第33話「戦いの代償——『上杉は退いた。されど、本当の戦はここからだ』」(前半)
夜明け前の出羽の山道は、静寂に満ちていた。
昨日まであれほど轟いていた喊声も、鉄と血の匂いも、今は嘘のように消えている。残るのは、朝靄に濡れた杉の香りと、どこかで鳴く鳥の声だけだ。夜露が葉の先に宿り、ぽたりぽたりと落ちる音が、やけに大きく聞こえた。戦場というものは、終わった後の静けさが、最も雄弁に死の重さを語る——そう、兼続はいつも思う。
上杉軍の撤退行列が、出羽の深い森の中を粛々と進んでいた。
その列の中ほどで、直江兼続は馬上に揺られながら、静かに目を閉じていた。
兜を外した頭に、夜明けの冷気が心地よく触れる。汗と埃にまみれた髪に、朝靄の湿り気が染み込んでいく。しかし兼続の頭の中は、少しも休んでいなかった。知将と呼ばれる人間の業というのは、戦場が終わっても思考が止まらないことだ。
(——今回の戦を、最初から振り返ってみよう)
上杉が庄内へ侵攻した。本庄繁長の判断は正しかった。機は熟していた。大宝寺義勝という大義名分もある。戦力差も申し分なかった。
それなのに——なぜ、こうなった。
(上杉の侵攻を事前に予測し、伊達への援軍要請をすでに完了させていた。鮭延秀綱を絶妙な時機に庄内へ送り込み、尾浦城の陥落を防いだ。そして今頃——秀吉への報告書も、もう準備されているはずだ)
すべてが、一つの意志によって動いていた。
偶然が重なるにしては、あまりにも精緻すぎる。まるで、最初から「こうなる」と知っていたかのような——。
(——これを描いたのは、義光ではない)
兼続は、眉をわずかに寄せた。最上義光は優れた武将だ。「羽州の狐」の異名は伊達ではない。だが、あの男はどちらかといえば、力と気迫で押し切るタイプだ。ここまで精緻な「仕掛け」を設計するような謀略家ではない——少なくとも、これまでは。
(では、誰だ)
脳裏に、ふと一つの噂が浮かんだ。
大崎合戦の和睦を仲介したという、信じがたい話。最上義光の娘——まだ七歳の幼女が、伊達政宗を動かし、無血和睦を実現させたという、にわかには信じられない噂。
(……まさか)
そう思いながらも、否定できない自分がいた。
「兼続殿」
不意に、低い声が横から飛んできた。
本庄繁長だった。馬上の巨躯が、こちらを向いている。白髪交じりの髭の奥に、鋭い目が光っていた。いつからそこにいたのか。この老将は、足音を殺すのが妙に上手い。
「何を考えておられる。さっきからずっと、難しい顔をしておるぞ」
「……少々、気になることがありまして」
兼続は静かに答えた。馬の歩調を繁長に合わせながら、言葉を選ぶ。
「今回の戦を振り返っておりました。繁長殿、一つお聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「……最上に、聡い人間がいます。我々の動きをすべて読んでいた。繁長殿も、感じておられたのではないですか」
本庄は、しばし黙った。
馬の蹄が、湿った土を踏む音だけが続く。鳥の声が、遠くなる。
やがて本庄は、ゆっくりと口を開いた。
「……あの噂の、七歳の娘か」
その一言は、問いではなかった。確認だった。
兼続は、静かに息を吸い込んだ。
(——やはり、繁長殿も気づいていた)
「大崎合戦の和睦も、今回の仕掛けも……すべて、あの娘が描いた絵図だと?」
「俺には分からん」
本庄は短く言って、遠くの山並みに目を向けた。夜明けの光が、稜線をうっすらと白く縁取り始めている。
「七歳の幼女が、これほどの策を。そんなことがあるはずがない——と思いたいがな」
思いたいが、と繁長は続けなかった。
その沈黙が、答えだった。
兼続は再び前を向き、朝靄の中に消えていく山道を見つめた。
頭の中で、「最上駒姫」という名前が、静かに、しかし確かに輪郭を持ち始めていた。
(——最上駒姫。七歳の幼女。いつか……会ってみたいものよ)
それは敵意ではなかった。警戒でもなかった。
純粋な、知的好奇心だった。
上杉の知将・直江兼続が、その智謀がゆえに「会ってみたい」と思った相手が七歳の幼女だというのは、なんとも滑稽な話だ。しかし兼続には、そう思わせずにはおかない何かが、この見えない敵手にはあった。
夜明けの光が、出羽の山々を白く染め始めていた。
同じ頃、庄内・尾浦城。
東禅寺義長は、城壁の上に一人で立っていた。
夜明けの薄明かりが、庄内平野をゆっくりと白く塗り替えていく。昨日まで黒煙と怒号に満ちていたその平野が、今は嘘のように静まり返っていた。遠く地平線の彼方に、上杉の旗印が——小さく、小さく、遠ざかっていくのが見えた。
義長は、しばらくそれを黙って見送った。
「……退いた」
掠れた声が、唇から漏れた。
「上杉が……退いた」
声が震えていた。武将として、人前で声を震わせるなど恥ずかしいことだと分かっている。それでも、止められなかった。
何日だ。何日、この城を守り続けた。
眠れない夜が続いた。城壁に突き刺さる火矢の音が、目を閉じるたびに蘇った。「もう終わりか」と思った瞬間が、何度あったか。それでも——城は落ちなかった。
ドン、と肩を叩かれた。
振り返ると、鮭延秀綱の豪快な顔がそこにあった。泥と血にまみれた顔で、それでも豪快に笑っている。この男は、どんな状況でも笑えるのだろうか。羨ましいような、呆れるような。
「守り抜きましたぞ、義長殿!!」
鮭延の野太い声が、夜明けの城内に響き渡った。
「……鮭延殿」
義長の声が、また震えた。今度は、止めようとしなかった。
「貴殿が来てくれなければ……陥ちていたに違いなかろう」
「何を言う!」
鮭延が、豪快に手を振った。まるで蚊でも払うような仕草で、義長の感謝を吹き飛ばす。
「礼を言うなら、姫様に言え。殿が『鮭延、庄内へ急行せよ』と命じたのは、姫様の策があったからだ。わずか七歳の駒姫様が、お主の城を救ったのだ」
「……なんと! 駒姫様が!」
義長は、ゆっくりと空を仰いだ。
夜明けの空が、白く、広く、どこまでも広がっている。朝の光が、庄内平野を優しく照らし始めていた。昨日まで死の匂いに満ちていたこの土地が、今は静かに息をしている。
山形城の方角を見つめながら、義長は静かに目を閉じた。
(——姫様。あなたのおかげで、この城は生きております)
その時、城内から一斉に歓声が上がった。
「上杉が退いたぞ! 我らの勝ちだ!!」
「守り抜いた! 尾浦城は落ちなかったぞ!!」
疲弊しきった兵士たちの声が、夜明けの空に向かって突き上がっていく。昨日まで死の恐怖に震えていた男たちが、今は子供のように喜んでいる。その声を聞きながら、義長はようやく、ほんの少しだけ、力を抜いた。
張り詰めていた何かが、ゆっくりと溶けていく。
「さあ、義光殿に報告だ!」
鮭延が元気よく言った。この男は、戦の後でも元気が有り余っている。
「……ええ」
義長は答えながら、もう一度だけ遠ざかる上杉の旗印を見つめた。
次は、必ず取り返す。
その誓いを胸に刻んで、義長は城壁から降りた。夜明けの光が、その背中を静かに照らしていた。




