭を冷やせば戻る。そういう顔だった。
公爵閣下が、黙って書類を読み、ため息をついて、こちらへ回した。
私は、署名した。
インクが乾くのを待っているあいだに、アルフレッド様の顔色が変わった。
「……本気か」
「はい」
「じゃあ、明日の朝は、誰が」
アルフレッド様は、そこで言葉を切った。
公爵閣下が、ゆっくりと息子のほうを向いた。
アルフレッド様は、口を閉じて、それから言い直した。
「俺を、見捨てるのか」
私は、ペンを置いた。
「私はずっと、あなたが困らないようにしてきました」
アルフレッド様が、口を開いた。
私は、その前に言った。
「これからは、ご自分で困ってください」
応接間が、静かになった。
公爵閣下が、小さく咳払いをした。笑いをこらえたのか、ため息だったのかは、分からなかった。
◇
婚約を解消した翌朝、七時に、公爵家の従僕がうちの裏口に来た。
「本日の起床時刻のお書付を、いただきに参りました」
七年、毎朝来ていた人だった。
習慣で、来てしまったらしい。
「……もう、ありません」
私が言うと、従僕は、はっとした顔をして、それから深く頭を下げた。
「失礼いたしました。……ですが、その、坊ちゃまは、何時に起こせばよろしいのでしょう」
「ご本人に、聞いてください」
従僕は、しばらく考えてから、なぜかほっとしたように笑った。
「そうですね。そうでした。昔は、そうしておりました」
アルフレッド様のその後は、だいたいレオン様から聞いた。
「あいつ、今朝も稽古来なかった」
「……従僕は、起こしに行ったのでしょうか」
「行ったらしいよ。何時に起こせばいいか聞いたら、『リディアから聞け』って」
「婚約は、解消されましたが」
「従僕もそう言ったって。そしたら、『知ってる。適当に起こせ』」
聞くたびに、落ち着かなかった。
南方伯の奥方の茶会を、日付を間違えてすっぽかしたこと。
騎士団への寄付の礼状を、出し忘れて、団長に直接頭を下げに行ったこと。
賭け事の借金は、公爵閣下が肩代わりして、その代わり三年間、小遣いを止められたこと。
ミレーネ様は、お金がなくなったアルフレッド様の隣から、いつの間にかいなくなったこと。
茶会を忘れた日、アルフレッド様は従僕に「なぜ昨日言わなかった」とおっしゃったそうだ。
従僕が「存じませんでした」と答えると、「リディアなら知っていた」と。
ミレーネ様が離れていったときは、ご友人に「結局、女は金か」とこぼしていらしたらしい。
困るのは、ご本人だった。
ご本人は、困るたびに、誰かのせいにしているらしかった。
ひと月ほどして、一度だけ、アルフレッド様が私の家にいらした。
応接間には通さなかった。玄関で、父の執事が立ち会った。
アルフレッド様は、紙を一枚持っていた。
「南方伯への詫び状だ。直しておいてくれ」
差し出された紙を、私は受け取らなかった。
「読みません」
「前は、やっただろう」
「はい」
「なら」
「読みません」
アルフレッド様は、紙を持ったまま、不満そうに私を見ていた。
それから、執事のほうを見て、何も言わずに帰っていかれた。
詫び状がどうなったのかは、知らない。
「大丈夫でしょうか」
ある日、書庫で、思わず聞いてしまった。
「アルフレッド様、お一人で」
「大丈夫じゃないんじゃない?」
「…………」
「まあ、困るだろうね」
レオン様は、兵法書をめくった。
「でも、それ、俺たちが困ることじゃないでしょ」
私は、何か言おうとして、やめた。
その春、一度だけ、騎士団の朝稽古の様子を、通りがかりに馬車から見た。
稽古はもう終わりかけていて、アルフレッド様が、ちょうど門をくぐって走ってくるところだった。
不満そうな顔だった。誰かに、何かを言いたそうな顔だった。
馬車を止めようとは、思わなかった。
御者に、そのまま進むように言った。
◇
婚約を解消してから、私は、人の仕事を取らない練習をしている。
うまくいかない。
侍女のエマが、帳面の計算を間違えているのを見つけると、手が勝手にペンに伸びる。
伸びた手を、もう片方の手で押さえる。
「……エマ。三行目、もう一度見てみて」
「あっ」
エマは自分で直した。十分かかった。
私なら、一分だった。
その十分間、私は窓の外を見ていた。見ていないと、取ってしまいそうだったから。
夜会で、知り合いの令嬢がドレスの裾を踏んでよろけたときは、とっさに手を出した。これは良かった。転ぶのを支えるのは、たぶん、私の仕事でいい。
そのあと、その令嬢の帰りの馬車の手配と、明日の茶会の欠席の連絡と、ドレスの仕立て屋への修繕の依頼まで済ませかけて、ガイウス様に止められた。
「リディア嬢。それは、たぶん、彼女の仕事です」
「……そうでした」
レオン様の騎士団の方々にまで、私の癖は知られていた。
春になって、ようやく、十分間を椅子に座ったまま待てるようになった。
◇
夏の終わり、書庫に来たレオン様が、珍しく疲れた顔をしていた。
「どうかなさいましたか」
「騎士団の遠征の段取り。俺の担当なんだけど、宿の手配が全然決まらない」
口が、勝手に開いた。
「北街道の宿でしたら、三軒目の『銀の鍋亭』が、二十人までなら」
言いかけて、口を閉じた。
レオン様は、私を見た。
私も、レオン様を見た。
「……今の、聞かなかったことにしてください」
「いや、聞いた。助かる。銀の鍋亭ね」
レオン様は、自分の手帳に書きつけた。
「ありがとう。あとは自分でやる」
「はい」
あとは自分でやる、と言われて、なぜか私は、ほっとしていた。
レオン様は、ちゃんと自分で宿に手紙を出して、遠征から戻ってきて、銀の鍋亭のシチューがうまかったと言った。
それだけだった。それで、よかった。
◇
ところが、別の問題が起きた。
「ちょっと待って」
書庫で、レオン様が、私の差し出した紙を見て眉を寄せた。
「これ、何?」
「来月の、騎士団の行事予定です。それと、ガイウス様のお誕生日と、レオン様が先週おっしゃっていた、馬具屋の支払いの期限」
「最近、俺の予定表、作ってない?」
「念のためです」
「いらないよ」
「ですが」
「自分でやるから」
レオン様は、紙を丁寧に二つに畳んで、私の手に返した。
「…………」
「今、残念そうにした?」
「していません」
「した」
「していません」
レオン様は、声を出して笑った。
それから、急にまじめな顔になった。
「リディア」
「はい」
「君、好きになった男の世話、全部したくなるでしょ」
私は、紙を握ったまま固まった。
好きに。
なった。
男の。
「……どなたの話ですか」
「さあね」
レオン様は、兵法書を棚に戻した。
戻す場所を、間違えていた。私は直さなかった。
「だからさ」
レオン様は、棚のほうを向いたまま言った。
「半年」
「……半年?」
「半年、俺の予定表を作らずにいられたら、今度は俺から誘う」
「半年も?」
「今、何日あるか数えた?」
「数えていません」
「嘘つけ」
百八十二日だった。
レオン様は笑って、間違えた場所に入れた兵法書をそのままにして、帰っていった。
扉が閉まってから、侍女のエマが、お茶を下げに入ってきた。
「お嬢様、お顔が赤いですよ」
「暖炉の火が、強いので」
「火、入れておりませんが」
エマは、それ以上何も言わずに、間違えた場所の兵法書を直そうとした。
「そのままにしておいて」
「え?」
「……そのままで」
エマは、首を傾げて、兵法書から手を離した。
◇
その夜、自分の部屋で、予定表を開いた。
今は、私の分しか書いていない。
ページが、ずいぶん白い。
半年後の欄を、開いた。
何も書かなかった。
書かないことにも、だんだん慣れてきた。
ペンを置いて、灯りを消しかけて、もう一度、ペンを取った。
その欄の隅に、小さく、点をひとつだけ打った。
(了)




