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婚約者を七年お世話したら、ひとりでは朝も起きられない男が完成しました

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/02

婚約者のアルフレッド様は、朝が弱い。


だから私は、毎朝七時に公爵家へ使いを出す。起こすのは従僕の仕事だけれど、何時に起こせばいいかを決めるのは私だ。その日の予定から逆算して、紙に書いて渡す。

七年、そうしてきた。


起こす時刻だけではない。


アルフレッド様のご友人の誕生日は、私の手帳に全部書いてある。贈り物も、私が選んで、アルフレッド様のお名前で届けている。

夜会のときは、予備の手袋を二組、私の小物入れに入れていく。アルフレッド様は、よく手袋をなくされるので。

誰かと口論になりそうなときは、翌朝に届けるお詫びの手紙を、前の晩のうちに下書きしておく。使わずに済んだ下書きは、引き出しに溜まっていく。今、三十二通ある。


友人のカミラには「あなた、婚約者というより執事ね」と言われたことがある。

執事はお給金をもらっているでしょう、と言い返したら、カミラは黙ってしまった。言い返したつもりはなかった。


その日も、侯爵家の自分の書斎で、自分の書類を片づけてから、アルフレッド様の分に取りかかった。

南方伯への返書。来週の園遊会の席次。晩餐での挨拶文。騎士団への寄付の礼状。


正午を過ぎたころ、アルフレッド様がいらした。


「リディア。今日の晩餐、服は?」

「衣装室に。濃紺の上着を出してあります」

「挨拶文は」

「上着の内ポケットに」

「南方伯への返事」

「昨日、出しました」

「金は」


ペンが止まった。


「……何にお使いになるのですか?」

「友人と、少し遊ぶだけだ」

「先週も、お渡ししました」

「足りなかった」


アルフレッド様は、窓の外を見ながらおっしゃった。私の机の上の書類は、見ていなかった。


そのとき、開いたままの扉から、誰かがひょいと顔を出した。


「……あれ、アルフレッド。なんでここにいるの?」


背の高い、栗色の髪の方だった。

レオン・ヴァイス様。アルフレッド様の従兄弟で、伯爵家の次男。社交界では、男にも女にも友人の多い方、として知られている。言い換えれば、女性に誰にでも優しい軽薄な方、とも。


「金を取りに」

「家帰れよ」


レオン様は、本当にそれだけ言った。

アルフレッド様は舌打ちをして、私を見た。


「大丈夫です」


私は、急いで言った。


「私が、用意しますから」

「大丈夫じゃなくない?」


レオン様が、首を傾げた。


「?」


何が大丈夫ではないのか、私には分からなかった。

アルフレッド様は「じゃあ夕方までに」と言って、出ていかれた。


どうして私ばかり、と思ったことは、ある。

何度も、ある。


思ったあとで、いつも思い直す。アルフレッド様があんなふうなのは、きっと私の支え方が、まだ足りないからだ、と。


   ◇


「ところで、俺、なんでここに来たんだっけ」


レオン様は、アルフレッド様の背中を見送りながら、頭をかいた。


「……あ、そうだ。兵法書。侯爵様に、書庫の本を借りていいって言われてて。書庫って、どっち?」

「廊下の突き当たりです。ご案内します」

「いや、突き当たりなら分かる。自分で行く」


そう言いながら、なかなか行かなかった。

私の机を、覗き込んでいた。


「それ、何?」

「アルフレッド様の、来週の資料です」

「今日、君、休みじゃなかった?」

「はい」

「なんで仕事してるの?」

「アルフレッド様が、明日お使いになるので」

「アルフレッドは?」

「狩りです」

「元気だなあ」

「昨日もお元気でした」

「そういう意味じゃないよ」


レオン様は笑って、勝手に私の机の端に腰かけた。行儀が悪い。


「あ、そうだ」


ついでのように、私は棚から書類の束を取った。


「レオン様の分の、騎士団への寄付の礼状も、済ませておきました。アルフレッド様と同じ文面で、お名前だけ変えて」

「なんで?」

「お忙しいでしょうから」

「俺の仕事だよね?」

「はい」

「じゃあ、俺がやるよ」


レオン様は、束を受け取って、そのまま机に戻した。


「…………」

「何?」

「いえ」


男の方が、自分の仕事を、自分でやるとおっしゃった。

それだけのことなのに、なぜか私は、しばらく束を見ていた。


「書いてくれたのは、ありがとね」


レオン様は、立ち上がりながら言った。


「でも次はいいよ。俺、字、汚いけど、自分で書くから」


それで、行ってしまった。


礼状の束は、机の上に残った。

私の字で、レオン様の名前が書いてあった。


   ◇


翌週、公爵家の茶会があった。


風が冷たい日だった。庭に出ていた殿方が戻ってきたとき、私は侍女に言いつけておいた温めた葡萄酒を、アルフレッド様に差し出した。

ついでに、隣にいたレオン様にも。


アルフレッド様は杯を受け取って、ひと口飲んで、言った。


「ぬるいな」


それで、ご友人のほうへ行ってしまわれた。

空いた杯は、テーブルの端に置いてあった。


レオン様は、杯を両手で包んで、目を丸くした。


「え、俺にも? ありがとう。手、冷えてたんだよ」


飲み終わると、レオン様は空の杯を持ってきょろきょろして、給仕の盆を見つけて、自分でそこに戻しに行った。

戻ってきて、もう一度「ありがとね、あったまった」と言った。


二回も言われた。


私は、自分の手の中の杯を見た。

自分の分を頼むのを、忘れていた。


「あら。ヴァイス様とお話ししていたの?」


あとで、カミラが扇の陰から言った。


「気をつけなさいね。あの方、誰にでもああなの。重い荷物を持って、帰りの馬車を呼んで、ドレスを褒めて。それで本気にした令嬢が、去年だけで三人いるのよ」

「三人も」

「本人は、たぶん気づいていないわ」


カミラは、ため息をついた。


「あなたが婚約者を駄目にする名人なら、あの方は、令嬢を勘違いさせる名人ね」

「私は、駄目になど」

「リディア。昨日、アルフレッド様のご友人の奥様の、お子さんの名付けの相談に乗っていたでしょう」

「……頼まれたので」

「アルフレッド様が頼まれたのよ」


言い返せなかった。


   ◇


レオン様は、それから時々、私の家の書庫に来るようになった。


侯爵家の書庫には、古い兵法書がある。それが目当てらしかった。

来るたびに、私が何かを書いているのを見て、「それ、誰の?」と聞いた。


「アルフレッド様の」

「それは?」

「アルフレッド様の」

「それも?」

「それは、私のです」

「あ、君のもあるんだ。よかった」


何がよかったのかは、分からなかった。


ある日、兵法書を棚に戻しながら、レオン様が言った。


その前の週、私は書庫の窓から、庭で二人が話しているのを見ていた。


「アルフレッド。お前、朝くらい自分で起きろよ。稽古、三回連続で来てないぞ」

「リディアに起こさせるから、いいんだ」

「いや、起こされてないから来てないんだろ」

「あいつが時間を間違えたんだ」


レオン様は、変な顔をした。

アルフレッド様は、それ以上何も言わずに、馬車に乗って帰っていかれた。


時間は、間違えていなかった。

従僕は、ちゃんと起こしに行っていた。起きなかったのは、アルフレッド様だった。


その日、レオン様が書庫に来て言った。


「あいつ、最近朝来ないんだよな。稽古」

「アルフレッド様は、昔から朝が弱くて」

「いや?」

「え?」

「昔は、俺より早起きだったよ」


ペン先から、インクが一滴落ちた。


「剣の朝稽古、あいつが俺を起こしに来てたし。十二くらいのとき。窓に小石投げてくるの。うるさかったなあ」

「アルフレッド様が?朝、起きて、、、?」

「何だと思ってるの、あいつを」


私は、黙った。


婚約したのは、私が十五、アルフレッド様が十七のときだった。


初めての夜会で、私が肩掛けを控えの間に忘れたら、アルフレッド様が取りに行ってくださった。

「寒いだろ」と言って、少し照れくさそうに。

手紙は、ご自分で書いていらした。下手な字で、何度も書き直した跡があった。私が手袋をなくしたときは、「俺もよくやる」と笑って、一緒に探してくださった。


その頃から、アルフレッド様は朝が弱かった。……弱かった、はずだ。


最初に起こしに行ったのは、いつだっただろう。

大事な式典の朝だった。寝過ごしたら大変だと思って、念のために。その次の式典も、念のために。


念のために、が、いつから「毎朝」になったのかは、思い出せなかった。


「……では」


私は、ペンを置いた。


「私が至らなかったから、アルフレッド様は、変わってしまわれたのでしょうか」

「なんでそうなるの?」

「?」

「いや、君の頭の中だと、何でも最後は君のせいになるよね」


レオン様は、本当に不思議そうだった。

責めている顔ではなかった。


「でも、私がやらないと、アルフレッド様がお困りになります」

「本人が?」

「はい」

「じゃあ、アルフレッドが困ればいいじゃん」


私は、レオン様の顔を見た。

冗談を言っている顔では、なかった。


「自分で忘れて、自分で困る。普通じゃない?」

「…………」

「一回困れば覚えるって。たぶん」

「たぶん、なのですか」

「アルフレッドだからなあ」


レオン様は、笑いながら兵法書を一冊抜いて、帰っていった。


その数日後、私は、レオン様が困るところを見た。


騎士団の詰所の前を通りかかったら、レオン様が団長に叱られていた。

提出期限の過ぎた報告書を、出し忘れたらしい。


「ヴァイス、またか」

「すみません。完全に忘れてました」

「明日の朝までだ」

「はい」


団長が行ってしまうと、レオン様は頭をかいて、私に気づいた。


「あ、見られた」

「……あの。もしよろしければ、私が、書式だけでも」


言ってから、しまった、と思った。手が、もう鞄の中の紙を探していた。


「いや、いいよ」


レオン様は、あっさり言った。


「俺が忘れたから、俺が怒られた。で、俺が書く。終わり」

「でも、今夜は、ガイウス様たちとお食事だと」

「うん。だから食事のあとに書く。眠いけど」

「眠いのでしたら」

「眠いのは俺だから」


レオン様は、笑って詰所の中に戻っていった。


私は、鞄の中で紙を握ったまま、しばらくそこに立っていた。

自分が困るのを、あんなに普通に引き受ける人を、初めて見た。


翌朝、レオン様の報告書は、ちゃんと出ていたらしい。

字が汚くて、団長にもう一度怒られたそうだ。


   ◇


その週の金曜、アルフレッド様は南方伯の屋敷で晩餐に呼ばれていた。

主催は南方伯の奥方で、奥方は手袋の色にうるさい方だ。白ではなく、灰色を。去年、私がそう申し上げて、アルフレッド様は灰色で行かれた。


今年は、言わなかった。


一つだけだ。

挨拶文は書いた。服も出した。馬車も手配した。手袋のことだけ、言わなかった。


その夜は、眠れなかった。

寝台の中で、灰色の手袋のことを三回考えた。四回目のあたりで、起き上がって手紙を書きかけた。書きかけて、やめた。やめて、手紙を引き出しにしまった。


翌朝、アルフレッド様が、ものすごい顔でいらした。


「なぜ言わなかった!」

「……手袋、ですか」

「奥方に、目の前で、外せと言われたんだぞ。南方伯の前で。お前なら知っていただろう」


申し訳ありません、と言いかけた。

口が、もう半分そう動いていた。


止めた。


「……それは」


自分の声が、震えていた。


「私の、仕事だったでしょうか」


アルフレッド様は、ぽかんと口を開けた。

それから、意味が分からないという顔をして、何も言わずに帰っていかれた。


私は、扉が閉まったあと、しばらく椅子から立てなかった。

膝に力が入らなかった。


引き出しの中の手紙は、その日の夕方、暖炉に入れた。


その翌日、書庫に来たレオン様に聞かれた。


「で、どうだった? 手袋」

「……アルフレッド様が、奥方に叱られました」

「おお」

「それで、私も、アルフレッド様に叱られました」

「なんで君が」

「言わなかったので」

「言わなかったのは、君の仕事じゃなかったからでしょ」


レオン様は、兵法書を開きながら言った。


「で、あいつ、来年は灰色で行くと思う?」

「……たぶん」

「じゃあ、一回でよかったじゃん」


一回でよかった。

七年、毎年言っていたことが、一回で済んだ。


計算が合わない気がして、私はしばらく、机の上の書類の角を揃えていた。揃っていたのに。


   ◇


それから、少しずつ、やめた。


全部ではない。

起こす時刻は、相変わらず書いて渡した。挨拶文も、たいてい書いた。


でも、頼まれていないことは、先回りしないことにした。

忘れ物を、届けに行かない。期限を、知らせない。アルフレッド様が誰かと揉めたとき、私が先に謝りに行かない。


ひとつやめるたびに、一日そわそわした。

三つやめた週には、熱が出た。


熱が出た日も、アルフレッド様からの使いは来た。

挨拶文がまだだ、という使いだった。


私は寝台の上で、それを書いた。

書き終えて使いに渡したあと、枕に顔を押しつけて、少しだけ泣いた。


どうして泣いているのかは、よく分からなかった。

疲れていたのだと思う。たぶん、ずっと前から。


「最近のお前は、冷たい」


ひと月ほどして、アルフレッド様がおっしゃった。

手にしていた杯を、テーブルに叩きつけるように置かれた。葡萄酒が跳ねて、私の書類に赤い点がいくつも散った。


前は、こんな置き方をする方ではなかった。


「前なら、やってくれただろう」

「……はい」

「婚約者なら、当然だろう」


当然。


私は、その言葉を、しばらく耳の中で転がしていた。


七年前、初めて挨拶文を書いたとき、アルフレッド様は「ありがとう、助かった」とおっしゃった。

三年前は「悪い、頼む」だった。

去年は「やっておいて」

今年に入ってからは、「まだなのか」


いつから「当然」になったのかは、やっぱり、思い出せなかった。


   ◇


アルフレッド様には、親しくしている女性がいる。


子爵家のミレーネ様。夜会では、たいていアルフレッド様の隣にいる。

アルフレッド様は「ただの友人だ」とおっしゃる。


去年の冬、私がレオン様と書庫で話していたことを、どこかでお聞きになったらしい。アルフレッド様は一週間、口をきいてくださらなかった。


「ただの友人です」と、私は言った。

アルフレッド様は「婚約者がいる身で、軽率だ」とおっしゃった。


同じ週、アルフレッド様はミレーネ様と二人で、湖の別荘に二泊なさった。

その手配をしたのは、私だった。


「友人たちとの小旅行」と聞いていたので。

友人たちは、ミレーネ様お一人だったらしい。


「私が、もっと魅力的であれば」


ある日、書庫で、うっかり口に出してしまった。


「アルフレッド様も、ミレーネ様のところへは行かれないのでしょうか」

「いや、それ、君の顔とかの話じゃなくない?」


レオン様は、兵法書から目を上げずに言った。


「では、もっと髪の結い方を研究するとか」

「そっちに努力するのやめよう?」


レオン様は、ページをめくった。


「君、今日、自分の仕事いつやるの」

「……夜に」

「夜は寝なよ」


それから、急に思い出したように顔を上げた。


「そういえば、君の誕生日っていつ?」

「来月の、九日です」

「何か欲しいものある?」

「…………」


考えた。

考えたけれど、出てこなかった。アルフレッド様のご友人たちが何を欲しがっているかなら、全員分言えるのに。


「……ありません」

「ないの?」

「考えたことが、ないので」


レオン様は、本を閉じた。


「じゃあ、九日までに考えといて。宿題」

「宿題」

「出さなかったら、俺が適当に選ぶよ。俺、趣味悪いよ」


九日、レオン様は本当に何か持ってきた。

真鍮でできた、カエルの形の文鎮だった。本当に趣味が悪かった。


今も、私の机の上にある。


   ◇


そのレオン様が、困った顔をしているのを見たのは、秋の初めの夜会だった。


庭園の噴水の陰で、若い令嬢が、レオン様に何かを訴えていた。

声は聞こえなかったけれど、令嬢は泣いていた。


あとで、レオン様の騎士団の同僚だというガイウス様が、ぼやいているのが聞こえた。


「だから言ったろ。お前、その気もない女に距離近すぎるんだよ。荷物持って、具合悪けりゃ馬車呼んで、ドレス褒めて。そりゃ勘違いする」

「……あー」


レオン様は、頭を抱えていた。


「俺、普通にしてたつもりだったんだけど」

「お前の普通は、普通じゃない」

「……それは、俺も悪かったな」


言い訳を、しなかった。


次の週、レオン様はその令嬢に、きちんと謝りに行ったと聞いた。

謝って、断って、それから、荷物を持つのを控えるようになった。書庫でも、私が重い本を取ろうとすると、手を伸ばしかけて、引っ込めるようになった。


「……取ってくださらないのですか」

「いや、取るけど。取っていい?」

「どうぞ」

「よし」


取ってくれた。

変な人だ、と思った。


   ◇


冬が来るころ、アルフレッド様のお金の頼み方が、変わった。


最初は「少し頼めるか」だった。

次は「借りる。すぐ返す」

返ってきたことは、なかった。


その日、アルフレッド様は、私の家の書斎に来て、机の上に紙を一枚置いた。

金額が書いてあった。今まででいちばん大きかった。


「侯爵家の名前で、立て替えておいてくれ」

「……これは」

「どうせ結婚すれば、同じ家の金だろう」


私は、紙を見た。

賭け事の借金だった。相手は、私でも名前を知っている、あまり良くない筋の人だった。


「できません」


自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


「父の名前は、お貸しできません。私のお金も、これ以上は、お渡ししません」


アルフレッド様の顔が、変わった。


「何だと」

「それから、ミレーネ様のことも――」


手首を、掴まれた。


痛かった。骨が鳴るかと思った。

振りほどこうとしたら、突き飛ばされた。背中が書棚にぶつかって、上から本が三冊、落ちてきた。


息が、止まった。


扉が開く音がした。


「アルフレッド」


レオン様だった。

返しに来たのであろう兵法書を、その手に持っていた。


レオン様は本を床に置いて、私とアルフレッド様のあいだに立った。

それだけだった。腕を振り上げもしなかったし、怒鳴りもしなかった。


「帰れ」


アルフレッド様は、何か言いかけた。

レオン様の顔を見て、言うのをやめた。舌打ちをして、出ていった。


扉が閉まった。


レオン様が、振り返った。


「手首、見せて」


赤くなっていた。指の形に。


「医者呼ぶね。侯爵にも言う。いい?」


私は、頷いた。

頷いてから、口が勝手に動いた。


「私が……私が、怒らせたから」

「それは違う」


レオン様は、私の手首から目を離さずに言った。


「怒るのは勝手だけど、突き飛ばしたのはあいつだよ」

「……」

「そこまで、君が引き取らなくていい」


それ以上、レオン様は何も言わなかった。

医者が来るまで、黙って、床に落ちた本を拾っていた。一冊ずつ、棚の元の場所に。どこに戻すのか、いちいち私に聞きながら。


   ◇


その夜、自分の部屋で、予定表を開いた。


来週の欄には、いつものように二人分の予定が書いてあった。

私の分と、アルフレッド様の分。


アルフレッド様の欄を、しばらく見ていた。

起こす時刻。晩餐の服。挨拶文の締め切り。


手首が、まだ脈を打つたびに痛かった。


私は、アルフレッド様の欄だけ、ページを折って閉じた。


それから、父の書斎に行った。

父は、まだ起きていた。医者から話を聞いて、私を待っていたらしい。


「婚約を、解消したいと思います」


父は、私の手首を見て、それから私の顔を見た。


「レオン殿の勧めか」

「いいえ」


それは、本当だった。

レオン様は、一度も、別れろとは言わなかった。


「私が、決めました」


アルフレッド様の人生を、私が背負うのは、もうやめる。

誰に言われたからでもなく。


父は、長いこと黙っていた。

それから、立ち上がって、私の肩を一度だけ叩いた。


「明日、公爵家に使いを出す」


翌日の昼、レオン様が来た。

花も、見舞いの菓子も、持っていなかった。


「手首、どう?」

「痛いです」

「だよね」


それだけ聞いて、書庫で兵法書を読んで、夕方に帰っていった。

私は、いつもより早く自分の仕事を終えて、カエルの文鎮を眺めていた。


アルフレッド様からは、その週、手紙が三通届いた。


一通目は、「頭を冷やせ」

二通目は、「来週の園遊会の席次はどうなっている」

三通目は、「前はやってくれただろう」


どれにも、返事を書かなかった。

書かないでいると、手が勝手に便箋を出してくるので、便箋を全部、侍女のエマに預けた。


   ◇


正式な話し合いは、十日後に、公爵家の応接間で行われた。


アルフレッド様は、ふてくされた顔で座っていた。

本気だとは、思っていないようだった。少し頭を冷やせば戻る。そういう顔だった。


公爵閣下が、黙って書類を読み、ため息をついて、こちらへ回した。


私は、署名した。


インクが乾くのを待っているあいだに、アルフレッド様の顔色が変わった。


「……本気か」

「はい」

「じゃあ、明日の朝は、誰が」


アルフレッド様は、そこで言葉を切った。

公爵閣下が、ゆっくりと息子のほうを向いた。


アルフレッド様は、口を閉じて、それから言い直した。


「俺を、見捨てるのか」


私は、ペンを置いた。


「私はずっと、あなたが困らないようにしてきました」


アルフレッド様が、口を開いた。

私は、その前に言った。


「これからは、ご自分で困ってください」


応接間が、静かになった。


公爵閣下が、小さく咳払いをした。笑いをこらえたのか、ため息だったのかは、分からなかった。


   ◇


婚約を解消した翌朝、七時に、公爵家の従僕がうちの裏口に来た。


「本日の起床時刻のお書付を、いただきに参りました」


七年、毎朝来ていた人だった。

習慣で、来てしまったらしい。


「……もう、ありません」


私が言うと、従僕は、はっとした顔をして、それから深く頭を下げた。


「失礼いたしました。……ですが、その、坊ちゃまは、何時に起こせばよろしいのでしょう」

「ご本人に、聞いてください」


従僕は、しばらく考えてから、なぜかほっとしたように笑った。


「そうですね。そうでした。昔は、そうしておりました」


アルフレッド様のその後は、だいたいレオン様から聞いた。


「あいつ、今朝も稽古来なかった」

「……従僕は、起こしに行ったのでしょうか」

「行ったらしいよ。何時に起こせばいいか聞いたら、『リディアから聞け』って」

「婚約は、解消されましたが」

「従僕もそう言ったって。そしたら、『知ってる。適当に起こせ』」


聞くたびに、落ち着かなかった。


南方伯の奥方の茶会を、日付を間違えてすっぽかしたこと。

騎士団への寄付の礼状を、出し忘れて、団長に直接頭を下げに行ったこと。

賭け事の借金は、公爵閣下が肩代わりして、その代わり三年間、小遣いを止められたこと。

ミレーネ様は、お金がなくなったアルフレッド様の隣から、いつの間にかいなくなったこと。


茶会を忘れた日、アルフレッド様は従僕に「なぜ昨日言わなかった」とおっしゃったそうだ。

従僕が「存じませんでした」と答えると、「リディアなら知っていた」と。


ミレーネ様が離れていったときは、ご友人に「結局、女は金か」とこぼしていらしたらしい。


困るのは、ご本人だった。

ご本人は、困るたびに、誰かのせいにしているらしかった。


ひと月ほどして、一度だけ、アルフレッド様が私の家にいらした。


応接間には通さなかった。玄関で、父の執事が立ち会った。

アルフレッド様は、紙を一枚持っていた。


「南方伯への詫び状だ。直しておいてくれ」


差し出された紙を、私は受け取らなかった。


「読みません」

「前は、やっただろう」

「はい」

「なら」

「読みません」


アルフレッド様は、紙を持ったまま、不満そうに私を見ていた。

それから、執事のほうを見て、何も言わずに帰っていかれた。


詫び状がどうなったのかは、知らない。


「大丈夫でしょうか」


ある日、書庫で、思わず聞いてしまった。


「アルフレッド様、お一人で」

「大丈夫じゃないんじゃない?」

「…………」

「まあ、困るだろうね」


レオン様は、兵法書をめくった。


「でも、それ、俺たちが困ることじゃないでしょ」


私は、何か言おうとして、やめた。


その春、一度だけ、騎士団の朝稽古の様子を、通りがかりに馬車から見た。

稽古はもう終わりかけていて、アルフレッド様が、ちょうど門をくぐって走ってくるところだった。

不満そうな顔だった。誰かに、何かを言いたそうな顔だった。


馬車を止めようとは、思わなかった。

御者に、そのまま進むように言った。


   ◇


婚約を解消してから、私は、人の仕事を取らない練習をしている。


うまくいかない。


侍女のエマが、帳面の計算を間違えているのを見つけると、手が勝手にペンに伸びる。

伸びた手を、もう片方の手で押さえる。


「……エマ。三行目、もう一度見てみて」

「あっ」


エマは自分で直した。十分かかった。

私なら、一分だった。


その十分間、私は窓の外を見ていた。見ていないと、取ってしまいそうだったから。


夜会で、知り合いの令嬢がドレスの裾を踏んでよろけたときは、とっさに手を出した。これは良かった。転ぶのを支えるのは、たぶん、私の仕事でいい。

そのあと、その令嬢の帰りの馬車の手配と、明日の茶会の欠席の連絡と、ドレスの仕立て屋への修繕の依頼まで済ませかけて、ガイウス様に止められた。


「リディア嬢。それは、たぶん、彼女の仕事です」

「……そうでした」


レオン様の騎士団の方々にまで、私の癖は知られていた。


春になって、ようやく、十分間を椅子に座ったまま待てるようになった。


   ◇


夏の終わり、書庫に来たレオン様が、珍しく疲れた顔をしていた。


「どうかなさいましたか」

「騎士団の遠征の段取り。俺の担当なんだけど、宿の手配が全然決まらない」


口が、勝手に開いた。


「北街道の宿でしたら、三軒目の『銀の鍋亭』が、二十人までなら」


言いかけて、口を閉じた。


レオン様は、私を見た。

私も、レオン様を見た。


「……今の、聞かなかったことにしてください」

「いや、聞いた。助かる。銀の鍋亭ね」


レオン様は、自分の手帳に書きつけた。


「ありがとう。あとは自分でやる」

「はい」


あとは自分でやる、と言われて、なぜか私は、ほっとしていた。


レオン様は、ちゃんと自分で宿に手紙を出して、遠征から戻ってきて、銀の鍋亭のシチューがうまかったと言った。

それだけだった。それで、よかった。


   ◇


ところが、別の問題が起きた。


「ちょっと待って」


書庫で、レオン様が、私の差し出した紙を見て眉を寄せた。


「これ、何?」

「来月の、騎士団の行事予定です。それと、ガイウス様のお誕生日と、レオン様が先週おっしゃっていた、馬具屋の支払いの期限」

「最近、俺の予定表、作ってない?」

「念のためです」

「いらないよ」

「ですが」

「自分でやるから」


レオン様は、紙を丁寧に二つに畳んで、私の手に返した。


「…………」

「今、残念そうにした?」

「していません」

「した」

「していません」


レオン様は、声を出して笑った。

それから、急にまじめな顔になった。


「リディア」

「はい」

「君、好きになった男の世話、全部したくなるでしょ」


私は、紙を握ったまま固まった。


好きに。

なった。

男の。


「……どなたの話ですか」

「さあね」


レオン様は、兵法書を棚に戻した。

戻す場所を、間違えていた。私は直さなかった。


「だからさ」


レオン様は、棚のほうを向いたまま言った。


「半年」

「……半年?」

「半年、俺の予定表を作らずにいられたら、今度は俺から誘う」

「半年も?」

「今、何日あるか数えた?」

「数えていません」

「嘘つけ」


百八十二日だった。


レオン様は笑って、間違えた場所に入れた兵法書をそのままにして、帰っていった。


扉が閉まってから、侍女のエマが、お茶を下げに入ってきた。


「お嬢様、お顔が赤いですよ」

「暖炉の火が、強いので」

「火、入れておりませんが」


エマは、それ以上何も言わずに、間違えた場所の兵法書を直そうとした。


「そのままにしておいて」

「え?」

「……そのままで」


エマは、首を傾げて、兵法書から手を離した。


   ◇


その夜、自分の部屋で、予定表を開いた。


今は、私の分しか書いていない。

ページが、ずいぶん白い。


半年後の欄を、開いた。

何も書かなかった。


書かないことにも、だんだん慣れてきた。


ペンを置いて、灯りを消しかけて、もう一度、ペンを取った。


その欄の隅に、小さく、点をひとつだけ打った。


(了)

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― 新着の感想 ―
お世話しすぎは良くないよね 5歳児のまま成長させないのは虐待でもあるみたいだし まあ、親の責任であって婚約者はなんの責任もないからどれだけ甘やかそうが悪いとは思わんけども
成人男性を寝返りもまだの赤ちゃんに変えてしまうダメンズクリエイターですね。ドラえもんものび太を助けようとして実質救いようのないクズにしているあれと同じです。
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